春の頁
春のある日の物語。
かつては女神が天から舞い降りて、芽吹きの詩を歌う時と誰もが信じていた。
それが春という季節である。
あの満月の日での出来事の後、ミーティアは再び森の奥へ赴こうとしたのだが……やはり疲れが溜まっていたらしく、熱を出して寝込んでしまった。
再び起き上がって外の世界への憧れを思い出すのに一週間がかかり、さらに使用人たちを説き伏せて自分の体調が落ち着いてきたことを納得させるのにまた一週間がかかった。その間に、春は訪れた。
森の一部の木々の固く結ばれていたつぼみが解け、白に近い薄桃色の花が綻んだその光景は、まるで森のところどころに淡く美しい雲がかかっているかのようであった。
そしてミーティアは、あの夜思った木の実を練り込んだパンとハーブと果物のシロップ、それにベリーのジャムを挟んだクッキーをバスケットに入れた。ネグリジェではないが締め付けの少ないワンピースを身にまとい、その淡い月色の髪は三つ編みを編み込んだハーフアップにして、自室の姿見の前でくるりと回った。
「よし。どこもおかしくないわ」
コンコン。控えめなノック音が鳴る。ミーティアが「はあい」と返事をすると、入ってきたのは使用人の女性であった。
「失礼いたします。……お嬢様……本当にお一人でお花見に?」
「ええ。せっかく調子が良いんだもの。それに春の花を間近で見たいの」
ミーティアの言葉を聞いた使用人は心配そうな目をする。そんな彼女にミーティアは再びくるりと回ってみせた。ふわりとスカートがふくらむ。
「森にはね、妖精さんがいるのよ」
「妖精……ですか? ここ最近見なくなった、あの?」
「ええ!」
舞い上がったスカートが落ちる。ミーティアはいたずらっぽく片目を瞑ってみせた。
「お嬢様がそんなにまで楽しそうにしているのを見るのは、久しぶりです。でしたら、妖精用にシロップのためのカップも準備しなければいけませんね」
「まあ! うれしい、ありがとう」
「ふふっ。妖精たちと楽しい時間を作れるといいですね。……ですが、日が落ちるまでには帰ってきてくださいね? 体調が少しでも崩れてもですよ?」
「ええ、わかっているわ。心配してくれてありがとう」
使用人の笑顔にミーティアはやわらかな笑顔を返す。楽しい時間という言葉に、彼女の胸はあたたかくなった。
(よろこんでくれるかしら)
ミーティアの心の中には、あの日出会った──妖精──ツノの生えた少年の姿が映っていた。
◇
「ルカ! ……ルカ……! ねえ、いるかしら……!?」
森の中を今度は靴を履いて歩き、しばらく経ったところでミーティアはくるりと辺りを見渡し呼びかける。あの時の夜の森とは違い春の森は見上げれば緑色と咲き誇る花の薄桃色に覆われていて、やわらかな命の甘い香りが降り注いできた。
「いいにおい……これが春のにおいなのね」
「……ミーティア」
「……!」
ミーティアが肺いっぱいに春の空気を吸い込んでいると、彼女の横から声がした。ミーティアがそちらを向くと、黒い髪に白いツノを戴いた少年が足音もなく歩いてきていた。目と目が合うと、彼……ルカはふっと目をそらした。
「本当にまた来るなんてな」
「本当に待っていてくれたのね」
すると、ルカはむすっと「待ってなんていない」なんて言うのだ。ミーティアにはそれが何だかいとけなさを感じる仕草に見えて、彼女は口元に手をあてて微笑んだ。
「あのね、ルカ。パンとお菓子を持ってきたの。約束通り。わたしのお気に入りの味のシロップも一緒よ」
「約束なんてしていないだろう。お前が勝手に言っただけだ」
「あら? でもあなたはあの時うなずいてくれたわ」
「う……」
「ね? 一緒に食べましょう?」
