12. 笑わなかった人の値段
三谷の追伸を、俺は朝になってもう一度読んだ。紙の端を押さえる指が、同じ言葉のところで止まる。
窓から入る光が、鉛筆の粉を細かく光らせた――紙をなでる指先に、ざらりとした感触が残る。
あの日、宝来と紙ばかり見ていた俺には、すぐに名前が出てこない。教室にいた顔を、ひとつずつたどる。
「姫崎じゃねえのか? 城で、笑ってねえって言ってたらしいぞ」
「笑ってたよ。それは俺も、三谷も見てる」
猪瀬は五分刈りの頭をかき、入口の段へ腰を下ろした。
十四日目の昼前。扉の外で、見張りが声を上げる。
「台所の勇者が来ました。鍋を持っています」
段の下には、短く刈り上げた髪の柿本がいる。
両手で鍋を提げる姿は、教室でも見た。持ち手に指の絆創膏が触れている。
湯気に、塩と芋の匂いがあった。家庭科室から廊下へ流れてきた匂いに似ている。ここだけ、遠い教室とつながっている気がする。
「三谷の分の飯が、余ったんだよ。猪瀬、食えよ」
柿本が閲覧室へ鍋を運びかけると、ヨルカが貼り紙へぴたりと指を当てた。
頬のインクの染みが、鍋から出る湯気のほうへ向く。湯気はその指の向こうへ、遠慮もせず流れていく。
「閲覧の心得、その三。閲覧室で物を食べないこと。書いてあります」
「外なら食えるな。月岡も来いよ、椀はある」
柿本は迷わず入口の段へ鍋を下ろす。底が石に触れ、ことりと鳴る。
猪瀬が座る場所を空け、俺も輪の内側に足をそろえた。膝と膝が近い。その狭さが、今はありがたい。
「書庫番さんは、食わないのか?」
「外なので、食べます。カキモトさん、その椀をください」
「さっきは止めたじゃねえか!」
猪瀬が鍋を指す。ヨルカはその横で、椀を大事そうに両手で受け取った。
「食べる場所を変えたのです。本には持っていきません」
「理屈はいいから、俺にもよこせ!」
柿本は猪瀬へ盛りの多い椀を出し、見張りの兵にも声をかける。椀の上で、芋が小さな山になる。
「立ってる二人も食えよ。鍋の前までなら、記しながら来られるだろ」
兵は紙を折り、先に隣の顔を見た。動くのは目だけで、足はまだそこにある。
柿本が椀を差し出すと、片方の空いた手が、湯気につられるように動く。
「見張りは続ける。……受け取るだけだ」
「受け取ったら食え。冷めると、芋が固くなる」
椀を持つ兵の槍が、こつんと壁へ立てかけられた。
柿本は自分の分を味見し、指先で塩を足す。白い粒は、湯気の中へ消えていった。
右の人差し指と中指。台所でまたやったのか、絆創膏の位置まであの朝と同じだった。
俺は目にかかる前髪を上げ、その指から柿本の顔へ目を戻す。紙に隠れていた記憶が、ようやく顔と重なる。
「柿本は、笑ってない。あの日、自分の指を見てた」
「笑うとこじゃ、なかったからな。……で、俺みたいなのの値段は、いくらだ?」
柿本の手が、塩をつまむ形のまま止まる。椀へ落ちるはずの粒が、指の間に残っている。
召喚の間の列の後ろで見た、手元を確かめる顔だ。朝の弁当で指をやったと、あの朝の教室で柿本は話した。
「値段は無い。笑ってない人の切符は、無料だ」
「……そっか。なら俺は、後でいい」
柿本は椀を膝へ置く。その手を見て、帰れると告げた俺のほうが息を詰めた。
猪瀬の口が止まり、猪瀬の匙だけが鍋の底をこする。かり、と小さな音がやけに響く。
その匙を置き、猪瀬が柿本を見た。
「後って、いつまでだ?」
「夜に泣いてる奴の声が、台所まで聞こえるんだよ。先に帰してやって欲しいんだ」
