135「散歩と思索」
薄ぼんやりとした膜の向こうに疲れ切って背中を丸めた男の姿が見えた。
あれは俺だ。
シロクマに転生する前の自分自身。
男はシワの寄った鼠色のスーツによって世界に埋没し酔客の群れを縫って歩く。
ドキュメント映画を見るような動きで視覚が男の背に寄ってゆく。
男はぴかぴかと明るい店内に入ると腕時計を眺めて重く濁ったため息を吐き出した。
席に着くとビールと餃子を注文し焦げ茶色の革鞄を足元の籠に放る。
鼻孔に脂と麺とラーメン屋独特のあらゆる濃い味が混在した空気が侵入して来る。
疲労し切って鉛のように重たげだった胃が収縮する音が聞こえてきそうだ。
このあたりから見ている俺と見られている俺の意識が混在しはじめる。
ま、それはどうでもいいことだ。
目の前にキンキンと冷えたジョッキに注がれた生がドンと置かれた。
ジョッキの縁にびっしりと汗をかき見るだけで喉が渇いた。
なんでもいい。
今はコイツを飲み干すことがあらゆることがらに優越する。
手を伸ばして金属のように冷たいジョッキを掴んだ。
口元に琥珀色のシュワシュワを迎え入れる。
懐かしくてたまらないそれを一気に喉へ送り込もうとして――。
「はっ?」
夢から覚めたことに気づいた。
うおおおっ、あぶねー!
座ったまま寝入っていたのであろう。
俺は危うく夢の中のビールと勘違いしてララをひと息に飲み込むところだった。
両手で持ち上げてガブッと――。
って、とんでもない大惨事でマイホームが阿鼻叫喚の地獄絵図になっちゃうよ。
「うにー。クマしゃまぁ?」
ねぼけたララが口をむちゃむちゃ動かしながら寝言をつぶやいている。
冷汗三斗とはこのことだ。
そうか、雪合戦を中止したあとで酒盛りになりそのまま寝入ってしまったのか。
酒なんぞいくら飲んでも酔わんのだが。
不思議と夢の国に旅立っていたとは。
徐々に五感がハッキリして周囲の様子が手に取るようにわかってきた。
夢か。
汗はかかない。
代わりに全身に熱がこもっているようで身体が火照っている。
「うにー」
「うににー」
「うにらー」
身体にまとわりついている三つ子ちゃんたちをそっと取りはずして床に横たえて毛布をかける。
喉、渇いたな。
俺はやかんにあった湯冷ましの残りをゴクゴクと喉を鳴らして飲んだが、まだ足りず、表に出て近くの小川まで行った。
顔をざんぶと突っ込んで思うさま飲み干した。
ふうっ。
ようやく人心地ついたな。
いや、この場合クマ心地というべきか。
しんしんと雪が降り積もるのが闇夜でもわかる。
目が慣れてきたのか、それまで皆目見当すらつかなかった地形やらなんやらがパッとクリアになって情報として頭に流れ込んで来る。
腹の隙具合でなんとなくだが、今は明け方くらいであると見当がつく。
そういえば、生前社畜時代、繁忙期にこうやって明け方まで残業を続けたもんだ。
よくひと息入れるため社屋の屋上に出て、夜空に浮かぶ星々を眺めたものだ。
この森には刹那的に訪れる修羅場はあれども常に追われるようなノルマはない。
もちろん、食料や燃料など冬を越すための、命に直結する不安は多々あるがそれらは心の重しにはなるはずもない。
普通の勤め人ならば、朝早く目が覚めてしまえば仕事のことを思ってもう一度無理やりにでも眠るのだろうが、無為徒食のシロクマはこうして無意味に家から出て真冬の雪の森を散策する――。
「なんてことも当然許されるわけだ」
森の中には徹頭徹尾自然しかない。
おまけに雪が降り積もる真冬とあらば、こんもりと雪をかぶったまま凍てついたモンスターくらいしか俺を出迎える者はいない。
ふむう、ものを持たないとは偉大だ。
ものに煩わされることなく、それを手に入れるために無駄な時間を使わず、ただただ自分の時間に没頭できる。
いくら家族が多くてもこうして自分だけの時間を作るということも大切だ。
俺は巨大な洞のある木の雪を適度に掻いてその場に座り込むと沈思黙考した。
古代中国堯帝の時代の賢人許由は人からもらった瓢箪ですら風に吹かれて音が鳴ると煩いので放り捨てて、川の水を手ですくい飲んでいたという。
そのくらい清貧を貫き自由でありたいものだ。
よし、ここは古代の賢人に倣って来し方行く末を考えるとしようか。
夜が白々と明けはじめたころ俺は座禅に飽きた。
「帰ろ」
うむ。まさしく微塵も無我の境地に遠いシロクマだな。
拾った小枝を振り回しながら、木々の雪を落として鼻歌を口ずさみながら歩く。
ふらふらと歩いているうちに、かなり里のほうへと下りてしまったようだな。
丘陵地帯に立つと眼下にはアルムガルドの灯がぽつぽつと見えた。
そろそろ朝飯かな。
そう考えていると、俺の鼻に煮炊きする濃い食物の香りが漂ってきた。
一瞬、メシのことを考えていたからそんなふうに勘違いしたのかな思ったのだが、ひくひくと鼻を蠢かすと匂いは強くなる一方だ。
このあたりは地元の猟師でも野生動物やモンスターを嫌がってまず近づかない。
つか、出会ったことないな。
ましてやこの雪だ。
里の人間が無意味に森に入ることは死を意味する。
「でも、勘違いじゃなさそうだな」
なにしろすべてが白で埋め尽くされており、異様なまでの寒さで森は支配されている。
俺のような丈夫な毛皮を持つ獣でなければ森を闊歩することは難しい。
まだ、薄暗く、充分夜の気配を残している世界で人工的な火はやたらと目立った。
狩人かな?
