夏の頁
深い深いここら一帯の森は、夏になっても、その木陰で息づく者や訪れた者を燦々と輝く日の光から守ってくれていて、涼しいくらいであった。
天から舞い降りた夏の神は、地上の命をその歌声で活き活きとさせる。命の祭り。それが、この季節──夏である。
「お嬢様のお体のことはお嬢様が一番理解しておられると思いますが……」
ミーティアの月色の金髪を櫛で梳かしながら使用人の女性は不安そうな声で彼女に話しかける。
「そんなに、妖精と遊ぶことは楽しいのですか?」
「ええ、とっても!」
「ま、まさか妖精とは嘘で、本当は森の中で逢い引きを……」
「や、やだ! そんなわけないでしょう」
はわわ……と勝手に盛り上がる使用人に、ミーティアはドレッサー越しに手をぶんぶんと振ってその言葉を否定する。否定はしたものの、逢い引きという言葉にミーティアの白くまろい頬が赤くなる。
出会ってから数ヶ月が経った。
体がよく動くときに会いに行って、夕暮れまでずっと一緒にいる……妖精のように不思議で、けれど妖精ではないらしい"彼"のことを思うと、逢い引きというのもあながち間違っていないような気がしたからだ。
「そうですか? ほ、本当に……?」
「本当よ。安心して?」
「むむ……。今日はほんの少し霧雨が降っていますからいつもより涼しいですけれど……暑さには気をつけてくださいね?」
「それも大丈夫よ。ちゃんと飲み物、持って行くし。木陰をえらんで歩きますっ」
ミーティアのその言葉を聞いてやっと、使用人はほっとしたような顔をした。そして、「失礼しますね」と彼女のたっぷりとした髪を持ち上げ、濃い青色のリボンで一つに結んだ。いわゆるポニーテールだ。いつもの下ろした髪型よりうなじがいくらか涼しくて良い、とミーティアは思った。
「お嬢様。先週街で仕入れた木苺がどうにも酸っぱくて……砂糖漬けにしたら美味しくなったのですが、おやつに持っていかれますか?」
「木苺の砂糖漬け……! すてき、食べたいわ」
「よかった。妖精もよろこぶでしょうか?」
「ええ、きっと!」
(……でも、きっとあの子はわたしがどんなお菓子を持って行っても物珍しそうに食べてくれるわ)
ミーティアはそう考えると、どことなく体がうずうずとして、今日の霧雨が降るあいにくの薄い曇天も晴れてしまうような、そんな楽しい気持ちになるのだ。
「……っ! けほっ、けほっ」
「あ……! お嬢様!」
「大丈夫よ! むせただけ……」
「そう、ですか……」
ふと、ぐっと胸を締め付けられる感覚がしてミーティアは小さく咳き込む。病の発作だ。このところ増えている気がするのだが、ミーティアは努めて元気そうに振る舞った。これくらいのことで動けないでいたら、自分は本当に何もできなくなってしまう、誰にも会えなくなってしまう。そう考えていたからである。
それに、自分と会わない間、"彼"──ルカは何をしているのだろう。木々や動物……それこそ、妖精と話しているのだろうか。もしかしたら、ひとりでずっと待っているのだろうか。彼のことを考えると、会いたくて会いたくてたまらなくなってしまう。ひみつの友達、ルカに。だから、彼女は病の苦しさを感じている暇などなかったのだ。
◇
透き通るような澄んだ青い翼を持つ美しい鳥、青硝子鳥は、春の終わりから夏の終わり……あたたかい時期にかけてをこの森で過ごす渡り鳥であった。
彼らは木の洞に巣を作る。そんな青硝子鳥の巣に、無粋に手を突っ込む少年──ルカは、眠るひな鳥たちを起こさないようぐっとその中で指を握りこみ、そして引き抜いた。
「何をしてるんだろう……」
ルカはひとりごち、ため息をついた。ゆっくりとその手を開く。そこには、一本の青。巣に使われていた青硝子鳥の成鳥の羽根があった。──どうしてこの鳥の羽はこんなにまで、晴れた真昼の空のような色をしているのだろう。ルカは思った。それとも、空がこの鳥の色をしているのだろうか。ルカにはわからなかった。
