秋の頁
秋は境界の季節。誰もがそう言った。活き活きとした生の季節、夏と、静かな眠りの季節、冬。そのふたつの橋渡しとなる季節、秋。いのちたちは夏のさいごを彩るように木々の葉に色を付け、冬のはじまりを待つかのように枯れ始めるのだ。
ミーティアはバスケットを片手にそんな枯れ葉が落ちる森を歩いていた。
あの夏から、もうずいぶん経った気がする。否、経っているのだ。夏の間、ミーティアはルカに会いに行くことができなかった。夏の暑い日々は、森のいのちを活き活きとさせていたが、ミーティアにとっては苦しいものであった。──それでも、彼女にとっては、彼に……ルカに会えないことの方が、涙が出るほどつらかった。
(ルカ、わたしのこと、忘れてないかしら)
そんな、ありえないことを考えながら、ミーティアは待ち合わせの十字の木まで歩く。そして、その考えをすぐに頭から追い出す。そう、ルカがミーティアを忘れるわけがないのだ。あの優しい、獣が。彼女を、忘れるなど。
ルカは木の下にいた。花束のような……黄色く色づいた葉を集めて手のひらに抱え、うつむいてそれを見つめながら佇んでいた。
「ルカ……!」
「……! ミーティア」
ミーティアが彼に呼びかけた時、ルカははっと彼女の方を見つめ、そして今日は目をそらさなかった。その金色の瞳でじっとミーティアを見つめ、そしてそっと葉の束を彼女に差し出した。
「……ルカ……これって」
「……あげる」
「きれい……秋の花束だわ。ありがとう」
香りのない、けれど鮮やかな黄色に頬ずりをして、ミーティアは微笑んだ。ルカはミーティアから目をそらさず、見つめ続けた。
「体は?」
「……ええと」
ルカの問いに、今度はミーティアの方が目をそらした。
「良い、とは言えないわ」
「……は? 帰った方がいい……」
「いいえ、あなたに会いたかったの。どうしても、あなたに、ルカ」
そして、ミーティアはバスケットに黄色い花束を入れ、代わりに──青を取り出した。澄み渡るような夏の空の青い羽根が、深い夕暮れの青のリボンで彩られている。あの夏の日、ルカがミーティアに贈った青硝子鳥の羽根に、ミーティアが自身のリボンをつけたのだ。
もらったものに別のものをつけて贈るということは、ミーティアにとっては独創性がなくて、ほんの少しだけ恥ずかしいことであったが、それでも、彼女も彼に贈り物をしたかった。差し出された青い羽根飾りを見たルカは、目を見開いた。
「青……」
「青は幸福の色よ。わたしも……ルカにしあわせになってもらいたいの」
「この羽根、僕があげたやつじゃないか」
「え、ええと……えへへ?」
「はあ……。……でも、ありがとう」
そっと、ルカがミーティアに手を伸ばす。また手を握ってどこかに連れていってくれるのかと、ミーティアは思ったが……それは違った。彼はミーティアの月色の髪に触れ、そして頬を優しく撫でた。彼の細い指はほんの少しだけ筋張っていて、自分のそれとも、使用人とも両親とも違う感触がした。
(男の子の指だわ)
ああ。ルカはやっぱり、わたしを忘れてはいなかった。そう思うと、まだ今日は始まったばかりなのに、ミーティアはどうしようもなく泣きそうになってしまうのであった。
「ルカ、会えてよかった。わたし、今とってもうれしいの」
「……僕もだ。本当のことを言うと、ミーティア、お前に会えただけで……。……」
「……だけで? なあに?」
「……もう、とっくにしあわせだ……」
それだけ言うと、ルカはミーティアから手を離し、そしてふいっと目をそらしてしまった。その仕草がミーティアにはいとけなさを感じて、彼女は唇に手を当ててくすくすと笑った。
「わ、笑うな……!」
「ご、ごめんなさい。……あのね、ルカ。わたしもあなたに触れてもいい?」
「……は……。いいけど」
「まあ! ありがとう」
最初に出会った頃とはとても違う反応であった。かつてのいばらのような彼の心は、彼にとってはとても短い間に、やわらかくほどけていたのだ。それがミーティアにとってはたまらなく嬉しいものであった。
ミーティアは一歩ルカに近づくと、その白く細い指で彼の頬へ、ほんの少しだけ背伸びをして触れ、優しく片手の甲で撫でた後、両手で包み込む。秋の風のせいで冷えた体温。しばらくすると、ルカはミーティアの手をそっと振りほどき、片手を掴んだ。
