2.時は戻らず
「アリュオン……」
目の前で、信じていた少年が消えた。『約束』を交わした少年が消えた。
自らが伸ばした手は、その一端に触れることさえできなかった。
周りを見渡す。
白が目につく。自分と同じ色。〝白鯨〟の証たる色。なんにもない、色……
少年の、アリュオンの名残は何一つない。全て波に吞まれ、海の中に消えてしまった。
海中に彼はいないかと自らの力を使って捜索するが、何よりも先に分かったことは戦争が始まってしまったことだった。
それ以外は、最も欲しかったものは、見つからない。
つまりは、望んでいなかったもの全てを見つけてしまったということ……
シロは膝から崩れ落ちた。瞳からは涙が勝手に零れる。
「……アリュオン……どうして……?」
彼はもういない。
どこにもいない。
話してはくれない。
怒ってはくれない。
笑ってはくれない。
だから、涙が止まらない。
「あなたとの唯一の繋がりだった『約束』は、どうなるの……? 私はアリュオンの何者でもなくなってしまうの……?」
アリュオンの喪失とともに、『約束』も消えてしまったのか?
そうだというのなら、自分は何をすればいい?
なんのために、ここにいる?
アリュオンのために生きていたかったのに……
アリュオンのために命を全うしたかったのに……
そうだ。自分がいる意味はもう、ないのかもしれない。
もうすでに自分が止めたかった、止めなければいけなかった戦争が起こってしまったのだから。
歴史上、神話の時代に遡らない限り見る影もない、〝怪物〟同士の最悪の戦争は……
(なんのため……?)
呆け、白んでいく頭の中で、その単語だけが残響する。
自分がこの場所、聖域まで足を運んだのは〝怪物〟同士の戦争を止めるため。
リートがそれを願い、託したから。
アリュオンが一緒に止めようと誓ってくれたから。
だけど、それらを望む人は、もういない……
(なんの、ため……?)
リートと『約束』をしたから。アリュオンと『約束』をしたから。
リートが想う人がいる世界を守ると。アリュオンの大切な人がいる世界を守ると。
(私は、どうしればいいの……?)
当然、返してくれるものはいない。自分しかいないのだから。
その交わした『約束』を知っているのは、もう自分だけ。
(私、だけ……)
ふと、何かが引っかかった。
自分の中から出た言葉の中に、何かが見えた。
溢れる悲しみの感情の中から、ほんの僅かに輝いた何かを手繰り寄せる。
見つけた言葉。
自分だけが覚えている『約束』。
そこに『約束』の本質を見つけた。
(そうだ。『約束』を交わしたんだ――『約束』はまだ、私の中にある!)
それで悲しみが拭えたわけではない。
それが答えだと確信したわけでもない。
だがそれでも、見出した解答は止まっていた足を一歩、踏み出す勇気になる。
進もうという意志の支えになる――そう感じた時、背中を二人が押してくれる気がした。
「〝オケアノス〟聞いて! この戦争を止めなければ、聖域が奪われてしまうの!」
流れる涙を拭い、引きつる顔を無理矢理強張らせていた。
だが、届かないのは分かっている。まだ聖域の最奥に到達していないのだから。
次にシロは同族殺しの〝白鯨〟を探す。〝オケアノス〟が駄目なら、彼女の意志を変えるしかない。説得をするしかない。
それがどれほど、絶望的な可能性しか持っていないとしても。
いや、可能性すらあるかも分からないが。
「聞こえているんでしょう!? あなたは私なんだから! こんな戦争、今すぐ止めて! このままだと、世界は滅茶苦茶になってしまう!」
「どうして、そこまでして……?」
黙り続けていたメーアが、思わず口を挟んだ。
彼女の表情は終始、歪んでいる。まるで痛みにでも耐えるように。
「『約束』をしたから。リートとアリュオンと。戦争を止めるって」
二人との『約束』。
その事実に、メーアは感情的にならざるを得なくなる。
それがどれだけ醜いか、みっともないか分かっている。だがそれでも、喉の奥で堰止めていた感情の塊を吐き出さなくてはいられなくなった。
「その二人ならもういない! 『約束』はもう消えたんだ!」
「『約束』は消えたりはしない!」
悲痛なメーアの声よりも、シロの確かな声が海に響く。
「私に心がある限り。あると信じられる限り。『約束』はなくなったりなんかしない」
「……お前に……私達に……心が分かるのか……?」
まるで救いを求めているような言葉に、シロは首を横に振った。
困惑するメーアの〈蒼海の瞳〉を真っすぐ見、
「でも、あると信じられる」
同じだ。
同じ瞳だ。
なのに、〝白鯨〟の咎人の〈蒼海の瞳〉はあまりにも強く輝いていた。
「メーア、そこをどいて」