樹木に姿を隠しながら充分気をつけて距離を詰めると、大きな木の洞に詰まった雪を掘り返してビバークしている人物の姿が目に映った。
「あれは……メイドさん?」
背格好から、どうにも俺の目にはその人物はメイドにしか見えなかった。
中々にシュールである。
なにしろシロクマになってからというもの、そのようなコスプレっぽい格好をした人物とはついぞ目にすることはなかった。
ショートの黒髪に真っ白な髪飾りが象徴的だ。
つい先だってアルムガルドを訪れたときでもメイドの姿は見かけなかった気がする。
てか、そもそも本物のメイドなんて見たことないし。
アキバのメイドは論外だ。
「凶悪な人物じゃなさそうだな」
けど、考えろよクマキチ。
人は第一印象が大切だ。
森でこっそりアウトドアってるムッスメの背後からシロクマが声をかけたらどうなる?
どうなる?
どうなるじゃねーよな。
いやぁ、結果は火を見るより明らかだね。
パッと見は若そうに見える。
二十代前半くらいか?
ぶっちゃけ女性の年齢はよくわからん。
たぶん、ルルティナたちとあんまり変わらないだろうなって感じだ。
てか、あの子マシュマロ焼いてるよ。
甘い匂いがぷーんと漂い、つい、物音を立ててしまった。
「誰?」
マズい。
けど、俺はシロクマだからこれだけ雪のある場所ならそう簡単に見つけられんだろ。
そう思っていた時期が僕にもありました。
メイドさんは素早く弓を取り出すとかなり俊敏な動作で狙い撃ってきたのだ。
うわっ、ちょっと待てって。
だが、所詮は非力な女性の力だ。
たまに当たるには当たるのだが俺の毛皮を貫くことはできない。
木に隠れっぱなしじゃどうにもならん。
とにかくこのままじゃ話もできない。
俺は意を決して姿を現すと両手を広げて友好のポーズを取った。
さあ、こちらは武器はないぞ。
話し合おう。
人間同士ならそれができる。
俺が慈愛に満ちた微笑みを浮かべるとメイドさんは弓を投げ捨て、隠してあった槍を構え必死の形相だ。
なぜだ。
こちらは無防備都市宣言をしているというのに。
「近寄らないで!」
ああ、そうか。
俺はクマだったな。
そう考えれば両手を広げて笑顔を作るポーズもメイドさんにとっては強烈な威嚇にほかならなかったのだろう。
「お嬢さん、とりあえず武器を捨てて話をしようぜ」
「言葉を操る――亜人?」
とりあえず対話のスタート地点には立てたようだ。
「なるほど。あなたはエルム族の方だったのですか」
メイドはとりあえず俺と話をする気があるようだった。
「俺はクマキチ。森にちょっと見慣れない人がいたのであいさつをしようと思っただけだよ。危険とかそういうのはないから、ね?」
「こちらに寄らないでください」
フレンドリーを心がけてウインクをしたがメイドさんは頑なに俺の接近を拒み槍を突きつけている。
むうう。
まあ、仕方がないな。
俺が彼女の立場だったら――。
アサルトライフルがあってもシロクマの接近など全力で拒否する。
そもそもあんなちんまりした木の枝の先端にナイフを括りつけた手製の槍など俺の肌に傷ひとつつけることはできないだろう。
人間は強力な武器を持ってはじめて獣と対等になれるのだ。
深いぜ。
「こんなところでなにをしているんだい」
「野外活動です。レジャーです」
「ふ、ふぅーん」
嘘だ。
てか、そんなに唇紫色にして命懸けでアウトドアしてる人間なんておらんわ。
「ところでうしろに隠しているのはナンジャラホイ」
「なにも隠してはおりませんよ。初対面なのに不躾なエルムですね」
ううむ、怪しい。
メイドさんがじりじりと槍を突きつけながら必死に後退している。
「隠しているだろ」
「しつこいですね! 隠していないといったら隠していないのです!」
と、メイドさんが大声を出した途端、火のついたような赤ちゃんの泣き声が森中に響き渡った。
あれま。すっごいオギャア音。
俺がよほど呆れた顔をしたのがわかったのだろうか。
メイドさんはどこか気まずげに視線を逸らせる。
そしてそそくさと洞の中で寝ていた赤ちゃんを抱え上げると、あやし出した。
チラチラとこちらを気にしているご様子。
メイド萌え~というやつか。
シロクマには理解しえない感情だ。
「ねえ、君。ちょっと――」
「う、うるさい鳥の鳴き声ですね」
「いや、赤ちゃんでしょ」
いいわけには苦し過ぎるぞ。
「わたしが赤子を隠していようがいまいがあなたにはこれっぱかしも関係ないでしょうが。そんな鬼の首を取ったようないい方で婦女子を辱めて悦に入るのがエルムのやり口ですか。おお、卑怯卑怯。はい、論破」
いや、まるで論破できてないのであるが。
だが、俺が呆れて黙ったのを説き伏せたと勘違いしたのかメイドさんはしてやったりとわずかにニンマリ口元を歪めた。
ううむ、なんというか、悪巧みをしているような顔だ。
この娘は美人なのでそういう表情をしないほうがいいと思うのであるが……。
個人の自由でもあるしな。
論評は控えておこ。