青──青は、"彼女"……ミーティアの瞳の色だ。ルカは考える。けれど、彼女の瞳はこの羽根のようなするどく澄み渡るような色ではなく、もっと淡く、儚い色をしている。冬の夜、雪が降り積もって薄ぼんやりと光る獣道のような色。そうとも考える。髪の色もそうだ。彼女の髪は白に近い金色。そう──ルカの好きな花、アステリシアの花を照らす月光の色である。ミーティアはどこまでもやわらかくて淡い色を湛えていて、触れたら壊れてしまいそうで。
──それでも、もっと触れてみたくて。
それは、長い年月の間この森でひとりで生きてきたルカにとって、初めての感情であった。春に飛ぶ羽衣蝶のようにスカートの裾をはためかせ、しつこいくらいに構ってくる。……けれど、いつの間にか彼女に会う日を楽しみにしている自分が、彼の胸の内に生まれていた。
ルカ、ルカ! と、ルカの頭の中でミーティアの弾んだ声が響く。そのたびに、ルカの胸の奥も小さく弾む。
(いやな気持ちだ)
それでも、ルカはそう思ってしまう。
ミーティアは自分の命がわずかしかないことをルカに話した。たしかにミーティアの体はふわりとした服で隠れてはいるものの、風が吹けば飛びそうなほどやせっぽちであった。だから、ルカは彼女がどんなに笑顔であっても、その言葉を信じるしかなかったのだ。
どんな人間も、いつかは火が消えるように死んで、ルカを置いていく。それはミーティアも同じで、それが、彼に課せられた──
「……いたっ! いっ、ごめんったら!」
ルカの思考はするどい痛みで中断された。巣を荒らされた青硝子鳥のつがいがルカをくちばしでつつき翼で叩く。森の動物たちにとってルカとは同じ仲間であり、けして怪物ではないのだ。慌ててルカは木から飛び降り、逃げるようにその場を去る。手には青い羽根を握りしめて。
「……。喜ぶわけないのにな」
口に出して、それは嘘だと彼は思った。だって彼女は──ミーティアは、きっとどんなものでも喜んでくれるのだから。
ルカはそこまで考え、やはり思うのだ。……会いたい、と。
◇
朝から霧雨の降るこの森の今日は、風が吹けば涼しいものだが、そうでない時はじっとりと汗をかかせるなんとも不快な日であった。
ミーティアはいつものバスケットに、木苺の砂糖漬けが入った瓶を入れて、生成り色の薄手のブラウスに紺色のスカートを合わせた姿で森へやってきた。待ち合わせのためにと幹に十字の傷を入れた木の下で、彼女はしばし待つ。
「ミーティア」
「……! ああ、ルカ! こんにちは」
「……こんにちは」
ルカが木の後ろからやってきた。
ぱっと破顔するミーティアを見て、ルカはやはりそっと目をそらしてしまう。けれどそっと返事をした彼に、ミーティアは嬉しい気持ちでいっぱいになるのであった。
「今日はなんだか暑いしじめじめしているわね」
「……。体の調子は」
「あ、ふふっ。大丈夫よ。きっとかんかん照りの日よりずっと楽だわ」
「そうか。……泉にでも行くか?」
「まあ! 泉があるの?」
「……うん」
ミーティアは目をきらきらとさせた。ルカはそんな彼女を見て、そっと片手を差し出す。彼女は一言「ありがとう!」と言うと、彼の手を取った。ルカのもう片方の手には、澄んだ青色が握られているのだが、ルカはそれを隠したし、ミーティアはそれに気づかなかった。
ふたりは歩き出す。ルカはこの森のあらゆる良いところを知っている。長い時を、ここで生きてきたからだ。彼は森のことも、自分のことも、話すことは今までなかった。話し相手がいなかったからだ。このツノの生えた姿を怪物だと恐れられてばかりだったということもある。けれど、今は少しずつ、彼女……ミーティアに自分の知っていることを教えている。
──いずれは、自分自身のことも彼女に教えるのだろうか。そう、ルカは考える。
(ミーティア。僕はかつて、君と同じだったんだ)