視線を足元に外していたルカが、ミーティアを見つめた。そして、言葉を紡ぐ。
「お前、よく『お前には敵わないな』って言われないか?」
「え……。そう言われてみると、そういうときもあるわね。お父さまとか」
「ほら。わがまま、強引」
「まあ! ひどいこと言うのね」
「そうだ。僕はひどいやつだ」
「でも、敵わないんでしょう? わたしには」
「はあ……。もう少し奥に行きたい。ついてこい」
「うふふ」
くるりと踵を返すルカに、ミーティアは弾む足取りでついていった。ふと、彼女の近くに美しい真っ白なレースのような翼の蝶が舞う。歩きながらそっと指を差し出すと、蝶はミーティアの指を休憩場所にするかのように止まった。
「ルカ、見て。ちょうちょよ」
ミーティアが前を歩くルカに声をかけると、彼は足を止めて振り返った。そしてミーティアの指に止まるひらひらとした存在をなんてことのないように見る。
「……羽衣蝶なんて珍しくもないだろう。派手な羽を見せてくる人なつっこい虫だ」
「あら、わたしは見るのも触れるのも初めてよ」
「……ミーティア。お前、どんなところで育ったんだ」
「わたしの話? それは、食べながらお話するわ」
「……そうか」
「ええ」
ふわりと羽衣蝶は休憩をやめミーティアの指から飛び立つ。踊るように飛んでいくそれは、そよ風に揺れる花が咲く空に溶けるように見えなくなっていった。
◇
「ルカはこの森のいいところをたくさん知っているのね」
「……ずっとここにいるから」
ルカとミーティアは森の中でもいっとう大きな木の下に来ていた。その木はまるで雲を纏っているかのように薄桃色の花を存分に咲かせ、さわさわと風が吹くたびに枝葉をゆらりゆらりと小さく揺らし、花弁を舞い踊らせていた。
「……一番古い木なんだ。この森で……」
「そうなの? すてきね……まるで見守ってくれているみたい」
根元に腰掛け、ミーティアは木を見上げる。淡い花の雲と、そこから漏れるやわらかな陽光が彼女の目にじんわりとしみた。
「見守ってくれている。そうかもしれないな」
「ふふ。きっとそうよ。……ルカって、この木の妖精だったりしないの?」
「またそんなことを言う……僕は花でも妖精でもない」
「じゃあ、なあに?」
ミーティアの近くに座り、ルカは彼女の興味深げな碧眼を見てわざとらしくぐわりと口を開く。
「怪物だ」
彼の口元からほんの少しとがった牙が覗く。しかしミーティアは、そんな彼の開いた口にクッキーを放り込んだ。
「! ……うわっ!」
「おいしい?」
「い、いきなり何するんだ」
「このクッキーね、わたしの好きな銘柄なの。たまにお父さまが贈ってくれるのよ」
「……ミーティア、お前僕の言ってること聞いていたか?」
「ええ、あなたが怪物だって話でしょう? 本で読んだわ、この森にはツノの生えた不死の怪物がいるって」
「そうだよ。それが僕だ」
「でも、一緒にクッキーを食べてくれるでしょう? 話をしてくれるし、歩いてくれる。だからわたし、あなたのこと何も怖くないわ」
「……変なやつ」
何てことのないように少女はそう言うものだから、少年は面食らってしまった。──少なくとも、ルカは自身のことをずっと怪物だと思ってきたのだ。それを「あなたは怪物ではない」という存在の否定はしないまま、『友達』だと受け入れるようなミーティアの言葉に、彼は心臓を鷲掴みにされるような感覚を覚える。
パンも持ってきたのよ。と言いながらそれを取り出し半分にむしるミーティアを、ルカはまじまじと見てしまった。彼女の月色の髪が春風に吹かれてふわりと揺れる。人なつっこい小鳥がそばに降り立ち、恵みを待っていた。
「はい、ルカ。このパンもとっても美味しいのよ。あなたも食べる? 小鳥さん」