「……僕の家、見せてあげる。あの時行けなかったから」
急に話題を変えたことは、彼の照れ隠しだと、彼女は気づいていた。気づいていたからこそ、からかいはしなかった。
「うれしいわ。もしかして洞窟? それとも小屋?」
「どっちでもない。……面白いところでもないけど……ミーティアには見せたいし、話しておきたいことがあるから」
「ええ、ルカの見せたいものも話したいことも、ぜんぶ受け止めるわ。連れていって、ルカ」
「……うん」
ふたりは歩き出す。ふたりの革でできた靴がざ、ざ、と落ち葉を踏む音を奏でる。
秋は境界の季節──ルカは、その境界を一歩踏み出そうとしていた。
◇
広場のように開けた場所。そこにだけ木々は遠慮するように無く、ところどころに岩のような──しかし人工物のような白色の建物の一部があった。
「ここが、ルカのお家?」
「うん」
「屋根もほとんどないわ……雨の時はどうしているの?」
「……こっち、来て」
ルカは変わらずミーティアの手を引く。その力が少しだけ弱まったのをミーティアは感じ、ぎゅっと強く握り返した。
「……ミーティア?」
「もっとぎゅってして。わたし、どこにも行かないから……」
「……。……ありがとう」
「わたしが、あなたと一緒にいたいだけよ」
「……そう」
改めて、ふたりは手を繋ぎ合う。
そして、白い壁の特に寄り集まった場所で、ルカは足を止める。彼はしゃがんで、地面──否、床に積もった土埃を払う。すると、床には取っ手のついた小さな扉があった。
「この下。この下が僕の家。……はしごだけど、大丈夫?」
「だ、だいじょうぶ。先に降りてくれる?」
「ああ」
「……あっ。見上げちゃだめだからね? スカート、ペチコートは一応穿いているけれど……」
「!? ばか、そんなことしない!」
「ふふ。じょうだんよ、ルカはそんなひとじゃないって知ってるもの」
ミーティアにひとしきりからかわれたルカは、まったく……と呟きながら、床の扉を開けた。両開きのそれはぎ……と古びた音を鳴らし、そしてその中にははしごがかかっていた。彼はそれに足をかけて、慣れた様子で降りていった。その姿を見て、ミーティアも恐る恐る降りていく。
(ルカのお家……何があるのかしら)
食べなくても生きていけると彼は言った。だからキッチンはきっと無いだろう。睡眠は取るのだろうか? それはミーティアは知らなかったが、彼女は彼に、なるべくやわらかなベッドで安らかに眠っていてほしかった。いろいろなものがあると良い、とミーティアは思った。がらんどうの部屋で眠る不死の男の子なんて考えただけでさみしいと思ったからだ。
そうして考えていくうちに、はしごの終着点が見えてきた。ルカはとっくに降りきって、ミーティアを待っていた。ミーティアが地に足をつけ見渡すと、地下であるにも関わらず、やわらかな光がぼんやりと辺りを照らしていた。
「ひかり……?」
「光? ああ……これだ」
その『部屋』には、簡素なテーブルと椅子、部屋の広さにしては高くて大きな、空っぽの棚、そして、これまた簡素な寝台があった。ルカが手に取ったのは、テーブルに置いてあった黄金色の結晶であった。片手に収まるほどの大きさのそれから生み出される光は、優しくてあたたかかった。
「"月のしずく"って名前の宝石なんだ」
「すてき……どこで手に入れたの? この森にあるの?」
「……ううん。貰い物だ」
ルカはひとつ、息を吸って吐く。
「この宝石は貰い物だし、この部屋は勝手に使ってるだけなんだ。……ある人の」
「そうなの? それって、どんなお方? ルカのお友達?」
「……友達じゃない。なれたかもしれないけど、今はもう友達にはなれない」
「……死んでしまったひと?」
ルカはうなずいた。
「……僕の昔話、聞いてくれるか? ミーティア」
彼はそう言ってベッドに腰掛ける。そんな彼を見て、ミーティアはそっと隣に座り、彼の手をその手で包んだ。冷たい手であったが、ルカには愛しい体温であった。
「聞かせて。ルカ」
「……ありがとう」
そしてルカは、初めて自身の身の上話をした。──境界を、越えた。
◇
「物語に出てくる森の小さな国……僕が王子として生まれた国がそう伝えられているのを知ったのは、僕にこのツノが生えて……僕を『国を滅ぼした森の獣』として討伐しに来た人間たちの話を盗み聞きしてからだったんだ」
