3.神は現れず
『かくれんぼにつき合っている暇はないんですけどね!』
グライフは真正面から戦うことをやめ、自らの船に近づきながら時折、石碑に身を潜めて好機を待っていた。
ルミナが少しでも苛立ってくれれば幸いだが、今の口振りからすると当面、そこには至りそうにない。
鍔迫り合いを交わしていく内、刀の特性は掴めた。
迅さ――彼の剣速が切れ味のいい刃を、より防御不可のものまで上げている。問題は、その推測に己の身体がついてこないことだ。
(歳を意識はしたくないものだな)
斬り結ぶ最中の一撃。真横に斬られた腹部を見やる。幸い、薄皮一枚程度の被害で致命傷には程遠い。が、昔なら相手にもダメージは得られたはずだ。
(それ以上に、奴さんの腕の良さもあるか)
ルミナの技量は予想を超えており、厄介だ。
装った動揺を狙って先に仕かけてくれたまでは計算通りだったが、変幻自在の太刀筋は完全に想定外だった。
まさか、こちらの防御を見たあとで軌道を変えてくるとは……
『船まで戻るつもりですか!?』
先程から、どういうわけか口軽なルミナ。敵の現況なら船長を殺して戦力を削ぐべきだ。目的の達成を第一と考えているなら。
掴みどころを見せない《博雅の徒》の会員だが、時間稼ぎはこちらにとってもあり難い。自分の役割は始めから、この学者を倒すことだ。
敵の様子を窺いながら姿を隠し、船へと距離を縮めていくと、
(……いつの間に?)
目を離していた一瞬の隙。その間にルミナを背にし、軍人らしい堅苦しさと生真面目さを醸し出す男の海兵が視線上に立っていた。
隻腕の理由をグライフがいくつか浮かんだものの、当然ながらどれにも当て嵌まることはなかった。
唐突な登場にグライフは眉根を寄せる。
ただ、現れた当人の方が一番驚いている様子だ。周りを見渡し、今の状況を懸命に把握しようとしている。
『ここの特性を上手く使いましたね、デイラー大尉』
苦笑するルミナに、状況を把握し切れていないようだったデイラーという海兵が振り返る。
『そんなことはどうでもいい! それよりも何故、〝リヴァイアサン〟がここにいる!?』
『いやね、デイラー大尉。僕も困惑しているんですよ? きちんと、メーアは〝怪物〟の群れの中に潜む協力者と『連絡』をしたんですけどね』
にやにやと、どこまでも道化を演じるルミナ。
そして、わざとらしく手を叩いた。
『あっ、あれかな? 彼女は間違えて〝白鯨〟の協力者ではなく〝リヴァイアサン〟の協力者に『連絡』をしてしまったのかな?』
『〝リヴァイアサン〟の、協力者だと……?』
『ええ。あくまでも憶測ですが、メーアは〝リヴァイアサン〟に白鯨海に侵入するように告げたんでしょう。〝リヴァイアサン〟にとっては白鯨海に足を入れるだけだったが、〝白鯨〟はそうは思わなかった』
つらつらと饒舌に喋るルミナの様は、真摯とは裏腹のどこまでも小馬鹿にしたもの。
『無理もない。何せ、一向に『連絡』が来ないどころか、待機中に海軍が聖域に侵攻を始め、挙句に〝リヴァイアサン〟が領域を超えて来た。その現実にきっと彼女は、『自分との『約束』を反故にしたどころか、〝リヴァイアサン〟と手を組んだ。この侵犯は障害になり得る自分を消すためだ』――そんな風に考えたのかもしれませんね。ま、それが自然でしょう』
その茶番をグライフは観察をし、機会を窺うことに徹する。
隙をついてルミナを屠ることは容易ではないとはいえ、可能だろう。
が、その正面にいる海兵を切り抜けるかどうか怪しい。
できたとして、五体満足には程遠いはずだ。自分は船長として、まだ先頭に立って若者を導かねばらないのだ。無用な怪我は可能な限り避ける。
『なら! そもそも、〝怪物〟は〝クラーケン〟によって、自らの聖域に縛られているのではないのか!? 聖域を巡る戦争が二度と起こらぬように!』
『ええ。彼らの誓約は違わないですよ。縛りつけるのが誓約であって、逃げた者を追うのは担った役割ではないですからね』
『逃げた?』