パンの半分をルカに押しつけ、ミーティアは自分のパンの欠片を小鳥に恵んでいた。ちゅんちゅん、ちちちと鳥の喜びの声に耳を傾けながら、ルカはため息を吐いた。
「僕は食べずとも生きていける」
「……不死だから?」
「そう」
「でも、不死でも、きっとパンもクッキーも美味しいでしょう? あ、シロップは飲む? 濃いめに割るわね」
持ってきたハーブと果実のシロップをとくとくと二つ用意したカップに注ぎ、水差しから水を注ぐ。その間に、ルカは何となく居心地が悪いような、それでもここにいたいような、ぐちゃぐちゃとした気持ちになって、気持ちを別方向に行かせるためにパンをちぎって口に運んだ。小麦の甘さと、練り込まれている木の実の食感が口の中で遊ぶ。
──美味しい。
そう、ルカは思った。
ルカがふとまたミーティアを見ると視線に気づいた彼女はふわりと笑った。差し出された白い陶器のカップをルカは大人しく受け取る。ミーティアがシロップを飲み始めたのを見て、ルカもカップに唇をつけた。淡い甘さの中に花の香りが溶け込んでいる。まるで朝露を含んだ花弁を口にしたような、清らかで繊細な味わいであった。
パンもクッキーもシロップも、すべてがミーティアの好きな味だ。そんな味たちに包まれたルカは、やはり何とも言えない、言葉にできない気持ちになった。
「どうかしら、おいしい?」
それでも、彼女の言葉に一応は感想を言おうと思った。
「……悪くない」
「そう! よかった」
おずおずとルカが答えれば、ミーティアはまた笑う。──花。そう、花のようだ。とルカは思った。ちまちまとパンをむしって口に運び、その度に顔を綻ばせるミーティアは、そんな彼の考えにはまだ気づいていなかった。ただ、好きなものを友人と共有できる。そんなことでも、ミーティアにとっては初めての経験で、そして今どんなことよりも心を弾ませる、嬉しいことであった。
彼女は決して今まで不幸を感じたことはない。けれど、何もかもが初めてばかりで、そしてそれら全てが幸せで、いつも食べているお気に入りの食べ物ですら、特別なごちそうのように感じていた。わたしのこの気持ちを、ルカはきっと知らないのだろう。──そう、ミーティアはルカに思う。けれど今はまだそれでよかった。ルカがもぐもぐと口を動かす姿が、まるで不死の怪物なんて大仰な肩書きとは真逆で、彼女にはたまらなく愛らしく思えたから、今はそれで、良かったのである。
◇
「わたしの話、してなかったわね」
すっかりパンを食べ終えた後、そう、ミーティアは切り出した。
「わたしね、あまり長くは生きられないの」
「……。は……?」
ちみちみとシロップの水割りを飲んでいたルカの口が、飲むためではなく困惑の色を出すために動く。ミーティアはそれを見て眉尻を下げた笑顔を見せた。
「わたしの体、暑くても寒くてもすぐダメになってしまうし、咳も胸の痛みもいつだってあるの。何度も危なっかしい橋を渡ってきたけれど、きっともう……限界が近いわ」
来年の春には、きっと、もう。
そうミーティアは言う。ルカは──絞り出すような声で彼女に話しかけた。
「じゃあどうして、あの時森にいたんだ。ずっと家で寝ていれば、道に迷うなんて危ないこと……なかっただろ」
「……。……憧れちゃうじゃない? 知らないものって」
「憧れ……」
「空も、土も、木も、星も、花も。わたしにとってはすべてが遠かったの」
「……あそこで迷ったままで、僕が見つけてなかったらお前は苦しくなっていたかもしれないのに?」
「それでもよ。それでも……うつくしい世界の一部を、見てみたかったの」
「……ばかなのか?」
「あっ、ひどい」
ルカは立ち上がりミーティアを見下ろした。その金色の瞳には同情も憐憫も無かった。ただ、怒りのようなわけがわからないといった感情が渦巻いている。
