11:ハー君、倒れる
5月最後の日曜日。休日出勤していた私のスマホに、
大家さんからLINEが届いた。
「すみません。ハー君の具合が悪いようなので、病院
に連れていきたいのですが、逃げ回るのでなかなか
捕まりません。帰ってきたら、手伝ってください」
食欲がないらしく、三日もご飯を食べていなくて、
しかも口から出血しているとのこと。内臓の疾患か、
口内炎が原因か? 或いは隣のマンションの猫嫌い
の住民が薬を撒くと言っていたが、その薬物による
中毒か?何にせよ、病院で診てもらわなければ原因
は分からないし、治療の仕様もない。21時半に帰宅
して合流する予定だったが、夜も遅かったので捕獲
作戦は終了していた。ハー君は、警戒しながらも、
差し出されたちゅーるを少しだけ食べたが、ご飯は
やはり全く食べなかったらしい。
翌朝、ハー君は隣のマンションのKさんの部屋の前
にいた。昨日よりは少し持ち直したように見えたが、
相変わらず、ご飯は食べてくれない。これで4日目。
しかも今朝はちゅーるも食べなかった。口元の血が
痛々しい。別宅の段ボール箱にぐったりと横たわる。
かなり弱っていたので、チャンスかもとKさんが、
病院に連れていくための必須アイテム:洗濯ネット
を手に近づいて身柄を確保しようとしたが、ハー君
はその瞬間だけ電光石火の動きを見せて、逃げた。
別宅の段ボールベッドで熟睡するハー君(元気な頃)
猫は、24~36時間以上、何も食べないでいると、
肝リピドーシス(脂肪肝)など致命的な病気を発症
して危険な状態になる。ちゅーるは少し食べている
とはいえ、タイムリミットは、もう過ぎているのだ。
私はその日15時までの勤務だったが緊急事態だし、
少し早上がりしようかなと考えながら、休憩時間に
大家さんからのLINEを見たら……
「今、病院に連れてきています」
(え、どういうこと? ハー君、身柄確保できたん?)
そうなのだ。一旦は迫りくる洗濯ネットから逃れた
ハー君だが、猫の限界を超えて4日間:96時間も
何も食べていないので気力も体力も限界に来ており、
またすぐ戻ってきて、別宅の段ボールに横たわると、
ぐったりと動かなくなっていた。大袈裟でも何でも
なく、危篤状態だった。意識もなかっただろう。
大家さんとKさんは、反応のなくなったハー君の体
をそっと洗濯ネットに入れて抱え上げると、Kさん
がネットで検索しまくって見つけた、どんな急患も
受け容れてくれる(しかも電話の応対が実に丁寧な)
動物病院にタクシーで急行したのだった。もちろん、
どんなに親切で誠実な動物病院ではあっても、いや、
親切で誠実であればこそ、必ず聞かれる質問がある。
「飼い猫ですか? 野良猫ではありませんか?」
野良猫は動物病院で診察や治療を拒否されることが
多い。厳しいがこれが現実だ。誰が野良猫の治療費
を負担するのか? 治療後の飼育や通院はどうする?
治療が功を奏して生き永らえたとしても、では誰が
その猫の治療後の人生、いや猫生に責任を持つのか?
元いた場所に戻すのが正解なのか? 猫嫌い住民が
ガラスの破片や薬物をばら撒くかもしれない場所に、
カットされた耳の形に呼び方だけ変えて戻すのか?
あり得ない? ならば、代替案は?
私なら葛藤する。何とかしてあげたいとは切に思う。
しかしハー君の気性には目を瞑るにしても、協調性
に乏しい先住猫(ハー君とは面識があるとはいえ)
がいる我が家では、まず飼えない。ご近所トラブル
真っ只中のKさんにも、将来はともかく、今すぐの
受け入れは現実的に難しいだろう。そして大家さん
にしても、既に複数の保護猫と同居しているところ
に、顔を見ただけでハーッ!と凄む強面のワイルド
キャットを新たに迎え入れることなど、とても無理
な相談で ……
「私が飼います」
大家さんが言った。
「今は野良猫ですが、うちの子にします」
本当に申し訳ないが、私はダメな映画オタクとして、
このときの大家さんに、心からこの言葉を贈りたい。
「我らの道! 我らの道!」
“ This is the Way! ”