『メーアには彼女の本来の咎人――元の肉体の持ち主であった〝リヴァイアサン〟に、『お前の正体を〝オケアノス〟に見破られた。再び咎人にされたくなければ白鯨海に逃げろ。そこに行けばやつらは性質上、お前を裁けなくなる』と伝えたんですよ――いや、伝えたんだと思いますよ? ほら、メーアもきっと戦争に巻き込まれる仲間を、少しでも減らしたかったんでしょう』
慌てて繕う素振りをしたのは、この海兵の神経をさらに逆撫でさせるためだろう。
それでも殴りかからないのは、自制心の賜物だ。感情よりも作戦を優先できている。
だがそれは、この場では必要のないものだ。
行使しないと分かっている暴力に、恐れる必要などないだから。
『なら、どうして他の〝リヴァイアサン〟まで――』
『助かりたいという強い『個』が、全体を支配してしまったんでしょう。彼女もまた、強すぎる『個』を持つが故に裁かれたのですから。それに〝オケアノス〟からその役割を担っているとはいえ、〝クラーケン〟の力でも暴虐の王を縛ることはできないですよ。何せ、〝リヴァイアサン〟は全てを叩き潰す〝怪物〟として〈水伯〉から生を受けたのですから』
末尾を言い終えるとほぼ同時。パンッ、ルミナがと柏手を一つ叩く。デイラーがこれ以上何か口を挟む前に、話の終わりを無理に示唆させた。
『でも結果として、〝オケアノス〟へ至る確率が上がったんですから、よかったですね』
『ふざけるな!』
『ふざけてはいませんよ。むしろ、あなたこそ遊びでやっているのですか?』
一速即発のデイラーとは対照的に、ルミナは逆に冷ややかに苦言を呈した。
『古来から、神との対話には多くの供物が必要でしょう? 〈水伯〉が神ではないとはいえ、私達にとっては近しい存在だ。なら、それなりの代償を払わなければならなくなるのは当然ですよ。いやむしろ神ではないからこそ、〈水伯〉は人間の命を欲するのかもしれませんね』
最後の一言はまるで独り言。金の瞳に眼前は、別の何かを見据えているようだ。
眼中に入っていないことを察してか、ついにデイラーはルミナの襟元を乱暴に掴んだ。
『貴様! 一体、なんの目的で――』
『それは当然、僕のために決まっているでしょう?』
つまらなそうに、ルミナは刀で海兵の心臓を一突きした。
デイラーはびくんっ、と身体を跳ねさせる。当然、なんの不平を口にすることない。
ルミナの襟を歪めたその手には力が失せ、胸から刀が抜ける。膝から崩れ落ち、小さな音を立ててうつ伏せに倒れた。
開閉のはっきりしない瞼の奥の瞳に、光はもう灯ることはない。
『そろそろ、出てきてもいいんじゃないんですか? それとも本当に、自らの船に尻尾を巻いて逃げる気ですか?』
「……どこまでがお前の筋書きだ?」
ルミナに乗ったわけではないが、グライフは石碑から姿を現した。
「最初からですよ。ただ、複数の台本を用意していたんで、どういう事態になっても私の思惑通りに進むんですけどね」海兵の亡骸を一瞥し、「ちなみに、このシナリオは僕としては最も理想的な内容です」小さく笑った。
「なら、お前の望みはなんなんだ? 〈水伯〉との対話を、お前が望むようには思えないがな」
「そうですね。強いて言えば、『神の召喚』――いや『神の帰還』とでも言いましょうか」
「何を……?」
「単なる比喩ですよ」
訝しむグライフにルミナは嗤い、そして独りごちる。
今、海には大量の人間が沈んでいる。かつて、〝八番目の怪物〟であった人間が。
もしこれ以上の血と命を欲するのなら、見える神は人間が望むような存在ではないだろう。
そう。この世界に人間が望む神などいない――ルミナはそれを幼き頃から痛感していた。
いくら祈っても、捧げても、彼らは決して姿を現さない。悲痛な願いに耳を傾けてくれる救世の神は存在してはくれない。
だからこそ。この世界は、人間が抱く理想の神が創造せし完全物ではないのだと分かる。
そして当然、この世界はどこかで軋み、歪み、綻んでいる。
だから、こそ。人間は世界を変えられる。
自分は今、世界を是正している。