ルカはぽつぽつと語り出す。ただそれだけのことで、彼が元は人間だったことを理解したミーティアは、ゆっくりと目を見開いた。
「僕は……ミーティア、お前によく似ていた。暑さにも寒さにも弱くて、すぐ倒れて……病弱で、なかなか部屋から出られない」
「そうだったの……いやなところがお揃いね」
本当に。と彼は苦笑する。そしてすぐその笑みを顔から消し、話を続けた。
「ここは穏やかな国だった。森に囲まれていて、小さな城下町があって。僕は窓から外を見るのが好きだった。窓辺に降り立つ小鳥に、パンくずをあげるのも好きだった」
ミーティアは黙って聞いている。その沈黙が、ルカには優しかった。
「……父も母も従者たちも優しくて、僕は恵まれていたと思う。特に優しくしてくれたのが、あるひとりの魔法使いだった」
「魔法……魔法がある時代のひとだったのね、ルカ」
「うん。この月のしずくも、その魔法使いがくれた」
「そうだったの」
「……それでも、僕の体はけしてよくならなかった。魔法も万能ではなかったんだ。……それを、魔法使いは許せなかったんだろう。あの人は僕の体をどうしても治したかったんだ。そして、禁忌に手を出した」
禁忌。その言葉にミーティアの肌は粟立った、ルカの手を包み込む手に力がこもる。ミーティアがきゅっと手を握ってきたのを感じ、ルカはそっと、空いている手で彼女の髪を撫でた。
「……。……怖いことをしたの? そのひとは」
「怖いこと……ああ。僕にとっては、とても恐ろしいことだった」
言葉とは裏腹に、ルカの手は優しい。
「魔法使いは、この国の民全ての命を生け贄にして、僕に魔法をかけた。永遠の命を与える魔法……民たちの生きる力を、全て僕に捧げたんだ。……その結果、僕はひとではなくなった。このツノは……その証だ。ひとの理から外れたものの、証」
「……っ!」
「……僕は、堪えられなかった。魔法使いは僕に生きてほしいと言ったけれど、僕は、あのひとを……。う……」
「ルカ……」
「僕は、怪物になった。人殺しの」
ミーティアの髪を優しく撫でたまま、ルカは俯いた。その肩は震えていた。ミーティアは、二、三度深呼吸をした後、ルカの手から手を離し……その両の手で、彼のツノの生えた頭を抱きしめた。夜色の髪に、頬ずりをする。
「ミーティア……」
「ルカ……。あなたは今、わたしを振り払って……殺したっていいのよ」
「……どうして、そんなことを言うんだ……」
彼女の言葉に、ルカの声は低くなる。その声を聞き、ミーティアは静かにルカに語りかけた。
「わたしは……今、この今、ルカといられて幸せなの。あなたが生きていてくれて、嬉しいの。だから、その魔法使いさんを否定できない……」
「……」
「ルカ。わたし、あなたを、愛してしまったの」
少女は、獣の少年の前髪越しに、そのひたいにキスを落とした。そして、もう一度彼を抱きしめる。彼は──ルカは、振り絞るような悲痛なうめき声を上げて、彼女を──ミーティアを抱きしめ返した。力強く、苦しいほどに。ルカは我慢をしきれずこぼれた涙声で、ミーティアに言い放つ。
「ミーティア、お前はひどいやつだ。死んでしまうくせに、生きられないくせに。死ねない僕を愛してるなんて言うな」
けれど、その言葉を聞いてもミーティアは抱きしめる力を強くし、言い返すのだ。
「いいえ、何度でも言うわ……。ルカ、あなたはわたしの、この苦しい生の中で見つけたひかりなの。あなたは、わたしのアステリシアの花。……花冠、たいせつにしてくれていたのね」
「あ……」
ミーティアはそっと、部屋の隅に飾られたしおれた花冠を見て微笑んだ。それが、とどめであった。ルカはミーティアを強く強く抱きしめ、わあわあと涙を流した。
「……っ、う……あ……、ああ……っ! どこにも、どこにも行かないで、僕をひとりにしないで……僕は、僕だって、ミーティア……! お前を愛しているんだ……っ!」
「ルカ、ルカ……! ああ……!」
「どうして……どうして、僕を置いていくくせに、この花冠のようにいずれ朽ちて散ってしまうくせに、僕に愛してるなんて言うんだ……。……っ、僕は、僕を愛してくれた、愛するお前がいなくなった後、どう生きれば良いんだよ……」