「世界は美しくなんてない。僕がその筆頭だろう……世界というものは人間のエゴでできていて、自然だって人間の持ち物になってしまった。星ですらそこにいるだけで人間は勝手に意味を見出そうとする」
しかし、その言葉も、可哀想と言いたげな心なんて無い眼差しも、ミーティアにとっては救いのように感じた。
「ルカはひとのエゴでできているの?」
「そうだ。僕は……いや、お前には関係ない」
「あるわよ。おともだちだもの」
「……。……」
「ルカ、エゴでできているのはわたしも同じよ。……それは、親心という愛なのかもしれないのだけれど、苦しくて苦しくてたまらなくても、お父さまとお母さまはわたしが死ぬことを許さないの。だから……わたしはあの人たちから離れた。この森の中の屋敷で、ひっそりと、生きて、死ぬのよ」
「……。僕も、死ぬことを許してもらえなかった。だからこの体になった。僕はミーティア、お前がうらやましいよ。いつか必ず来る終わりのために、世界の美しさを探して生きていけるのだから。僕にはそれすら許されない。きっとこの世界が終わったとしても、僕の終わりは来ないんだ」
ミーティアは言葉を紡いだ後、クッキーをつまみ、ルカはシロップの水割りを飲み干した。しばしの静寂がふたりの間を訪れる。
先に沈黙を破ったのはミーティアであった。
「だからわたし、物語のように生きたいの」
ルカの事情を、ミーティアは知らない。死ぬことを許されないから、世界が終わっても終わりの来ない体にされた。それがどういうことなのか、自分が生きているうちにルカは話してくれるだろうか。──話さなくてもよかった。ただ、自分の在り方……どう生きたいかだけはこの不思議な少年に伝えたいと思ったのだ。──その理由もミーティアは知らない。
「あなたのいるここは、世界の果てのようね。世界で一番美しい花があって、そして……あなたがいる。わたしね、あなたのこと、やっぱりとても綺麗だと思うの。ルカ」
「それは、何でなんだよ」
「生きているから。この大樹のように、深く太く強く、ここに根を下ろしているから」
ミーティアもまた立ち上がった。そして、無防備だったルカの手をそっと両手で包み込んだ。ルカはびくりと身を震わせる。しかし、振り払おうとはしなかった。
「それに比べたら、わたしはなにものにもなれないのよ」
「……それは、違うだろ」
「ルカ?」
明るい彼女の自嘲的な微笑みに、ルカは思わず声を上げていた。
「ミーティア。お前は……僕の友達なんだろう? それなのに、何者にもなれないなんて言うのか?」
「……あ……」
「それは……違うんじゃないか。お前は、僕の初めての友達なんだよ。このツノが生えてから、僕はずっとこの森でひとりぼっちだった。けれどお前が来た。だから……待てるんだ。耐えられるんだ。孤独に。お前が、長く生きられないとしても」
その言葉にミーティアの瞳に厚い水の膜が張る。それがつうと涙となって頬を伝った瞬間、両手の塞がったルカは彼女の頬に唇を這わせた。柔らかく熱い舌が涙を拭う。
「きゃ、ルカ……!」
「……知ってるよ。僕は古い物語になって、そこでは不死の獣って呼ばれてるって。……獣に舐められたと思うんだな、ミーティア」
「で、できないわ。ルカは男の子じゃない」
「……。……男扱いも久々だ。昔は僕……獣を退治しようとした"勇敢"な者たちもいたからな」
「その人たちを、あなたはどうしたの?」
「ずっと隠れてた」
「……ふふっ。殺さなかったのね。やさしいひと。ほんとうに、やさしいひと」
まるで小さな子猫や子犬が戯れるかのように、ルカはミーティアの涙の止まらない頬を舐め、ミーティアはそれを受け入れていた。