そう、切り出すのだろうか。自分の全てを話すのだろうか。……考えた瞬間ぞわりと背中を襲う悪寒──拒絶されるかもしれないという予感に、彼は思わずミーティアの手を握る力をぎゅっと強めてしまった。
「……ルカ? どうしたの?」
「……どうしたのって、何」
「ええと……ううん、何でもないわ」
ミーティアはそう言うと、ルカの手をそっと強く握り返した。ルカが何となく何かをはぐらかしたことに彼女は気づいていたが、それよりも彼が自分の手を強く握ってくれたことが嬉しかったのだ。
(ルカ。わたし、あなたといることがこんなにもうれしいの)
そう言ったら、彼はまたその金色の瞳をそらしてしまうだろう。だから、今は言わない。ミーティアにとって、ルカは初めての友人でもあり、外の世界に連れていってくれる王子さまであった。そっと、彼女は彼の頭に生えたツノを見つめる。彼は、生まれた時からこんな姿だったのだろうか。生まれた時から、怪物だったのだろうか。それはあんまりだともミーティアは思ったし、しかし生まれた時は怪物ではなかった……という想像も、ミーティアの心を締め付けた。
物語の中の。ツノを持つ森の国を滅ぼした怪物。
もしそれがルカなのだとしても、ミーティアはやはり、彼から離れがたかった。たとえ何が彼の過去にあったとしても、今のルカは、ミーティアにとっては優しくて美しくて物知りで、不思議な男の子なのだ。
「ねえルカ。わたし、今日はいつもと違うところがあるでしょう」
こんなことをいたずらっぽく言ってしまうくらいには、ミーティアはルカのことが好きであった。ルカは立ち止まるとミーティアを見て、首をかしげた。
「……。……髪型?」
「そう!」
「だから何だ……」
「暑い日にぴったりでしょう。……似合ってる?」
「女性の髪型のことはわからない」
ふいと前を向くルカに、ミーティアはポニーテールを揺らしてほんの少しだけいじわるを言った。
「もう。世の中すべての女性じゃなくて、わたしのことを見て?」
ルカはその言葉を聞いてあらためて彼女を見つめる。きょろきょろと驚いたように瞳を動かし、そしてすっと息を吸い、言葉を返した。
「……いいと思う」
ミーティアはぴょんと跳ねた。ふわりとスカートが揺れる。片手で繋いでいたルカの手を両手で包み込んで、ほわりと笑った。
「うれしい……」
彼女の笑顔を見たルカは、あの春の日、ふたりで菓子を食べたときのように口の中が甘さでいっぱいになり、そして──顔が内側から熱くなっていく気がした。
「行くぞ。ミーティアと話していると日が沈んでしまう」
「あっ。……もう、ふふ」
ぐいっと、繋いだ手を引っ張るルカに慌ててついて行くミーティアは、それでも笑っていた。
◇
「やっぱり、ルカってこの森のきれいなものをたくさん知っているのね……」
靴を脱いで、ちゃぽんと泉に足先をひたし、ミーティアはしみじみと呟いた。
「ふふ、冷たくてきもちいい」
「体を冷やすなよ。それ以上進むな」
「あっ……先に言われちゃった」
「行くつもりだったのか……」
ぽんぽんとミーティアが自身の隣を手で軽く叩くものだから、ルカは許されたような気がして、彼女の隣に座って靴を脱いだ。ふたりして、泉に足をひたす。ちょうど木陰になっているそこは、霧雨のじめじめも無く涼しくて心地がよかった。
「ルカ」
「……うん」
そっと、ミーティアの手がルカの手に重なる。静かな時が流れる。キキ、と遠くで夏の虫の鳴く声が聞こえた。
ルカはそっともう片方の手で、青硝子鳥の羽根を握る。そして、それを自身の手に重なっているミーティアの手の甲に乗せた。
「あら? ……まあ! 鳥の羽根?」
「……あげる」
「いいの? きれいな青……晴れた空の色ね」
少女は空いていた片手で羽根をつまみ、薄い雨雲からわずかに見える太陽の光にそれを透かして見た。青硝子鳥……と言われるだけあって、その青は光に当たるときらきらとひかる。ミーティアがうっとりと羽根を見つめているのを、ルカはじっと見つめていた。
