10. 最初の帰還
十二日目、一日かけて百枚の写しを灯に透かした。紙を持ち上げるたび、指の影が線を横切る。床へ同じ大きさで裏から写し、陣墨でなぞる。
床いっぱいの線は踏めないので、壁ぎわを歩くしかない。膝を伸ばすと、ずっと丸めていた背中がきしんだ。墨の鉄くさい匂いが、閲覧室の紙の匂いを押しのけている。
列の順は、確かめたとおりだ。二つ目の壺の底に、最後の一本ぶんだけを残した。ここをつなげば、三谷を送れる。
「今夜、宰相が来る。扉も窓も、開けておこう」
「三谷さんが帰るところを、外からも見てもらうんですね?」
俺は床の線から筆を離す。頬のインクの染みをこすり、ヨルカが供え石の記録を開いた。紙のこすれる音が、やけに大きく聞こえる。
「供え石は、一人ぶんずつ量って切る。ここに書いてあります」
向こうの口のあたりで、三谷と同じ重さなのはあの石だ。俺は窓に灯を置き、夜を待った。
「夜なら、向こうも夜だ。教室に人がいない時間を選ぶ」
「うん。着いたら、まず教室の外へ出るね」
黒縁の眼鏡の三谷は、チョークの欠片を握っている。俺がうなずくと、陣の真ん中へ進んでいった。
制服の袖口がほつれている。召喚の朝から、ずっと同じ服だ。教室で見慣れていたその袖が、ここでは頼りなく薄く見える。
「三谷さん。あの手紙の中身が、十日ずっと気になっていました。何と書いたんですか?」
「『お母さんへ。遅くなってごめんなさい。帰ったら、プリンを買っていきます』……これだけだよ」
「プリンとは何ですか?」
ヨルカが記録から顔を上げる。三谷は口元へ手を添え、小さく笑った。チョークを握る指の力が、少しだけほどける。
「甘くて、柔らかい食べ物です。お母さんが、よく買ってきてくれて……今度は、私が買っていこうって」
ヨルカは口の中で、ぷりん、と一度だけ繰り返す。聞き慣れないその響きで、家の台所がふいに近くなった。
「お母さんに届くように、名前と住所も書いたんですね?」
「うん。拾ってくれた人がいたら、ちゃんと渡してもらえるように」
ヨルカは紙を閉じる。五分刈りの頭の猪瀬が、三谷の前へ一歩出てきた。三谷の顔をのぞくように、ぐっと首を伸ばす。
「大福に言っとけ。俺は二番目だ、すぐ帰るって!」
「ゆっくり言って。住所も分からないと、行けないよ!」
猪瀬が家の住所を一息に怒鳴る。三谷は慌てて便箋を取り、最初の字だけを書いた。勢いよく走り出した鉛筆が、そこで止まる。
「待って! 番地から、もう一回。紙は一枚しかないんだから!」
「番地は……あれだ、郵便受けに書いてある! 白い犬がいたら、大福だからな!」
「白い犬だけじゃ決めないよ! 猪瀬くんの家に、ちゃんと行くから」
猪瀬が口を閉じる。三谷は住所を書き終え、本人へ向けて読み直した。今度は猪瀬も、口を挟まずに聞いている。
「それで合ってる! ……散歩、待ってろって……言ってくれ」
部屋を埋めていた声が、最後の頼みだけ小さくなる。
「言うよ。だから、猪瀬くんもちゃんと帰ってきてね」
「二番目は俺だぞ! 月岡、聞こえたな!」
俺は筆を持つ手を上げる。猪瀬の顔がこっちを向き、三谷は住所の紙を畳んだ。きちんと角をそろえ、制服のポケットへ押し込む。
「聞こえてる。一番目を帰すところも、見ていてくれ」
三本きりの歯を見せ、シヅ婆さんが柱の脇へ腰を下ろす。書庫まで来た婆さんは、箒を膝の上へ置いた。ふわあ、と欠伸をして、陣の縁へ目をやる。
「着いたら、ラムネを一本、教室に置いといておくれ」
「瓶に入ったの、ですよね? 忘れないように、書いておきます」
「食い物の名前ばっかり書くんじゃないよ。あたしの分も大事なんだからね」
茶色に染めた髪の宝来は、入口の柱の横で黙っている。俺と目が合うと、小さく顎を引いた。いつもの軽口は出てこない。
