11. 紙一枚の重さ
救急車の音が、誰のために鳴ったのか。答えは、まだ誰の口からも出ない。
宰相は口を開かず、兵を連れて閲覧室から出ていった。
クラスのみんなの靴音も遠ざかり、窓の外から松明が減っていく。松明が通り過ぎた窓に、夜の黒さが戻る。
焦げた紙に似た匂いが、床からゆっくり上がってくる。墨の鉄くささは消え、灰の匂いだけが閲覧室に残っている。
五分刈りの頭を下げ、猪瀬が灰の上の石へ目を落とした。
「三谷の母ちゃんじゃ、ねえよな……?」
俺は目にかかる前髪を払う。喉の奥が乾いて、すぐには答えが出ない。
手紙一通を送った時には、三谷の手にチョークが返ってきた。
今、三谷の代わりに残っているのは、教室に積まれていた石だ。見つめていても、向こうの様子は分からない。
「同じ重さの物が、向こうから返る。三谷なら、紙を一枚、置いておく」
「こっちから送るって、あいつには言ってねえぞ?」
三谷は帰る前、拾ってくれた人がいたら、と話していた。
宛名も住所もきちんと書く三谷なら、帰ったあとも同じ場所を確かめるはずだ。
「置いてあったとして、どうやって取るんだよ?」
「紙一枚と同じ重さを送る。向こうの口のあたりにある、同じ重さの物が一つ返る」
猪瀬は石を見て、それから俺の手へ視線を移した。
「試してみる。手紙なら、俺たちの声より先へ行ける」
◇
十三日目の朝、書庫の扉を開けると、槍の穂先が左右で鈍く光る。
兵二人が入口を挟んで立ち、片方は紙に筆を走らせていた。
朝の冷えた空気に、槍の鉄の匂いが混じる。扉を開けた手に、冷たさが残る。
「宰相閣下の命だ。『おまけ』の拠点の出入りを、一人残らず書き留める」
頬のインクの染みをこすり、ヨルカが扉の内側を指した。
「閲覧の心得でしたら、こちらに――」
「ヨルカ、読むのはあとでいい。今は出入りの話だよ」
俺は段の上に立ち、兵の紙を見る。紙の余白には、朝の光が落ちている。
「どうぞ、書き留めてください。今夜は手紙を一通、送ります」
兵が筆を止めて顔を上げた。筆先で、落ちかけた墨が丸く膨らむ。
猪瀬は入口の輪より内側で、両腕を組んでいる。
「出入りを記す命令でしたね。宛先まで調べるんですか?」
「行き先を隠す気か!?」
「隠すまでもなく日本です。書けなければ、聞こえたままの音で書いてください」
「屁理屈を! 城へ出す手紙も、見逃さぬぞ!」
ヨルカが兵の紙へ、触れずに指を向けた。
「その欄は多分名前ですね。行き先は、下の欄ではありませんか?」
「口を出すな!」
「読み違えたままでは、閣下へ違うことが伝わります」
兵は紙を胸へ寄せる。ヨルカの指先だけが、宙に残る。
俺が卓へ戻る間も、止まった筆は俺の背中を追っていた。
昼、書庫の薄い紙を一枚出し、日本の字で三谷の名を書く。強く押せば破れそうな紙に、鉛筆の音だけが走る。
「全員無事だって書く。猪瀬は四日後の夜。母さんのことも聞こう」
猪瀬は椅子を寄せ、まだ白い紙の下半分を指した。椅子の脚が床をこすり、乾いた音を立てる。
「大福にも書け。散歩は二番目のあとだ、ってな!」
「犬は、字が読めません」
「三谷に読んでもらうんだよ!」
ヨルカは紙と猪瀬を交互に見る。その視線につられ、俺の鉛筆も紙の上で止まる。
「では、犬への手紙ではなく、三谷さんへのお願いですね?」
「どっちでもいい! 大福に待ってろって言いてえんだよ!」
俺は散歩の一行を、日取りの下へ書き足した。
猪瀬の太い指が、鉛筆の先を追ってくる。紙には触れず、字が増えるたびに少しずつ進む。
「三谷に頼む。お前の声まで似せて読ませるのは、やめておこう」
「似せなくていい! 大福には、名前が分かりゃいい!」