(うまく目を合わせられない)
ルカはそう思っていた。
長い間生きてきて、人間との話し方を忘れてしまった。けれど、ミーティアとはもう出会って数ヶ月、夏になる。そろそろ、すらすらと言葉が出てきても良いと彼は思っていたのだが、これが思った以上に上手くいかない。上手くいかなすぎて、彼女を知らず知らずのうちに悲しませている気がして、ルカは怖かった。
そして、ルカにとって怖いことはまだある。ミーティアが長くは生きられないことだ。彼女は、他者に生かされることをエゴだと言った。この森でひっそりと生きて死にたいとも言った。
死にたい。
それは不死の獣であるルカも抱いている願いであった。でも、叶わない願いだとも思っていた。しかし、ミーティアにとっては違う。彼女にとっては近いうちに必ず叶う願いなのだ。それが、何よりもルカを恐れさせ、そして寂しいと思わせた。──ルカは、ミーティアに置いて行かれたくないと、いつしかそう思うようになっていった。
「お礼しないと。あのねルカ……今日は木苺の砂糖漬けを持ってきたの。すき? 木苺」
「……、ああ、うん」
「よかった」
ほっとした声を上げ、ミーティアは青硝子鳥の羽根をバスケットにしまい、代わりにぎっしりと濃い赤の入った瓶を取り出す。一度ルカの手から手を離し、きゅ、ぽんと蓋を開ける。
「手、出して?」
「うん」
二、三粒の木苺をルカの手のひらに置いたミーティアは、嬉しそうに笑った。
「家の人が街で木苺を買ったのだけれど、とっても酸っぱかったんですって。だから砂糖漬け。ルカは酸っぱい木苺にあたったことはある?」
「……ある。黒いくらい熟れたやつが甘くて美味しいんだ」
「まあ! ふふっ、でも砂糖漬けにするなら赤いものよね」
「そうだな」
ひょいっと、ふたりは同時に木苺の砂糖漬けを口に放り込む。
すると、しゃり、と砂糖が小さくはじけた。そのあとから、甘い果汁が広がって、香りは少しだけ酸っぱい。
夏の日差しをぎゅっと閉じ込めて、砂糖の衣でくるんだような味だった。思わずもう一粒食べたくなるような、瓶に詰められた森の小さな宝石。
「おいしい……!」
「……うん。美味しい」
「うふふ、ルカのお口にも合ったみたいでよかったわ」
こうして、菓子を美味しいと思えるのも、ミーティアに会えたからだ。──ルカは思う。食べなくても生きていけた。菓子なんてもっと、無くても生きていけた。でも、ミーティアは会うたびに菓子を持ってくる。「おいしい?」と言いたげに見つめてくる。自分も、彼女も、死にたいはずなのに……菓子を美味しいと思う気持ちは、強く強くあるのだ。それが、ルカにとっては切ない気持ちでいっぱいになる。
ミーティアの体がいつか病で崩れ去る時、ふたりで菓子を食べている余裕など、きっと無いだろうから。この"おいしい"という気持ちも言葉も、死にたいではなく生きたいから生まれた言葉ではないのだろうか。ルカは考えるたびに目の奥がぐっと苦しくなる。
(ミーティア。お前はそれでも死にたいのか)
そう、聞きたくなるくらいには、ルカは苦しかった。
「……ミーティア。見せたいものが他にもあるんだ」
「まあ、なあに?」
「僕の家」
「ルカのお家……! ええ、見たい、見たいわ……!」
ルカは勇気を出そうと思った。この目の前のか弱い少女に、自分の本当のことを話そうと思った。
……拒絶されるかもしれない。そのときは──またひとりになるだけだ。"だけ"と言うには、ミーティアとの別れは強い強い痛みが伴うだろうと、ルカははっきりとわかっていた。
いやな気持ちであった。だが、彼女を想うたびに幸福が彼を包んだ。
死にたいなんて言わないで。ルカの心は叫んでいた。
そう、ルカは、いつからかミーティアを……。
「……っあ! ごほっ、ん、うぐっ……!」
ルカが立ち上がりミーティアに再び手を差し伸べようとした時、ミーティアは強く咳き込んだ。締め付けられ絞り出すようなその音に、ルカは慌てて彼女の背中をさすった。
