13:ハー君、風前の灯火
マンションに戻ってエレベーターに乗ると、自分の
階はすっ飛ばして最上階の大家さんの部屋へ向かう。
大家さんとKさんと、マンション猫飼い住民の数名
が周りに膝をついて心配そうに見守る中、畳まれた
毛布の上にハー君が仰向けで横たわっていた。口は
半ば開いて意識はなく、少し舌が出ていた。不自然
に早く荒い呼吸で、音を立てて鼻息が漏れ、お腹が
上下していた。出会って以来、こんなしんどそうな
状態のハー君を見るのは初めてだった。猫エイズに
糖尿病の診断。そして誰の目にも明らかな危篤状態。
正直な話、これはもうさすがにダメかも知れないな
と、心の準備を始める自分がいた。居合わせた人も
皆、同じ心境だったに違いない。今朝まで外にいた
ので汚れているハー君の体を、大家さんとKさんが
ペット用のウェットシートで丁寧に清拭していた。
「こんなにしっかり拭いても、全然起きないのよ」
「今ならハー君が撫で放題、触りたい放題です!」
Kさんが少しでも空気を軽くしようと明るく言った。
それではお言葉に甘えて…… と、マンション猫飼い
の皆さんがおずおずと手を伸ばして、ハー君の頭や
お腹、前足などを撫でさすり始める。
「ハー君、大丈夫? 苦しくない?」
「起きて。ごはんあるよ。おやつもあるよ」
「触られていやでしょ? 怒っていいよ。目を開けて」
ハー君に触れながら、おのおのが懸命に声をかける。
ハー君の容体にショックを受けて、涙ぐむ人もいる。
早く目を覚ましてほしい、一命を取り留めてほしい。
ハー君はもうこのマンション住民の家族なのだから。
私も身を乗り出して、ハー君の眉間を親指で擦った。
ちょっと力を入れて眉間の皮膚を上に押し上げると、
目蓋が少しだけ持ち上がって、白い瞬幕が見えた。
ここまでされたら普通、猫は起きる(というか怒る)
しかし反応はなかった。離すとまた目が閉じられた。
病院に行く前、別宅に通っていた頃のハー君。
(ダメだ。起きない。呼吸も浅い。これは…… )
フガフガスピスピスピと、ハー君の鼻が鳴っていた。
私は軽いデジャブに襲われてハー君の顔を凝視した。
うちの猫も、こんな感じで鼻を鳴らしていたことが
けっこうあったような気がする。これは……
(これは、もしかしたら…… ?)
「もしかしたら、ハー君、鼻が詰まってるのかも?」
「えっ? そう?」
大家さんが、指に巻いたウェットシートで、ハー君
の鼻孔から少し覗いていた黒い染み状の汚れを抑え、
手前に軽く、引っ張るように拭いてみる。すると、
真っ黒な※クロット・ドゥ・ネがごっそりと現れた。
「うわっ!」
「何これ? すっごい量!」
成猫とはいえ小さな猫の鼻の穴に、よくぞこれだけ
の嵩の鼻内凝固物が残留していたものだと畏怖すら
覚える程のアマウントであった。長年の野良猫生活、
しかも後年は口内炎の痛みで顔も十分に洗えなくて、
可哀想だが全然処理ができていなかったのだろう。
いつもうちの(嫌がる)猫の鼻から指先でコシコシ
拭い取ってやる※ポペルなど比べ物にならなかった。
大家さんは、反対側の鼻の穴からも※カッチョラを、
念入りに注意深く、これまた大量に除去した。
すると……
「あれ? ねえ、何となく…… ?」
「そうですよね。さっきまでと比べて…… 」
そうなのだ。鼻から※モコを取り除かれて、酸素の
取入れが楽になったのか、ハー君の呼吸は見るから
に落ち着いてきて、お腹も、ゆっくり上下するよう
になっていた。それでもまだ眠ったままだったが、
心なしか寝顔も穏やかに見えた。風前の灯火の昏睡
ではなく、通常の安眠だった。大家さんと私たちは
顔を見合わせた。そして皆が思ったことを大家さん
が口にした。
「もしかしたらハー君、大丈夫かも……!?」
大丈夫、きっと大丈夫だ。慌てるな、ゆっくり休め。
私たちはハー君がぐっすり眠っているのを見届けて
自分たちの部屋に帰った。夕方になって、大家さん
からLINEが入った。Kさんと私たちマンション
住民に、一斉送信したと思われる。
『今、ハー君が目を覚ましました。不思議そうに部屋
の中を見回しています』
かくなる次第でハー君は絶体絶命の危機を回避した。
積もりに積もった※ナーク・カー・マイルが鼻から
取り除かれ、安定した呼吸が確保されただけで死の
淵から帰還するとは、あまりにも劇的というか滑稽
にすら思えるまさかの起死回生。ハー君は明らかに
“持っている”猫だった。しかしこれも、大家さんが
ハー君を保護したからこそ起こった奇跡だ。ハー君
がどこか目の届かぬところで行き倒れて、猫エイズ
や糖尿病より前に、重度の鼻づまりによる呼吸困難
で死んでしまうことも、十分にあり得たのだから。
人は猫を助け、やがて逆になる。我らの道。
それにしても※ジームイは危険だ。みんな気をつけよう




