5.聖域への道
――そして、運命の日が明ける。
海が騒ぎ始めたのは、早朝の、風が温かみを帯びた時間。
流れる風はこれから起こる大きな衝突を前にしては、不気味なほど静か。
世界が穏やかになる中で、人間だけが荒々しく大海を裂くように進む。
王海から南下するのはイルレツァリア帝国の第五番海軍艦隊とそれに与し、海軍より先を進む私掠船。
対して、トルトゥーガ港から白鯨海を南下するのは海賊達。
今まさに、白鯨海と王海の狭間であるモービー・ディック海域にて、海軍と海賊との戦争の火蓋が切り落とされようとしていた。
船首に立ち、こちらに向かって仁王立ちをするルイル。
「決着をつけようじゃないか、グライフ!」という声は届いてはいないものの、彼が何かを叫んでいる時点でそれに近いことを口にしていることが分かる――現に一言一句違わず、そう叫んでいた。
《フリビュスチェ》は無視し、《ブルーレイス》は聖域に向かうタイミングを図る。
いつになく緊迫する甲板。操舵員達は各々の配置場所におり、今グライフの前にここに集結しているのは戦闘員だ。
その中に混じる、シロと一緒に連れてこられたアリュオンは緊張していた。
普段なら船内待機であるというのに、戦闘のど真ん中になるだろう甲板に立たされていることと、シロの隣にいるということに。
そんな彼の真正面に、グライフは立つ。
「アリュオン、お前をここに連れてきた理由は他でもない。『約束』を交わした者であり、今回の作戦の立案者だ。たとえ望まない結末を迎えるとしても、最後まで見つめろ。そして、お前ができることを全力でやるんだ――それまで、お前の命は俺達が守る」
「分かってるよ、親父」
シロと話し合ったあと、アリュオンはグライフに『〝オケアノス〟になろうとしているやつを、片っ端から倒せばいいんじゃないのか?』作戦を持ちかけた。
それ自体は聖域にシロを連れて行っても止まらない場合――《博雅の徒》ルミナがシロにこだわりを持っていないことが引っかかるのだ――として、すでに作戦を練っていたが、グライフはアリュオンの作戦として実行することにした。
馬鹿息子の成長に微笑んだあと、一息吸い、瞑目した。気持ちを切り替えるためだ。
すでに海では鬨の声が響きつつある。船員からもひしひしと緊張感が伝わる。
グライフはカッと瞳を開き、腰のベルトに巻きつけたホルスターに収まっていた、両刃の銀戦斧を手に取る。
「野郎ども! 胸糞悪い帝国のイカレ野郎達の鼻を折りに行くぞ!」
グライフが気高き獣の象徴――グリフォンが彫られた戦斧を天に突き立てると、「おおっ!」と船員同じように各々の武器を掲げて呼応する。
俄かに活気づく船内。昂る船員を一瞥すると、グライフはにやりと笑った。その表情はどこか楽しそう。不気味なほどに。
恐らく、碌でもないことを考えているのだろう。別の意味で船内に緊張が走る。
「さて。早速だが、対〝リヴァイアサン〟に向けた楽しい作戦を発表する」
その言葉に、聖域に無事辿り着けるか、やや不安になったのは言うまでもない。
グライフの名案という名の迷案(はた迷惑な愚案の略だ)を耳にした船員はみな苦笑いを浮かべつつ、己の配置場所へと移動を終えていた。
アリュオンとシロも同様だ。
聖域攻略隊の人員である二人は、サージェス達とともにグライフの傍にいた。そして全員、腰に頑丈な紐を巻きつけ、各々船内の至るところにその延長先を頑丈に縛りつけていた。
「シロ、全力で行け」
こくん、とシロが頷く。すると俄かに戦闘を始めた数多くの船の両脇から、二隻の船がそれぞれ突如飛び出した――もう一隻はドゥンケル・ハイト号だ。
シュトゥルム・ケーニヒ号とドゥンケル・ハイト号は現状の風を受けただけでは絶対に進めないほどの速さで、〝白鯨〟の聖域に向かう。
グライフの脳裏に「尻尾を巻いて逃げるのか!」と罵声を放つルイルの顔が浮かんだが、頭を振って消し去る――ちなみに二隻の船を見てルイルは叫んだが、今回の言葉は違った。「俺に恐怖して宝を優先したか!」だ。まぁ、あまり変わりはない。
風を切りながら、まるで弾丸のように突き進む船。
あまりの速度に、船体がガタガタと揺れる。
そんな不安定な状態であるが故に、シロが思わずグライフに訊く。
「あれは本当にやるの?」
「もちろんだ。やつらは必ず仕掛けてくる」
グライフの自信満々の表情に、シロは思わず半眼で睨んだ。瞳には『あなたがやるわけではないでしょう?』と、如実に書かれている。
「下手をすれば、船体がバラバラになる」
「それでもやらなければいけない。相手の、〝リヴァイアサン〟の力を無力化しなければいつかやられる――それにお前が下手をしなければいい話だ。何か問題あるか?」
にまにまと他人事のように笑うグライフに、シロは小さく嘆息したあと、首を振った。
「これはお前しかできない。〝怪物〟の力に抗えるのは、悔しいが〝怪物〟しかいない」
本当なら〝怪物〟の力は使いたくはない。昨日、ヤクジャーヌ達に話したが、〝怪物〟の力は禁断の果実だ。一度でも口にすれば、その味を忘れられない。それを知ってしまった当人が言うのだから間違いない。
だがもはや、悠長なことなど言っていられない。
確かにルミナは『シロを聖域に送りたい』と言ってはいたが、それを鵜呑みにできるはずがない。相手の筋書きが見えない以上、楽天的な考えは排すべきだ。
白鯨海に加え、聖域が近いからであろうか。敵船ドゥンケル・ハイト号さえも突き放すシュトゥルム・ケーニヒ号。それがどこか不気味である。
そして、その不安要素が背後から具現化し、襲いかかる。
ドゥンケル・ハイト号の後方から、目視できないほどの小波が徐々に、徐々に、その姿を起こし始めたのだ。
「来たぞ! 〝リヴァイアサン〟の力だ!」




