10:ハー君、ご近所トラブル
毎日は比較的穏やかに過ぎていった。マンションの
給餌スペースに隣接した、冬は毛布と湯たんぽ付き
の心地よい段ボール寝床。隣のマンションのKさん
の部屋の前にも、やはり毛布付きの、段ボール別宅。
朝晩は必ず、ママかちいママが(ママもちいママも
不在のときは小太りの下僕が)ご飯とお水の(冬場
は湯たんぽの)用意をしてくれるし、他の住民も、
朝夕の挨拶は欠かさず、けっこう気にかけてくれて、
頻繁におやつを差し入れてくれたりもする。
しかしハー君は所謂TNR※を経たサクラ猫※では
なく、去勢手術もワクチン接種もしていない野良猫
のままだった。頭が良くて用心深く俊敏だったから
捕獲機には絶対に近づかない。身柄を確保して病院
に連れていくことなど、およそできない相談だった。
したがって定期的な健康診断は受けていない。幸い
生まれつき体が丈夫で(口内炎はあったが)緊急の
治療が必要な状態には(まだ)至っていなかった。
とはいえ、少しずつ、微妙に変化は現れてくる。
「よだれの量が増えたね。臭いもちょっときつい」
「鼻提灯を膨らませてました。風邪ひいてますね」
「いつもの半分しか食べない。食欲がないみたい」
「今日は寒いからか、箱から一歩も出てませんね」
「体が汚れたまま。口が痛くて舐められないかな」
「痩せたね」「毛並みに艶がない」「体が縮んだ」
野良猫の平均寿命は約五年といわれている。私たち
と出逢ったときにはハー君は既にもう成猫だったし、
正確に何歳なのかは分からなかった。もうすぐ五歳
になるのか、既に五歳以上か? まだまだ体は頑健
か、それとも、年老いて徐々に弱ってきているのか?
本当に分からなかったし、正直に言うと、なるべく
まだそういうことは、考えたくなかった。しかし、
ハー君の、これからの行末を、否応なく、強く意識
せざるを得なくなる状況が、意外と早くやってきた。
別宅の竹スダレでバリンチョと爪を研ぐハー君
Kさん「やーーーめーーーてーーー!」
今さら言うまでもなく、こちらのマンションは大家
さん以下、住民は猫好き犬好きの動物大好きだから、
特にトラブルはなかった。しかし問題は隣のKさん
のマンションだった。住民に、とにかく猫が嫌いで、
共有スペースへの猫の出入りが我慢できないという
人がいた。ハー君が自由奔放に(その人にとっては
傍若無人に)敷地内を歩き回るのを苦々しく感じて、
管理会社に度々苦情を入れていたらしい。Kさんが
部屋の前に置いた段ボールの別宅に、毎日のように
ハー君が通っていることも気に入らなかったようだ。
クレームは、猫のトラブルでも一番デリケートな、
トイレの問題にも及んでいた。
ハー君は隣のマンション1F裏手の水道タンクの横、
雑草の生えた手狭な砂地を、トイレに使っていた。
金網のフェンス越し、こちらのマンションの駐輪場
の裏側にあたる。そこに所謂カリントウ状の物体を
見つけたら、Kさんや他の猫好き有志が回収したり、
定期的に掃除の業者さんが片付けたりしていたが、
終日監視しているわけではないので、カリントウが
そのままになっていることもあった。猫嫌いの住民
には、それが許せなかったのだ。激怒したらしい。
「あの場所で糞をさせるな。不快だし不衛生だ。臭い」
そこは、マンションの外付け階段一番下の奥まった
スペースだし、わざわざその場に見に行かなければ
カリントウが落ちていることすら気づかないような
場所だから、きっと、わざわざその場に見に行った
のだろう。あと、あのカリントウ系は乾いていたら
ほとんど臭わない筈だが、タイミング的にしたての
ホヤホヤだったらこれはヤバイ。猫飼いなら誰でも
知っているがホヤホヤは本当に強烈だ。至近距離で
嗅いだら命が危ない。きっとホヤホヤだったのだ。
だからここまでの相手の言い分も分からなくはない。
というか、むしろ正しい。ハー君の世話をして、餌
もあげて、しかもトイレの場所も分かっているなら、
確かに餌をあげている側が道義的にも排泄物の処理
に対応すべきだと、個人的には思わなくもない。
ところが相手の発言は、ここから過激になっていく。
(これは管理人が言い出したらしいが)保健所に連絡
して捕獲したうえで、殺処分してもらう。さらには、
ハー君がトイレに使っている場所に、薬物やガラス
の破片をばらまくとまで言い始めたから、さあ大変。
保健所はともかく、薬物? ガラスの破片? ハァ?
「ちょっと何言ってるか分からない」
話は紛叫してしまい、収拾がつかなくなってきたが、
Kさんが懸命に頑張ってくれた。曰く:ハー君は隣
のマンションの猫好きな大家さんやその住民からも
とても可愛がられ、大事に想われている。猫避けの
ペットボトルやギザギザシートならまだしも、薬物
で苦しめたり、ガラスの破片で傷つけたりしたら、
隣やこちらのマンションの猫好き住民が、動物虐待
として一斉に通報して、警察沙汰にもなりかねない。
それに隣の大家さんも、トイレ問題については対策
を考えている。安易に残酷な手段に訴えず、互いに
納得できるまで話し合うべきでは。
そう、大家さんは具体的な対策を考えていたのだ。
こちらのマンションの駐輪場にハー君専用のトイレ
を設置して、猫砂に回収したハー君の糞を混ぜ金網
越しに誘導。排泄に関してはこちらで全部処理する。
着地点というか、妥協案としては悪くない。あとは
ハー君が、そのトイレを気に入って使ってくれるか、
猫嫌いは糞尿問題が解決したら猫の出入りにはある
程度、譲歩するのか…… さて、どうなることやら?
このように、風雲急を告げるなかなかに厳しい状況
だったが、ここでさらに追い打ちをかけるように、
予想外の、いや、実は当時のハー君の様子を知る者
にとっては、いよいよというか、ついに、というか、
とうとう、覚悟していた深刻な事態が到来した。
ハー君が倒れたのだ。
「まあ大変。ちょっとお水飲んで落ち着きましょうね」
飲んでる場合か~