「ミーティア、ミーティア……!」
「ご、めんなさい。ふふ、むせちゃった……」
「むせただけでそんな顔色になるか……! ……調子が悪いんだろう?」
「……でも、ルカの家、行きたいわ」
「ダメだ。また今度にしよう」
また今度。それを聞いた真っ青な顔色のミーティアは、淡い青色の瞳を曇らせる。
「今度なんて、ないかもしれないじゃない……」
「……!」
彼女の泣きそうなその声を聞き、彼もまた泣きそうになった。
「……。ミーティア、お前、本当は生きたいんじゃないのか?」
「……いいえ、苦しいのはもうたくさん」
「僕は……僕も、永遠の命なんていらなかった。でも……前言っただろう? お前が来てくれるから孤独に耐えられるって。……生きていられるって」
「……ルカ……」
「僕は……お前に、生きていてほしいよ」
少年の言葉は、少女の胸に染み渡っていく。そしてミーティアは、ひしとルカに抱きつくと、呻くような声でこう言った。
「わたしも、ルカとおんなじになれない……?」
それは、ルカにとっては苦しいだけの言葉であった。
「なれない。……僕が不死の獣になったのは、今はもう失われた魔法のせいだ」
「……ぅ……、そんなの、あんまりよ。ルカ、ルカ……わたしだって、ほんとうはあなたと一緒にいたいのに……わたし、あなたを置いていってしまう」
震えながら、それでも言葉を紡ぐミーティアを、ルカはぎゅっと抱きしめ返した。
「……僕は、死なないでって想いで魔法をかけられた。その結果、獣のツノが生えた。死ねなくなった。……だから、死ねるお前がうらやましいのも本音だ。あの春に言ったように」
「……ぐすっ。うん」
「でも、今は……ミーティア、お前の終わりが少しでも長らえればと、思う。できる限り、僕はミーティアと一緒にいたいよ」
共に生きることも、死ぬこともできない少年と少女は、しばし抱き合っていた。
やがて、ミーティアはルカの腕の中で、もぞりと身じろぎをしてルカを見上げた。
「うれしい……でもそれ、愛の告白みたいよ? ルカ」
わざとらしくからかうようなそぶりを見せたミーティアであったが、ルカは彼女を強く抱きしめ、その月色の髪に頬をすり寄せた。
「愛の告白じゃ、ダメ?」
「あっ……、く、ぐ……けほっ、げほっ!」
一度、二度と彼女は再び咳き込むと、安心したように脱力し、ルカの腕の中で目を閉じていた。……今のルカの言葉は、どうやらミーティアには届かなかったようだ。
「……お、おい、ねえ、ミーティア」
ルカはミーティアの頬を手の甲で撫でたが、彼女はすうすうと息を立てていた。
「もう……」
そんな彼女にふうとため息を吐くと、ルカはそっとバスケットごとミーティアを抱え持ち上げた。そして、その厚い前髪に覆われた額に、そっと口づける。……ルカは自分のしたことに、顔から火が出たように真っ赤になってしまった。
「……はあ……」
それでも、自分の腕の中で目を閉じる少女を見ていると、彼はたまらない気持ちになった。生きていてほしい。隣にいてほしい。笑っていてほしい。そんな想いが生まれ、春の花のようなかぐわしい香りと、夏の木苺の砂糖漬けのような甘酸っぱさを抱いてルカの心を駆け巡る。
「おやすみ、ミーティア」
ルカは呟く。
霧雨が止み、空が晴れ始めていた。ミーティアのバスケットの中の青硝子鳥の羽根が太陽の光を浴びてきらきらと光る。そして、空もまた、そんな澄んだ青に競うかのように澄み渡り、輝いた。
◇
夏の夜は短く、考え事には向いていない。ルカは、そう思う。
ルカは屋根も床もほとんど無い、ぼろぼろの建物の……地下室に、座り込んでいた。ここが、ルカの家なのだ。──かつて、この森には小さな国があった。そして、彼が座り込んでいるこの場所こそが、その国の王族の城であった。キキキ、と小さく夏虫の声がする。そんな中で、彼はじっと黙り込んで、考え事をしていた。
自分は、いつから"こう"なのだっけ?
