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9. あの日の言葉を、皆の前で

「謝罪してください。あの日、俺に言ったことについて、皆の前で」


 言い終えると、指の先から熱が引いていく。三谷にも猪瀬にも告げた値段だ。けれど、宝来に向けた声だけは喉に引っかかった。あの日は飲み込むしかなかった言葉が、今もそこに残っている。


 宝来の目が、段の聖剣へ落ちた。あれを握っていた手は、まだ体の横にある。


「皆の前って……クラス全員か?」


「あの日いた全員に聞いてもらわないと意味がない。場所も、あの日と同じ召喚の間だ」


「宰相の城だぞ。月岡が入ったら、何されるか分かんねえだろ!?」


 俺は入口の輪を指し、足を外へ出す。靴底が石をこする音に、宝来の視線が落ちた。すぐに顔へ戻ってくる。今度は、目をそらさずに受け止める。


「それでも行く。ここで俺一人に言って終わりにはしない」


「分かった……明日の昼。全員、集める」


 宝来は聖剣を拾い、帯を締め直した。広場の人々の間へ踏み出しかけて、一度だけ俺へ向き直る。広場のざわめきが、そこで遠のいた。


「ちゃんと来いよ? みんな集めてお前が来なかったら怒るぞ」


「ちゃんと行く。お前の言葉を聞かせてくれ」


       ◇


 十一日目の夜明け前、俺たちは塔の小さな扉から入る。灯の光が石壁に揺れ、細い影が俺たちの足元まで伸びた。シヅ婆さんが欠伸と一緒に三本きりの歯を見せ、陣墨の壺を床へ置く。


 石の冷たさが、靴底を抜けて足の裏へ上がってくる。あの朝、尻もちをついたのと同じ床だ。視線を落とすだけで、笑い声まで足元に戻りそうだった。


「床の手入れ用だよ。使ったら蓋をしな」


「ありがとう。婆さんは、その灯を持っていてくれ」


「あたしゃ持つだけだよ。描くのは、あんたの手だ」


 俺はスケッチブックを開き、実寸の印に指を添える。灯の下で床の一番外の溝と見比べ、同じ巻きの端を見つけた。


 筆の先から、その溝だけへ墨を流す。細い黒がつながり、最後の一筋が閉じた。墨の匂いが、冷えた空気にかすかに混じる。真ん中の陣には墨を入れず、筆を浮かせる。


「ここで、私も……笑ったんだよね」


「うん。今日は、最後まで見ていてくれればいい」


 三谷が眼鏡の奥でうなずいた。猪瀬は溝にたまる墨をのぞき込み、がりがりと頭をかく。その音だけが、静かな部屋にやけに大きい。


「あの日の俺の声、ここだとよく響いたろ?」


「響いたよ。一番な」


「……悪かったって。二番目は譲らねえけどな!」


 筆を置くと、輪の溝が灯を鈍く照り返す。濡れた線の向こうに、俺の靴が見えた。


「ヨルカ、三谷、猪瀬。昼まで輪の内で待とう」


「月岡、これで外から手を出されても止まるんだな?」


「誰が向けても止まる。あの日はなかった線が、今はある」


 黒縁の眼鏡を上げ、三谷が輪の真ん中を見つめる。俺は壺の蓋を閉め、シヅ婆さんへ返した。


 昼、扉が開き、クラスが入ってくる。床を伝う足音を聞きながら、俺は輪の内に立ち続けた。五分刈りの頭の猪瀬が、隣で人数を数える。


「三十人。これで全員だぞ、月岡」


「おい……月岡がいるぞ」「追い出されたんじゃなかったのか?」「どうなってんだ?!」


 金色に染めた巻き髪の姫崎は、後ろの壁際にいた。茶色に染めた髪の宝来だけが輪の真ん中へ進む。近づく足音は、途中で止まらない。


「……写せよ。今の俺を。あの日みたいに」


 俺は目にかかる前髪を上げた。宝来の手には剣もなく、両腕は下ろしている。紙を支える俺の指には、まだ余計な力が入る。


「見たままでいいんだな?」


「都合よく直してもらう気はねえよ。全部、そのままでいい」


 サラサラという鉛筆の音が、俺と宝来の間を埋めていく。剣を持たない宝来を、一枚写した。


 宝来はそれをじっと眺め――大きく息をつくと、俺の方を向いた。

 