「柿本の帰りを、ずっと後にする理由にはならない」
柿本は俺の椀を見る。空になった所へ鍋から芋を入れた。湯気の下で、椀がずしりと重くなる。
「まず食え。話してたら、飯が減らないだろ」
「食べる。でも、順番は俺が決める。四番目だ」
柿本の匙が、鍋の縁で止まった。
猪瀬は指を折り、俺と柿本の顔を忙しく見比べる。
「俺の後ろが二人になったぞ! ははっ」
「四番目か。……結構、早いんだな」
柿本は自分の椀へ塩を足した。
握っていた塩の粒が、さっきより少し多い。猪瀬が鼻で笑う。俺は椀を持ち直した。手のひらの熱さが、ようやく戻ってくる。
「味見してからだろ、それ!」
「分かってる。月岡、お前のも足すか?」
俺が慌てて椀を引くと、段の下に兵の靴が並んだ。
茶色に染めた髪の宝来が、今度は兵二人を連れて立っている。
「宰相の言葉だ。剣聖をおまけの所に預けておく気はない、ってさ」
俺は椀を段へ置き、宝来へ向き直る。手のひらには、椀の丸い底の熱が残っている。
「ご用件は、宰相閣下のですか。それとも、宝来のですか?」
「どっちもだ。北の砦へ、もう一度出る。剣聖が要るんだよ」
猪瀬は椀を持ったまま、段の上で足を引いた。
両足とも輪の内だ。宝来はその靴の位置を見ている。猪瀬の膝が、俺の膝に触れた。
「二番目は、ここで待つっつってんだよ!」
「剣聖殿、閣下の命であります。城へお戻りください」
「俺は、月岡に帰してもらう日まで……ここにいる!」
声は大きいのに、終わりが少し鼻にかかる。俺は膝を動かさずにいる。
兵が口を開きかける。柿本はその前へ、飯の椀を差し出した。兵の鼻先へ、湯気がふわりと届く。
「歩いて来たんだろ。まず食え」
「任務中である。……熱いな、この椀は」
「両手で持てよ。そっちの兵の分もある」
兵二人は槍を脇へ立てかける。石に当たる音が、続けて響く。
猪瀬へ向けたはずの顔が、二つとも鍋の中へ下がった。
「食ってんじゃねえよ。戻るって話をしてんだろ!」
「煌真も座れよ。鍋をよけるから」
宝来は柿本の声に返さず、猪瀬を見る。鍋の向こうで、匙が椀へ触れた。
兵が飯を口へ運ぶ。その横で、宝来の声が低くなった。
「……お前が居ねえと、列が持たねえんだよ」
「お前が先頭で止まらなきゃ、持つだろ」
宝来の唇が閉じる。猪瀬はその顔を見たまま、椀を下げない。椀に当たる匙の音が、急に遠く聞こえる。
「……俺だって、止まりたくて止まったんじゃねえ」
「知ってる。見てたからな、後ろで」
宝来の目が、猪瀬の椀へ落ちる。猪瀬はそれを、両手で抱え直す。
柿本が宝来にも椀を出した。猪瀬に向けたのと、変わらない手つきだ。
「煌真も食え。ここの飯は、並んだ順でいいんだよ」
差し出された椀の前で、宝来の両手は動かない。柿本も、すぐには引っ込めなかった。
「……戻るぞ。お前ら、椀を返せ」
兵二人は椀を持ったまま立つ。鍋の前で足を止めた。
柿本は空いた椀を受け取り、残った方へ顎を向ける。
「そっちは食ってからでいい。残すなよ」
猪瀬は立たない。宝来は兵にもう一度顎を振り、先に段を下りる。猪瀬の足は、最後まで輪の内にあった。
供を二人連れていても、その背中は一人で来た日より小さく見える。椀を受け取らなかった両手が、俺の目に残る。
段の下で、宝来が俺へ振り返った。今度は鍋も、猪瀬も見ない。
「月岡。宰相が明日、広場で触れを出す。……お前の写しは偽物だ、ってな」