そう思えば、すぐに答えは出てくる。覚えている。今から数百年、あるいは千年も前……ルカは、ただの人間であった。人間の、王子だった。
そして、そんな王子の体はとても弱かった。暑さにも寒さにも弱く、何かあればすぐに倒れてしまう。ベッドの上から動けない存在。
誰もがそれを悲しく思っていた。どうにかしたいと思っていた。そして、どうにかしてしまったのだ。
ベッドに横たわり目を閉じている王子の手を、そっと握る者がいた。王宮に仕える魔法使いであった。彼……いや、彼女だっただろうか、ルカは覚えていない。──とにかく、魔法使いは歌うように呪文を紡いだ。すると、王子の体はかあっと熱くなり、そして死を感じるほど冷え切った。ひどく頭痛がし、彼は魔法使いに手を伸ばす。
(どうして)
(何をしたの)
(どうしてこんなことをしたの)
声に出せない想いを視線だけで魔法使いに向ける彼に、魔法使いは泣きそうな顔で応えるのであった。
「私は、貴方に生きていてほしいのです。王子殿下」
「私はずっと、考えていました。どうすれば王子殿下を救えるのかと」
「そして、貴方を生かす方法を、やっと見つけました」
「民の命を使って、貴方を生かすのです」
そんなの、そんなの──身勝手だ。だってたった今、こんなに、死ぬほど苦しいのに。王子はそう思った。そう思った途端、胸の奥から黒いどろどろとした感情が彼の中から生まれた。
恐怖、狂気、怒り、悲しみ。
獣の本能だ。
呑まれたくない。そう思った頃には遅かった。彼はベッドから飛び出し、魔法使いの首に手をかけていた。ぎりぎりと首を絞め上げられていても、魔法使いは泣きそうな笑顔であった。
(こんなことしたくない)
(このままでは殺してしまう)
(だけど──)
自分が殺しに躊躇の無い獣になりつつあることを、王子は感じていた。がしゃん! とランプの火が落ちる。徐々に周りが炎に呑まれていく中、それでも魔法使いは言うのだ。そっと、ポケットから淡く光る花──アステリシアの花を出して。
「生きてください、王子……貴方を愛しています」
やがて、魔法使いは動かなくなった。
部屋は豪奢なシーツや絨毯に炎が引火し、息苦しいほどの煙に満ちていた。王子は渡されたアステリシアの花を振りほどき、泣きながら部屋を出て走った。花は音も無く燃えていった。
愛というものがこんなにまで恐ろしいなんて、知らなかったから。痛くて寒くて、怖かったからだ。
城の外に出たら、空は白んでいて、朝が来ていた。しかし、民たちの気配は無い。
誰か、誰か……! と王子は走る。走ることができていることに、かつて病弱であった王子は気づかなかった。
そして──気がつけば森の泉まで来ていた。熱でかさかさになった喉を潤そうと泉を覗き込んだ時……。
夜闇の中でも光る金色の瞳が。
冠のような、白く巻いた、ツノが。
「……っ!」
ルカはここで思考を一旦止めた。周りを見渡せば、そこはやけに静かな城下町でもなく、燃える部屋でもなかった。もう、それらは無いのだ。時が経ち、消えて無くなった。
はくはくと息をし、ルカは背中を壁にぐったりと預けた。
「愛、か……」
愛。彼が考えないようにしていたことだった。あの魔法使いは、国民の命を使ってルカに魔法をかけた。不老不死の獣になる魔法を。それが、魔法使いにとっての愛なのであった。だからこそ、ルカは誰も愛したくないと思っていた。魔法使いの愛は、とてもまっすぐなものであることは理解していたけれど、ルカには痛みを感じるものであったし、そんな者の手で獣に変じた自分の愛は、誰かを傷つけるものだろうとも思っていた。
けれど……ルカの胸には、愛が芽生えていた。あの月色の髪の儚い少女──ミーティアへの、愛が。ルカはできることなら彼女に自身の優しさを全て与えたかった。でも、それができるかわからなかったのだ。
愛し方が分からない。
抱きしめて、手を繋げば良いのだろうか。愛していると囁けば良いのだろうか。どうすれば、彼女が生きている間に、この気持ちを全て伝えられるのだろう。
「ミーティア」