「月岡くん。一番にしてくれて、……ありがとう」
「謝った順だよ。三谷が、一番早かった」
「三谷。……向こうで先生に会ったら、全員無事だって言ってくれ」
「うん。ちゃんと言うね、宝来くん」
広場に松明が並び、人の顔が窓をのぞく。油の焦げる匂いが、扉から流れ込む。指輪だらけの指を前で組み、宰相が兵とクラスの残りを連れてきた。
兵は輪の外で立ち止まる。人垣の後ろに、金色に染めた巻き髪の姫崎が見えた。こちらを見ている顔を、俺も見返す。
「見るがいい、勇者たち。おまけの陣は、人を灰にするだけだ」
クラスの声がざわめきに変わる。三谷はチョークを握り直し、俺へ顔を向けた。窓から入る夜風に、制服の裾がかすかに揺れる。
「月岡くん。……ここに立ってて、いいんだよね?」
「いい。最後の一本を、今からつなぐ」
俺は目にかかる前髪を払い、筆の先を残った隙間へ向ける。宰相は開け放った扉の前に立ち、俺の手元を見ていた。その顔を見上げて、俺は口を開く。
「一人目です、宰相閣下。三十人、全員帰します。破られた頁も、返していただきます」
言い切ってから、心臓が一つ遅れて鳴る。値段を口にした時より、ずっと重い数だ。筆を握る手のひらが、汗で湿っていた。
三谷が俺のほうへ一歩動きかけ、足を止める。チョークを握る手の上に、そっともう片方の手を重ねた。
「……私が帰ったら、本当に帰れるって、みんなにも分かるよね?」
「俺たちにも分かる。だから三谷は、母さんの所へ行ってくれ」
「うん。帰る! お母さんに、私の声で言いたいから」
猪瀬が段から身を乗り出す。ヨルカは灯を高く持ち、陣の真ん中まで明かりを寄せた。揺れる炎をかばう指が、灯の縁をきゅっとつかむ。
「三谷さん。足元まで、線はつながっています!」
「月岡くん。先に帰って、待ってるね」
「行ってこい、三谷」
俺は最後の一本をつないだ。床いっぱいの線が光り、墨が灰へ変わる。息を止めたまま、三谷の姿を目で追う。
光の向こうに、夜の教室が開く。机と椅子、隅に積まれた石、月明かりの黒板が見えた。見慣れた並びが、灯の色とは違う白さで浮かぶ。
俺の机も、あの列のどこかにある。あそこに座れば、また何でもない朝が来る気がした。
その机の間に三谷が立っている。足元を確かめてから、眼鏡の顔がこちらへ向く。俺を見つけたように、顎が少し上がる。
「三谷……!」
俺が持ち上げる手より先に、向こうの手が上がった。三谷の口は動かず、光の端だけが細くなる。
上げた手の中で、白いチョークが小さく光る。指の隙間の白さを、目に焼きつける。
遠くから高い音が近づいてくる。音の続きごと光が閉じ、俺は空になった陣の真ん中を見た。伸ばしかけた手のひらに、閲覧室の冷気が触れる。
灰の上に、灰色の石が一つある。三谷が立っていた所で、角ばった影を落としている。
「……帰った。本当に、帰ったぞ」
兵の声が裏返る。窓の外で誰かが息をのみ、すぐに声が重なる。
「見えた……今の、教室だったよな!?」
「机があった! うちのクラスの机だよ!」
ヨルカは石のそばへ膝をつき、灯を寄せる。はしゃぐ声の下で、服が灰をこする音がする。
石の横に、小さな文字がある。俺には読めない字を、ヨルカの指が追った。指先は、同じ所でもう一度止まる。
「石に、王家の刻印があります。……供え石です」
宰相の指輪を回す指が止まる。開いた唇から、何も出てこなかった。俺の筆先を見ていた目が、石に張りつく。
窓をのぞく人たちの目が、石と俺の間を行き来する。猪瀬は教室のあった場所を見上げ、眉を寄せた。
光はもうない。耳には、閉じる直前の高い音だけが残る。息を吐こうとしても、喉の途中で引っかかる。
「おい……今の、救急車じゃねえか?」