「……無理よ」
「私はアリュオンと『約束』した! 彼の大切なものが奪われてしまう時は、私は自分を犠牲にしてでも戦争を止める! 私達は覚悟をしたの!」
「戦争はもう止まらないのよ!」
甲高く響くそれは悲鳴のよう。涙を溜めるメーアにシロは言葉を失ってしまった。
「〈水伯の証〉を奪う。そもそも、この計画自体が不可能なのよ」
「えっ……?」
シロは〝白鯨〟と〝リヴァイアサン〟との戦争が起こるとは知っていた。リートと『約束』を交わした時に、そのことを教えてくれたから。
アリュオン達に言えなかったのは、〝怪物〟同士の戦争を信じてくれるか分からなかったから。
それに歴史上、類を見ない大規模な戦争に巻き込まれると知ってしまえば、どんなことをしてでも、どんなことになろうとも、それから逃げるに決まっているから。それが得策で最善だから。それを臆病だと、卑怯だと卑下はできない。
ただ、深い理由は分からなかった。
〈水伯の証〉を奪い、〝オケアノス〟の座を強い『個』で支配するということを《博雅の徒》の会員ルミナから言われていた。
なので、それに関するものだと思っていた。
だというのに、メーアがそれを否定する。
「そもそも、〈水伯の証〉は〝オケアノス〟が保管しているわけではないわ」
「――っ!?……じゃあ、どこにあるっていうの?」
「どこにでも。人間は初めから持っている」
ますます混乱する。それに対し、やや同情に近い笑みをメーアが浮かべた。
自分達〝怪物〟は最も聖域――〈水伯〉のシステムに近しい存在でありながら、それから最も遠いと思われた人間の方が詳しく、理解していたのだから。
ただそれは当然のこと。〝怪物〟が〝オケアノス〟について知る必要がないのだから。一時の酔狂でルミナが強弁しなかったら、今でもそれを知ることはおろか、疑問すら抱かなかった。
だからメーアの説明は、暗唱のようにルミナの言葉をなぞっているに他ならない。
「〈管理者〉を名乗った者達が『情報の海』と一体化するまでは、狭『間』の咎『人』――人間こそが〝八番目の怪物〟だった。だから当然、〝八番目の怪物〟が〈水伯〉から継承した〈水伯の証〉は全人類の誰もが持ち、未だに遺伝子に刻まれている」
息を少しだけ吐き、彼の言葉を思い起こすメーア。
「ただし、〈水伯の証〉の情報の多くは〈管理者〉に奪われ、その残りを全人間が山分けしているようなもの。人口が増加した今となっては人間一人が持つ情報量は少なく、もはや持っていることを自覚すらしていない」
説明の最中、爆発音が一つ響いた。
音の方向に視線を向けると、近くで《ブルーレイス》との戦闘を繰り広げていた軍艦が黒い煙を上げながら海へと沈んでいく。
アリュオンの仲間が犠牲になっている。一刻も早く、戦争を止めなければいけない。
本来ならメーアの話を聞いている場合ではない。もしかすれば、時間稼ぎをするための嘘を吐いているのかもしれないのだから。
(とは、思えない……)
メーアを見ると、彼女もまた、戦争を止めたかったのではないかとさえ思える。
高等な演技ができるわけがない。それこそ彼女は人間ではなく、同じ〝怪物〟なのだから。
「そして、聖域に一体分の〝オケアノス〟の〈水伯の証〉が蓄積された時、新たな〈管理者〉が生まれる――知っているでしょう? 〝オケアノス〟は証さえあれば、誰でもなれることを。それは誰もが『言語』化され、一つの〝オケアノス〟の中に留まるということなのよ」
メーアの真摯な言葉。表情。それらにシロはいたたまれなくなる。
どうしようもない現実を口にすればするほど、メーア自身が苦しんでいるようだったから。
「彼ら、海軍は自らが選んだ人間が〈水伯の証〉を手に入れるまで、戦争を止めることはない。すでに持っているものを、気が済むまでずっと探す。そして、自分達が望んだ〝オケアノス〟が現れるまで、ないものを永遠に……みなが誰かが遺した言葉遊びに翻弄され続ける……」
それが正しいなら、今まで伝え続けられた『言葉』によって、人間だけでなく〝怪物〟さえも遥か昔から大きな犠牲を払い続けているということになる。
これもまた、何かの罰なのか?
だというのなら、その罪はなんだ?
言葉の真意を知らないからか?
それとも、真意を知ってしまったからか?
理不尽な真実に、シロは思ったままを口にする。
「なら……今までのはなんだったの……? なんのためにアリュオンは……」
「それは……」
口ごもるメーア。
この戦争に意味はある。それこそがルミナの願いだ。
その達成をメーアは望んでいた。誰と交わしたわけでもない、その願いを。
だが今、友と想えた者の死に直面し、どこからか湧き出した罪悪感に苛まれていた。