ルカは舌の上で彼女の名前を転がす。木苺の砂糖漬けのような、甘い味の名前。ふと、彼はすっかりぼろぼろになった小さなテーブルを見る。その上には、黄ばんだ白色の冠が置いてあった。──アステリシアの花冠。ミーティアがルカに最初に贈ったもの。ルカのこの感情の始まりのものだ。光らなくなっても、どんなに色褪せても、ルカはこれを捨てることができなかった。今でも、時折頭に被っては、あの出会いに想いを馳せる。
『世界って、とってもきれいなのね……』
ミーティアは花畑の中でそう言った。
ルカは相変わらずまっすぐそうとは思えない。でも、彼女がそばにいてくれるなら、何もかもがきらめいていて、美しいと思えるのだ。
「……本当に綺麗なのは、ミーティア、きっとお前なんだよ」
ルカはそう呟き、膝を抱え目を閉じた。
◇
ふ、とミーティアが目を開けたとき、空は暗く、やわらかな月の光が窓から入っていた。夜になっていた。もぞりと音を立てて起き上がると、枕元には昼間に髪を結んでいた濃い青色のリボン。ナイトテーブルには蠅帳が被せられた皿と、水差しにコップ。そして青い鳥の羽根が置かれていた。それに、ネグリジェ姿であった。どうやら、使用人が寝かせてくれたらしい。けれど、屋敷までどうやって来たのだろう? そう彼女が思っていると、くう……と寂しいお腹の音がした。誰もいない部屋でぽっと顔を赤らめ、蠅帳を取って、皿の上に置かれていたサンドイッチを口にした。塗られたバターの香ばしい匂いと、野菜の瑞々しい甘さが口いっぱいに広がる。
──おいしい。
食べ物がおいしいと、生きている気がする。そう、ミーティアは思うのだ。
生きていたって、苦しいことが続くだけなのに。できることなら、楽しいことだけして死にたいのに。
そのことを……死について考えていると、必ず頭の中をよぎるのが──夜色の髪に金色の瞳、しろがねのツノの少年。ルカ。不死の男の子。ルカ。
きっと、彼がここまで運んでくれたのだろう。あの黒いぼろの服を被って、ツノを隠して。
そっと、ナイトテーブルに置かれた青い羽根を手に取る。何て名前の鳥なのか、ルカはミーティアに教えてくれなかった。……その前に、ミーティアが倒れてしまったのだけれど。けれど、その青色は、今空に浮かぶ月光に照らされていると昼間とは色が変わって見えて、まるで透明と言って良いほど澄み渡っていた。
「……ルカ」
ミーティアは呟く。いつの間にか、何よりも愛しくなってしまった彼の名前を。そして、いつ会えるか分からなくなるかもしれないその名前を。彼女は枕元に置いてあったリボンで、羽根の付け根をきゅっと結んだ。次に会えたとき、ふたりのお守りとして彼に渡せるように。──そして、もし会えなくなったら、使用人にあの幹に十字の傷をつけた木の下に置いてもらうのだ。
ありがとう。さようなら。の証として。
「……ふっ、うう、んぅ……」
そう考えた瞬間、ミーティアの口から嗚咽が漏れ、シーツの上にはぱたぱたとしずくが落ちた。
この静かな森の屋敷で天寿を全うしたい。
いやだ。あの子とずっと一緒にいたい。
ふたつの心が、ミーティアの中で交差する。その度にずきりずきりと胸が痛んだ。
医者は、せめて痛みを少なくする方法しか教えてくれなかった。苦い薬を飲んで、ベッドに横たわって、日の光を浴びて──。そうして、死神が訪れるまでの日々を過ごした。ミーティアの両親も、彼女が苦しんでいる時、同じくらい苦しんでいた。泣きそうな顔で、彼女の手をそっと握るのだ。
ミーティアは、それがいやでいやでたまらなかった。誰かを苦しめるくらいなら、こんな人生終わらせてしまいたい。そう思っていた。
けれど、彼女は出会ってしまったのだ。愛してしまったのだ。彼を。──ルカを。
少し素っ気ないけれど、いつも優しく手を握ってくれて……菓子を一緒に食べてくれる、男の子を。
『本当は生きたいんじゃないのか?』
ルカはそう言った。その時は否定したけれど、今のミーティアは───。
「生きられるかぎりせいいっぱい、あなたと生きていたいわ。ルカ……」
