第十六話 過保護な枷
冷たい石畳の感触すら忘れるほど、ルキハの抱擁は苛烈なまでに強かった。
私の華奢な身体を打ち砕かんばかりの力で締め上げ、彼のあごが私の頭頂部に強く押し当てられる。規則正しく奏でられるはずの彼の鼓動は早鐘のように乱れ、荒い吐息が首筋に吹きかかっていた。
「二度と……二度と、僕の視界から消えないでおくれ、リル……」
耳元で何度も繰り返される、掠れた低い声。
そこには、婚約者を無事に救い出した安息などではない、己の宝物を奪われかけた者の生々しい執着と狂気が渦巻いていた。
(……助かったのよね、私……)
腕の中でじっと息を潜めながら、私は冷めやらぬ恐怖に震える指先をそっと重ね合わせた。
スラム街のドブの臭いやならず者たちの欲望に満ちた視線は、ルキハの放つ圧倒的な存在感によって完全に塗りつぶされていた。だが、この腕の中に収まっていること自体が、別の種類の底なし沼に囚われているのではないかという冷ややかな戦慄が、背筋を駆け上がる。
「さあ、帰ろう。こんな汚らわしい場所、一刻も早く離れるべきだ」
ルキハは私を軽々と横抱きに抱え上げると、一度も足を止めることなく馬車へと歩を進めた。
背後では、サスタ率いる近衛騎士たちが迅速にてきぱきと後始末を進めている。ならず者たちは完全に拘束され、顔を地面に擦り付けられたまま一言も発することを許されていない。ルキハは彼らに一瞥すら与えず、ただ私だけを視線に収めていた。
◇
王宮へと戻る馬車の中は、息が詰まるほどの静寂に包まれていた。
向かい側に座るルキハは、私の手を両手で包み込んだまま離そうとしない。
窓の外から差し込む街灯の光が、彼の整いすぎた容姿を不規則に照らし出す。その赤い瞳は、揺らめく焔のように怪しく光り輝いていた。
「リル。君がどれほど恐ろしい思いをしたか、僕には痛いほど伝わってくるよ」
ルキハは私の手にそっと唇を寄せ、愛おしそうに目を細めた。
「君は可哀想な子だ。孤児院で苦しみ、王宮に来てからも身勝手な不審者に脅かされ……。でもね、安心してほしい。君の傷も、恐怖も、僕がすべて拭い去ってあげる。僕だけが君を救えるんだから」
(……出たわね、重度のメサイアコンプレックス……!)
心の中で冷や汗を流しながら、私は顔に完璧なしおらしさを貼り付けた。
「……はい、ルキハ様。私、本当に怖くて……ルキハ様が来てくださらなかったら、どうなっていたか……」
「そうだね。僕がいなければ、君は壊れていたかもしれない。だからこれからは、片時も僕のそばを離れてはいけないよ。君を守るためなら、僕はどんなことだってする」
彼の言葉には、救済者としての悦びと、相手を支配下に置くことへの陶酔がはっきりと滲んでいた。
私を哀れみ、救い出すことでしか自分の存在価値を証明できない男。
だからこそ、私という「庇護すべき存在」が危機に陥り、それを完璧に救い出したこの状況は、彼にとって至高の快感なのだ。
(恐ろしい男……。でも、これを利用しない手はないわ)
私はわざとらしく瞳を潤ませ、彼の胸元へと身を寄せた。
「……ルキハ様。私、もっと強くならなければいけませんわ。今日のように足手まといになって、あなた様にご迷惑をおかけしたくありませんもの。どうか、私に学問と……身を守るための術をお与えください」
私の健気な訴えに、ルキハはうっとりとした表情で私の髪を撫でた。
「もちろんだよ、僕の愛しいリル。君が望むものなら、何だって買い与えよう。家庭教師も、護衛も、最高のものを用意する。君はただ、僕の腕の中で守られていればいいんだから」
彼の言葉を頷きながら聞き入れつつ、私は首元に下げた小さな巾着の感触を確かめた。
中に収められた銀の鍵。そして部屋の瑠璃色の箱に隠された日本語の日記。
ルキハの異常な執着を利用し、彼の財産と権力を限界まで絞り尽くして破滅させ、最終的にこの美しい檻から脱出する――。
スラム街での死の恐怖を乗り越え、私の「黒い心」はより一層、固く冷ややかに研ぎ澄まされていくのだった。