「コピー機って笑った。おまけって呼んだ。……すまなかった、月岡」


 宝来の頭が下がる。


「え……?」「何?」「どういうこと……?」


 紙を持つ俺の前で、あの日の三十人が黙った。


 石の床に、茶色の髪の影が落ちている。あの日は、笑い声がここで何度も跳ね返った。今は、誰かが息を吸う音まで聞こえる。紙の端に力を込めていた指を、俺はそっと緩める。


 笑う声は、上がらない。次に響いたのは、壁へぶつかる扉の音だった。宰相が兵を連れて入ってくる。


「おまけを捕らえよ。輪の外へ出た鼠だ」


 指輪だらけの指が、俺をまっすぐ示した。姫崎がうつむき、兵が輪へ踏み込んでくる。


 靴は線を越える。俺の腕へ向かう手だけが、何本も同じ所で止まった。届くはずの指先が、空をつかんでいる。


 兵が指を握り直し、もう一度手を伸ばす。袖との隙間は少しも縮まらず、足だけが前へ出た。


「え? 兵の手が届かない!?」「月岡が、何かしたのか?」


「閣下、また届きません!」


「くっ! 下がれ」


 頬のインクの染みのヨルカが、俺の横へ立つ。固まった腕の列の前で、写しの束を開いた。目を落とし、文字をひとつずつたどっていく。


「陣の外の輪は、内の者を守る輪です。燃やされた本に、書いてあります」


 兵は腕を引っ込め、輪の外へ下がった。靴音が重なっても、宰相の指は指輪の上で動かない。


「勇者たちよ。その者に付けば、魔王は討てぬ。討てねば、帰れぬぞ」


「でも……討てなかったじゃん。俺たち負けて帰ってきたんだぜ」


「帰れないって記録……本当なんですか?」


 後ろのほうで、声が二つこぼれた。宰相の口の端が、わずかに下がる。さっきまで俺へ向いていたクラスの目が、今は宰相を見ている。


 宝来はまだ頭を上げない。俺は鉛筆を紙の上へ置いた。急かす言葉は出さず、その顔が戻るのを待つ。


「……おまけは、俺のほうだった」


「……そうだね」


 あの日と同じ言葉だ。けれど今日は、喉の手前で止まらなかった。胸の底に詰まっていたものが、吐く息と一緒にほどけていく。


 俺は写した絵を宝来へ差し出した。


「三番目に認めよう、宝来」


「俺の後ろだぞ! 二番目は抜かすんじゃねえ!」


 猪瀬の指が宝来へぴっと動いた。宝来は絵を両手で受け取り、ようやく顔を上げる。


「分かってる。三谷が先で、剛史が次だろ」


「そうだ。三谷は、ずっと帰る日を待っている」


「……俺、みんなが笑うかと思ってた」


 宝来は両手で紙を支え、クラスの顔を一人ずつ見ていく。口元を隠す手も、隣をつつく肘もない。俺もあの日、誰の顔を見るより先に、その手と肘を見ていた。次にどこから笑われるか、そればかり気にして。


「笑っている奴はいない。俺も、お前の顔を見ている」


「……その絵、俺が持ってていいんだな?」


 宝来の指が、紙の角へかかる。俺は空いた両手をゆっくり下ろした。


「お前に渡したんだ。持って帰れ」


「丸めねえよ。……これは、このまま持ってく」


 宝来が絵を胸の前へ下げる。そこには、あの日みたいに握り潰す手はなかった。紙が折れずに残るだけで、こんなに息がしやすい。


 奥の扉が開き、シヅ婆さんが箒を引いてきた。宰相の足の手前を、左右に掃く。


「足を上げな。そこが掃けないよ」


「シヅ殿」


 宰相の片足が、言葉より先に上がる。箒は空いた所をすっと通り、兵の靴までそろって後ろへ引かれた。石を掃く音だけが、部屋の真ん中を横切っていく。


「シヅって、広場の像の名前だろ?」


「……あの婆さんが?」


「初代勇者さまです。台座には、十七歳としか彫られていませんが」


 クラスの顔が、箒から広場のある南へ向いた。シヅ婆さんは床を掃き、誰の問いにも答えない。さっき兵が並んでいた所に、箒の細い跡だけが伸びていく。


「最初の帰還は、明日の夜。一番目は、三谷です」


 俺の隣で、三谷が口を押さえた。声にならない息が、指の間から漏れる。クラスの後ろまで、その名が伝わっていく。


「明日って、本当に帰れるのか!?」


「三谷さんが先なら、俺も……俺も帰れるんだよね!?」


「俺は何番目だ!? なあ、月岡!」


 声が重なり、宝来が一歩だけ脇へよけた。三谷の前を、誰もふさがない。


「帰りたいかどうか、あんたらがもう一回考えな」


 シヅ婆さんの箒が止まった。沸いていた声が、すうっと引いていく。床の冷たさが、足の裏へ戻った。宰相は兵へ顎を振り、出口の前で俺へ顔を向ける。


「明日の夜か。……よかろう。私も見届けよう」

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