◇
「……ルカ。この木を見せてくれてありがとう」
すっかり泣き止んだミーティアはそう言う。それを聞いたルカは急に気恥ずかしくなり、自身の獣の部分で舐めた彼女の頬を服の袖でごしごしと強く拭った。
「い、いたた、もう、ルカ……」
「……」
「もう泣いてないわよう」
「うるさい。……この木は、僕が幼い時からずっと、この姿をしていた」
大樹に背を預け、ルカはふっと木漏れ日越しに空を見上げた。
「でもきっと、僕より早く死ぬ。この木だって」
「ルカって、本当に長い時を生きてきたのね」
「……」
ルカは視線を降ろし、じっとミーティアを見つめた。大樹が咲かせる花がそよ風に吹かれて散る。満開の花弁を抱いた枝ががさわさわと揺れる。ミーティアはというと、彼女もまた空を見上げていた。前髪に薄桃色の花弁がふわりとひとひら乗っているのを見たルカは、彼女に手を伸ばす。
「……ついてる」
「え? まあ、ふふっ、気づかなかったわ。ありがとう」
ミーティアはにっこりと笑う。そしてそっと手を差し伸べてくるものだから、彼女の白い指先に花弁を置いたルカは、まるで罰が悪そうに視線をそらした。
「ありがとうの話の続き。わたし、ルカと今日この木を見られてありがとうって気持ちよ。きっとちょうど満開なのね」
「……。……うん」
「わたしの目、あまり上手く見えないのだけれど……それでも、空を見上げれば空の青と花びらの桃色……白? が綺麗にとけ合っていて……とってもきれい」
「……そうだな」
「それに森中とっても良い香り。……いつかルカを置いてこの木が枯れるとしても、わたしはこの花びらを押し花にするし、ルカはずっとここにいる。それって、忘れないってことよ。約束で、願いなの」
ほんの少しだけ、遠くを見つめるように目を細めて、ミーティアは続ける。
「わたしからまた会いましょうって言ったのに、あの夜から今日まで何週間も待たせてしまってごめんなさいね。疲れて倒れて、ずっとベッドに伏せていたの」
「……別に待ってなんていない。時間の感覚ももう無い」
「……そう」
ぶっきらぼうなルカの口調に、ミーティアは目をふせた。ずっと彼女から視線をそらしていたルカだったが、ミーティアの寂しげな小さな声を聞いて目を泳がせ、喉をぎゅうと詰まらせ、言葉を選んだ。
「……。……今の調子は、悪くないか」
絞り出すような声は、それでも先ほどの声より幾分か優しくやわらかかった。
「……! ええ、今はいつもより元気よ」
ミーティアはぱっと表情をほころばせ、ルカを見つめ返す。泣いてもいない、苦しんでもいない、淡い青い瞳を持つ薄桃色の頬のかんばせを見たルカは、口の中が先ほどまで食べていたクッキーのような甘い味でいっぱいになったような──そんな不思議な気持ちになった。
「わたし……これからも約束を守れるかわからないけれど、でも、何度でもルカ……あなたと約束がしたい。この森のきれいなところを、あなたの世界を、もっと見てみたいの。ルカ」
「約束をやぶったら、そんなお前を僕が憎むとしても?」
「……憎まれても、必ず最後にはあなたのそばにいたいの。あなたのために約束をして、あなたを考える……それが、わたしの生きる力になるのよ」
次にルカに見せた彼女の笑顔は、ほんの少しだけ憂いを帯びて寂しげなものであった。先ほどまで口の中が甘さでいっぱいになっていたルカは、今度は胸の奥から深い藍色が漏れ出すのを感じた。夜の色だ。
(──僕がかつて感じていた、夜の森でひとりで泣いていた時の気持ちだ)
ルカは過去に思いを馳せる。もう考えたくもないと思っていた、長い長い孤独の時間を想った。そして、頬笑むミーティアを見て、今を考える。自分に比べたら──否、大抵の人間に比べたら早くに死んでしまうであろうミーティア。