「それなら、名前は大きく書くよ」
紙を俺から受け取り、ヨルカが隅へ小さな字を並べた。
この国の字だ。俺の書いた三谷の名より、ずっと細かい。白かった隅が、少しずつ埋まっていく。
袖の長い上着から、細い指先だけが出ている。インクの匂いが、鉛筆の匂いの上に重なった。
「三谷は、その字を読めないよ」
「書いてあれば、いつか読めます。わたしも、日本の字は読めません」
俺はヨルカへ日本の字の行を読み、紙を折る。折り目をつける指に、いつもより力が入った。
夜まで、その手紙は鉛筆の頁の上に置いておく。薄い紙なのに、指を離すまで少し時間がかかる。
灯を卓の脇へ寄せ、最初の夜に写した頁を持ち上げた。
裏から透ける線を、羊皮紙一枚へ同じ大きさで写す。灯の熱を頬に感じながら、筆の先だけを見つめる。
「その紙で三谷に届くんだな! 俺の分、折り目で消えてねえか?」
折った手紙を開き、俺は大福の名を猪瀬へ向けた。
墨は一つ目の壺から匙一杯。細筆で線をなぞる。手紙の白さを汚さないよう、筆を持つ手を寄せすぎない。
「消えてない。向こうで開けば、ちゃんと全部読める」
手紙を陣へ載せると、入口の兵二人が卓まで入ってきた。槍と靴の音が、狭い卓の脇で止まる。
最後の一本だけが、筆先の前で空いている。筆先の墨が、灯を受けて光る。
「おい、その手紙! どこへ出す気だ?」
「さっきの行き先です。今から見えます」
俺は最後の一本をつないだ。
光の向こうに、夜の教室が開く。机の間の床に、畳んだ白い紙がある。見慣れた机の脚が、こちらの灯とは違う光を受けている。
月明かりの黒板の端まで見えて、光が細くなる。白い紙を目で追ううちに、向こうの床も隠れていく。
兵二人の尻が、ほとんど同時に床へ落ちた。どすん、と鈍い音が重なる。
「い、今の……床の向こうに、部屋があったぞ!」
「閲覧の心得、その四。閲覧室で大声を出さないこと。書いてあります」
「そういう場合か!? おい、もう閉じたぞ!」
猪瀬が段の上から、床の二人を見下ろす。床に座ったままの兵の脇で、槍が頼りなく傾いている。
「腰、抜けてんじゃねえか! 立てよ」
「ぬ、抜けておらん! 見張りの姿勢だ!」
ヨルカは兵を見ず、俺の手元へ灯を寄せた。
灰になった陣の上に、畳んだ紙が一枚残っている。灯の明かりが、その白さに集まる。
「……三谷の字だ」
ノートを破った頁だ。畳まれた角の内側に、三谷の字が見えた。
俺は紙を開き、声に出して読む。折り目の向こうまで、字を一つずつ追う。
「『月岡くんへ。あの夜の救急車は、お母さんじゃなかった。でも、音を聞いて、病院まで走ったよ』」
猪瀬が長く息を吐く。俺も息を吸い直す。指は、次の行の下を押さえたままだ。
読み始めようとして、声が一度だけ詰まった。喉を動かしても、次の字が音にならない。
「トーゴ。……続きを、お願いします」
ヨルカには読めない字を、俺が読む。灯に照らされた行へ、もう一度、目を戻す。
「『手術は、明後日に決まりました。……間に合ったよ、月岡くん』」
間に合った、の一言が、紙の上で少し震えて見える。震えているのが紙か俺の指か、分からなかった。折り目に添えた指を、うまく動かせない。
「……よかったな、三谷」
猪瀬の声が鼻にかかる。最後の呼びかけだけ、いつもの大声にならない。
猪瀬が紙をのぞき込み、床の兵も黙っている。誰の靴も、もう床を鳴らさない。
続きには、帰った次の日の夕方に教室へ置きに行く、毎日置き直す、と書かれていた。紙の端まで、もう少し字が続く。
「『追伸。あの日、笑わなかった人が、もう一人いたよ。月岡くんは、下を向いてたから』」




