12:ハー君の病状
こうしてハー君は、生まれて初めて動物病院で診察
を受けることになった。大家さんは、この際だから
とあらゆる精密検査を依頼した。検査費や治療費は
いくら掛かっても仕方ない。なぜならハー君はもう、
うちの子なのだからと(我らの道! 我らの道!)
体重測定、体温、血圧、甲状腺、血液などの検査に
加えて、レントゲンの画像検査や、超音波検査……
その間ハー君は意識がなく、所謂昏睡状態だった。
浅い呼吸はしていたが、全く目を覚まさなかった。
誇り高きシャ・ドゥ・グティエール・リーブル※の
老いて病んだ体は、文字通り精密に、隅から隅まで
徹底的に検査された。
やがて大家さんとKさんが呼ばれ、獣医師から結果
が伝えられた。当然ながら検査の数値はことごとく
良くなかった。そして、二つの病名が伝えられた。
【猫後天性免疫不全症候群】つまり猫エイズ。そして
【糖尿病】どちらも重病である。
えーもうたいへーん(本当に大変)
猫エイズの主な原因は、ウイルスキャリアの猫との
喧嘩で、咬み傷からキャリア猫の唾液中のウイルス
が侵入して感染する場合がほとんどといわれている。
もちろん交尾の分泌液による感染や、母猫から子猫
へ胎盤や授乳を経由しての母子感染もなくはないが、
感染率が圧倒的に高いのは喧嘩による咬み傷らしい。
屋外に暮らす野良猫や、外飼いで出入り自由の猫の
感染率は20~30パーセント。完全室内飼い猫の
感染率は2~5パーセント以下だから、屋外で猫が
猫エイズに感染する危険性は、完全室内飼いの猫の
20倍以上になる。さらに屋外の雄猫は縄張り争い
で喧嘩することが多いから、雌猫に比べて感染率が
2倍も高いそうな。
ハー君の気性というか立ち居振る舞いを知っている
と、むべなるかなとは思ってしまう。正直、他の猫
と喧嘩しているところは見たことがないが、人間に
ハーッ!と凄んで一歩も引かない強面の猫が、他の
雄猫に対して服従したり、穏便に衝突を避けるとは
なかなかに想像しづらい。ときどき顔に負っていた
傷は向こう傷で、タイマンのとき逃げずに正面から
立ち向かうからこそ受けてしまう漢の勲章なのだ。
(ちなみに逃げて背中やお尻に負う傷は逃げ傷という)
人間の四倍速といわれる猫の体感時間ではかなりの
長期間、この界隈のボスとして君臨したハー君だ。
ときには縄張りに侵入してくる流れ者?の雄猫との
激闘もあったと思われる。そうした喧嘩で感染した
可能性は極めて高い。糖尿病も口内炎も、猫エイズ
による免疫力の低下がもたらした日和見感染※か。
厳しい屋外環境と加齢に伴う体力の低下で感染発症
する負の連鎖、悪循環。もちろん推測の域は出ない。
ただひとつ確かなのは、ハー君は今、きわめて危険
で重篤な状態に陥っているということだ。
大家さんは検査代と治療費、薬代を払った。あとで
聞いてびっくりするくらいのけっこうな金額だった
が、大家さんは苦笑しながら言った。
「タイミングよく、コロナの給付金が入ったでしょ?
これはハー君を助けなさいと神様が与えてくれたに
違いないと確信して、ありがたく一括でポンと♪」
一括でポン。我らの道! 我らの道!(←もういいよ)
ハー君はキャリーケースに入れられて、大家さんと
Kさんと一緒にタクシーでマンションに帰ってきた。
そして駐輪場でも、1F給餌スペース横の段ボール
でも、Kさんの部屋の前の段ボール別宅でもなく、
最上階の大家さんの部屋に迎え入れられた。二度と
外に出ることはない。ハー君はもう野良猫ではなく、
優しい飼い主がいる完全室内飼いの猫になったのだ。
しかし容体は予断を許さない。目を閉じたまま全く
動かず、呼吸は浅く、不自然ないびきが続いていた。
どんなに呼びかけても、体を擦っても、反応はない。
このまま目覚めることなく、呼吸と心臓が止まって
しまう可能性も大いにあった。帰宅途中だった私の
スマホに、大家さんからLINEが来た。
『帰ったら、すぐうちに上がってきてください』
急げおれ。死ぬなハー君。おれが帰るまで待ってろ。
余計なことは考えないようにして、ひたすら急いだ。
しかし頭には余計な考えがよぎる。泣きそうだった。
死ぬな。
なんとかなれーッ!