何でもない存在にしたかった。
あの夜、アステリシアの花畑に気まぐれに連れていった時までは。
世界は美しいと笑う彼女を見て、ルカの中にはどうしようもないほど、甘い菓子の味も夜の色も──花の香りも……生きてきて感じてきた全てがこみ上げてくるのだ。
だからこそ、彼は──そう、寂しさを忘れるほど生きてきた獣のルカは、この人間の少女に寄り添うことで、己のやわらかな心を取り戻したいと思ってしまった。それが、どんなに痛みを伴うことだとしても、鈍くなっていた方がいいことだとしても……それでも、ミーティアのそばにいるためには、己の硬い心の牙や棘は必要なかったのだ。
「……」
「……ルカ?」
ルカはミーティアの手に手を重ねていた。ミーティアの態度や心とは裏腹に冷えきった手に、ルカの彼女よりわずかにあたたかい体温が重なる。彼女は驚いて目を見開き、そしてルカのその行動を受け入れた。
「憎まない。ミーティア、いつだっていい。お前が僕に会いたいと思った時に、僕は待ってる。……待つのは得意だよ、時間なんて僕には無いものと同じなんだから」
ルカはほんの少しだけ嘘をついた自身に、内心自嘲の笑みを浮かべた。こんなことを彼女に言ってしまっては、彼女を待つ時間を感じてしまうくせに……と。
ミーティアはルカの言葉を聞いて、こくりと頷いた。本当は寂しい? と聞きたい言葉をぐっと飲み込んだ。それを聞くよりも、ルカが待っていてくれることが彼女にとっては嬉しかったのだ。
彼を待たせてしまうかもしれない自分が、ミーティアは悲しかった。本当は毎日だって会いに行きたい。もっと彼のことが知りたい。教えてくれなくても、そばにいたい。この美しい夜色の髪の、しろがねのツノの生えた王子と。
彼女は、彼との出会いを、本当に運命の神が導いてくれたものだと信じていた。
「ルカ。会えなくてもわたしのこと、忘れないでね」
「……忘れるものか。お前みたいな、変わったやつ」
「ふふ。ルカだってわたしに優しいわ、わたしを可哀想って言わない。変わったひとよ」
そして、ミーティアはルカの頭に両手を伸ばす。びくりとルカは身を震わせたが、それもそれきり。彼は彼女がするままにしていた。
ミーティアは、ルカの頭を両手でそっと引き寄せ、自身の胸に当てた。座ったまま抱きしめた。ルカは突然のことに完全に体をこわばらせてしまった。そして、ルカの頭の上に降り立っていた花弁をミーティアはその指でそっと取り、愛しげにツノに頬ずりをした。
「お、まえ。ミーティア。急になにを……」
「……どうしてかしら、あなたと離れがたいの……」
「……、本当に、変わってる。物好きで、怖いものなし……」
「そうかも……」
「……でも、」
ルカは自身の頭に回されたミーティアの細い腕に、手を添わせた。そして、震えた声で言葉を紡いだ。
「……もう少しだけ。お願い、ミーティア」
ミーティアは彼の髪を撫でた。
「ええ、もう少しだけ……ゆるして」
春の花が咲き誇る森で、月色の髪の少女とツノを持つ獣の王子は、ふたりとも目を閉じて、お互いの体温を胸いっぱいに吸い込んでいた。
必ず、近いうちに永遠の別れが来る。だからこそ、この運命の出会いの喜びも悲しみも、全てを宝物にしたかった。
この出会いを大切に思うからこそ、胸がきしむ思いがする。けれど、形は違えどずっと心の内に寂しさを抱えていたふたりは、こうして寄り添っている間だけは……吐き出せない痛みも何もかもを、互いの体温と森いっぱいにひろがる花の香りが抱きしめてくれる気がしていたのだ。
春は芽吹きの季節。ふたりの心の奥底にも、薄桃色の花がつぼみから花へと咲き始めていた。