あとに残ったのは、獣ではなく、さみしいひとりの少年であった。
──少女は、静かに涙のしずくを少年に落とす。そして、彼の背中をやさしく撫でた。
「……わたしを、ずうっとずっと、忘れないで。ルカ」
「ミーティア……」
「あなたが花を見たとき、星を見たとき、わたしを思い出して……。そうすれば、ルカのなかでわたしはルカから永遠の命をもらうの。ルカといっしょに生きられるのよ。あなたとわたしは、あなたがわたしを忘れないかぎり、結ばれ続けるのよ」
ひっく、ひっく。と幼子のようにしゃくり上げるルカを抱き、彼女は愛をうたった。
言葉も出せなくなるほど泣きじゃくり続けたルカは、やがて鼻をすんすんとすすり静かになっていった。ミーティアを傷つけてしまいそうなほどに強く抱いていた腕をゆるめ、今度はふわりと存在を確かめるかのようにやわやわと彼女の背中に腕を回しなおした。
しばらくの間、彼は何の言葉も発さなかった。ただ、深く息を吸い、吐き、ミーティアを抱きしめ続けていた。ミーティアも、それ以上は何も言わなかった。黙ってルカの腕の中にいた。感じるのは、おたがいの体温。──涙に濡れていてもあたたかいそれは、生きている証。
「……愛してる。ミーティア」
ルカが、しずかに沈黙を破った。それは先ほどまでの今にも噛みついて食い殺してしまいそうな勢いの告白ではなく、そのたった今行われているやさしい抱擁のような、おだやかなものであった。彼の声は未だほんの少しだけ震えていたものの、部屋を照らす月のしずくの光のごとく安らかなものだった。
「……でも、きっと僕はミーティアのことを許せないと思う。僕を置いていったお前に女々しく恨み言を吐きながら……ずっと忘れず、この世界が終わるまで思い出の中のお前と生き続けるよ。……きっと、きっとそうだ。僕は、弱虫だから」
消え入るような声で彼は言う。
そんなルカを、ミーティアは子守唄を歌うような声音で包み込んだ。
「……弱虫なのはわたしもおんなじよ。ずっとずっと、病気で、かわいそうって目で見られるのがいやで、ひとりもいやだったの。だから、あなたの思い出のなかで永遠の命を手に入れたかった……」
「……そっか。なら、約束してくれないか。僕はミーティアを忘れない。だから、ミーティアも僕の中から消えないで」
「ええ、やくそく……。ルカが覚えているかぎり、わたしは……永遠よ」
ふたりは額と額をこつりと合わせる。前髪と前髪が交わり、ほんの少しだけくすぐったい。ミーティアがそのことにくすりと笑った。
「ねえルカ。あなた、ほんとうに王子さまだったのね」
「……昔の話」
「ふふっ。……ねえ、お姫さまじゃなくてごめんなさいね」
「なにを……」
「だってわたし、ドレスもかんむりも持っていないもの」
ルカはその言葉を聞いて、ほんの少しばかり目を泳がせると、その指でミーティアの頬を撫でた。
「あ……ルカ……? へ、変なこと言ったかしら」
「言った。……かんむりなら、また春が来たときに……僕が贈る。アステリシアの花で」
「……でもわたし、きっとそのときには、もう……」
「贈るから、それまで精一杯生きろ。ミーティア。春になったら僕の、お姫さまになって」
「……。……今じゃダメ?」
「……! ええと……」
「今、ルカのお姫さまになりたい。ダメ?」
ミーティアは小首をかしげる。その仕草に、ルカは耳まで赤くなった。泳いでいた目は逆に彼女に釘付けになり、金色の瞳が丸く見開く。
「ダ、メ……じゃない。……ミーティア、お前は永遠に……僕だけのお姫さまだよ」
「……うれしい」
少女の頬を撫でていた少年の指が彼女の顎で止まる。それを合図にしたように、ミーティアは目をゆっくりと閉じた。そしてルカは、もう一度──境界を越えた。
一瞬。だけれど、まさしく永遠のような時間。ふたりの影はひとつに重なっていた。あたたかくやわらかい、おたがいのいのちの感触。そして、同じくいのちを打つおたがいの心臓はとくとくと早鐘を鳴らす。離れたとき、ふたりの視線はどこにも泳がず、交わっていた。まつげが触れ合い、再び額が合わさる。
「わたしのルカ、わたしの王子さま。だいすきよ」
「僕も……何度だって言う。愛してる、僕のミーティア。僕の……お姫さま」
秋は境界の季節。生と死のあわいで、少年と少女はたしかに恋を知った。