彼女以外誰もいない部屋で、そっと羽根とリボンで作った飾りを胸に抱いて、涙をこぼすのであった。
「うっ……ぅ、ぐ、げほっ、ごほっ!」
涙さえ静かに流させてはくれないのか。ミーティアの胸はぎりぎりと痛み、喉がざわざわと掠れる。ベッドのそばのベルを鳴らすと、程なくして使用人が慌てて入ってきた。
「お嬢様! 痛みますか。咳止めを持ってきました。水も新しいものに変えましょうね」
「あり……がとう」
やはりミーティアは、誰かに任せきりの人生が嫌なのであった。
苦い苦いシロップ薬を飲まされ、水で喉に流す。しばらくすると、苦しさは治まってきた。そういえば、ルカは風邪をひくのだろうか。ふと、彼女は考える。不死の存在が風邪なんてひかないだろうとも思ったが、もし季節の変わり目などに体調を崩すのならば、例の今日行けなかった彼の"家"で丸まって過ごしている気がして。ミーティアはおせっかいながら、彼にこの薬草でできた咳止め薬を持って行ってあげたくなった。
「……お嬢様、そちらは?」
そんなことを考えていると、使用人がそっとミーティアの手元を見つめる。そこには青い羽根と青いリボンで作った飾りがあった。
「あ……この羽根ね、妖精からもらったの」
「まあ! そうだったのですね」
「……いつも、その妖精といると、新しいものばかり見せてもらえるから……だから、ありがとうの証で作ったのよ」
「……そうですか。……お嬢様、今日屋敷の扉をノックした者がいたのです。貴女様を抱えた、黒い外套を被った者が……。礼を言おうとしたら走って去って行ってしまいまして」
「……!」
「もしや、あれが妖精なのですか?」
ミーティアの胸は弾むようなうれしさでいっぱいになった。間違いなくルカだ。ああ、次に会えたら、やっぱりこの青と青のお礼を渡して、言葉でもお礼をしないと。
──そして、ミーティアはやはり思うのだ。わたしは、あの子が好きだと。
「ええ……! そうよ。羽根も生えてないし、ぴかぴか光ってもいないからびっくりしたでしょう」
「ええ……私が想像していた妖精とだいぶ違いました。纏う雰囲気は少し怖いくらいで……」
「ふふっ。本当は、全然怖くないのよ。今日の木苺の砂糖漬けもおいしそうに食べてくれたわ」
「まあ……でも、お嬢様」
令嬢の弾む声音ににこにこと笑顔で返していた使用人は、すっと真面目な顔をする。それをを見たミーティアは、思わず羽根飾りを再び胸に抱きしめた。
「これから暑くなってきます。しばらくは外出はお控えください」
「あ……。わたし、これを……」
「……秋に渡しにいきましょうね。秋は境界の季節です。暑さと寒さ、緑と茶色……きっと、お嬢様の体調も、不調に偏ることはないでしょう」
「そうかしら……」
「そうですよ。大丈夫、大丈夫……。さ、もう眠りましょうね」
「……はい」
しぶしぶ横たわったミーティアの上に、使用人は羽根布団をかける。もぞもぞと身じろぎをし、ミーティアは窓越しに空を見上げた。満月とも違う、ほんの少しだけ欠けた月。けれど安心させてくれる、やさしい光。
だからこそ、ミーティアは苦しかった。次、ルカに会えるのはいつだろう。秋、秋の境界に立てなかったら? 冬、冬に凍えてしまったら? 春、またふたりでアステリシアの花を見たいのに、それが叶わなかったら?
使用人がお辞儀をして部屋から去る。それと同時に、ミーティアの瞳には厚い水の膜がはった。ぐすりと鼻をすすると、その水はぽたりと頬を伝って落ちた。彼女は月から顔をそらし、布団のなかにうずくまる。ああ、あの子に会いたいのに。せめてこの気持ちを伝えてから死にたいのに。──ううん、やっぱり死にたくない。ずっとルカと一緒にいたい。
ミーティアの心はぐちゃぐちゃと様々な感情が混ざり合ってしまった。
「すきよ、ルカ……」
あえかな声が布団の中に響く。誰も聞いていない、その声は、もちろん彼にも届くはずがなく。森で遊びたい。菓子を食べたい。抱きしめたい。手を繋ぎたい。そんな小さな願いが泡のように生まれては弾け、ぽつんぽつんと涙の音を流し、ミーティアは気づけば夢の中にいた。彼と共に、笑い合う夢を。




