8. 帰り方を、教えてくれ
十日目の昼前、猪瀬は昨夜泊まった屋根裏から下りてきた。五分刈りの頭をかき、入口の段へ座る。泥の残る靴を両足とも投げ出した。
屋根裏の藁くずが、まだ襟に付いている。乾いた藁の匂いも、入口まで下りてくる。
「北の砦の外で、魔王軍の黒い旗が見えたんだ。そしたら先頭の煌真がビビッて止まっちまって、後ろもぐちゃぐちゃになったんだ」
猪瀬は両膝へ手を置く。俺は入口の内側から、その手元に目を落とした。指の節には、まだ力が残る。
「全員、砦まで退いた。あいつ、まだ聖剣を抜けねえままだよ」
猪瀬の握った拳の白さだけが、目の前にあった。
猪瀬は空の手で、剣の柄を握る形を作る。黒縁の眼鏡の三谷が、写しを束ねる手を止めた。
「ここまで来るって、宝来くんは知ってるの?」
「知らねえよ。城に着いてすぐ、俺は抜けてきたんだからな」
広場のざわめきが、入口へ近づく。石を踏む足音が聞こえた。俺が顔を上げると、茶色に染めた髪の宝来がこちらへ歩いてくる。
旗も馬もない。周りの人はよけず、宝来が自分で道を選んでいた。
広場の真ん中の像が、剣を掲げたまま、その背中を見下ろしている。石の剣は昼の光を受け、宝来の足元へ細い影を落とした。
「よう、おまけ。勇者が直々に来てやったぜ」
「二度目ですね。ご用件を伺います、勇者様」
俺は目にかかる前髪を払い、段から立ち上がる。声の届く場所で向き合うと、以前、像の前に集まっていた人が、隣の人へ顔を寄せた。
「あの虫干しの子を笑ってた勇者だろ。黙れって言い残して帰った子だ」「あの時は、もっと大きな声を出してたのにねえ」
宝来の足が段の前で止まる。柄に置いた指が、一度小さく震えた。
「俺を先に帰せ。そしたら、お前をクラスに戻してやる」
「供の兵は、どちらに? 靴が泥だらけですが?」
宝来が自分の靴へ目を落とす。鞘の下のほうにも、俺は同じ泥を見つけた。
「兵なんか連れてくる必要ねえじゃん。勇者一人で来たほうが、ありがたいだろ」
「指がずっと震えていますけど?」
「見んなよ! ただ、疲れてるだけだって!」
猪瀬が宝来の背中をのぞき込む。
「ケツに泥の後が残ってるぞ。こけたのか?」
「こけてねえ! 剛史、お前まで何なんだよ!?」
「あ、鞘の泥を拭き忘れてんぞ」
宝来は鞘を隠す。
「帰り方が分かるんなら、俺から試せばいいだろ。勇者が言ってんだぞ!」
「三谷が一番、猪瀬が二番です。その順番は変わりません」
宝来の視線が三谷へ動く。三谷は紙を束ねる手を下ろさず、入口から彼を見ていた。
「私、待ってるよ。月岡くんが描いてくれるのを」
その言葉を受け止めるように、俺は卓の縁へ指を置いた。
「……その紙で、本当に帰せるんだろうな?」
宝来は輪の内へ入り、卓の写しへ手を伸ばす。紙に影がかかる寸前、頬のインクの染みを指でぬぐい、ヨルカが貼り紙へ向き直った。
「閲覧の心得、その二。汚れた手で触れないこと。ここに書いてあります」
「今、そういう話じゃねえじゃん! 俺は中身を確かめてるんだよ!」
「中身を確かめる前に、まず手を洗ってください」
宝来が自分の指を開く。柄から移った泥が掌に付き、俺たちの前へ差し出された。
「これくらい、もう乾いてるだろ!」
「乾いている泥も、紙には付きます」
「……どこで洗えばいいんだよ?」
ヨルカは階段脇の水桶を指す。宝来は引っ込めた手を両方とも水へ入れ、指の間をこすった。
水が茶色く濁る。初めてここへ来た朝、俺も同じ桶で手を洗った。冷たさに指をすぼめた、あの朝のことを思い出す。
広場の人々が、勇者の背中を見ている。剣を掲げていた両腕が、今は桶の中にあった。水のこすれる音を、誰も声で隠さない。
「煌真。こいつの前で見栄張っても、全部見えてんぞ」
宝来は手を水から上げる。雫が桶へ戻るまで、何も言わなかった。濡れた指を開いたまま、猪瀬へ横顔を向ける。
「宰相に言われた。怯える勇者は要らぬ、ってさ」
「……宰相が。昨日の夜に、そう言ったの?」
宝来は三谷へ顔を向ける。濡れた指は、もう聖剣の柄へ戻らない。
「月岡を追い出した話までしたんだよ。笑いもしねえで、よかったって言いやがった」
「よかった、って。俺が城から出たことか?」
「お前を城から出したの、陣を写させないためだって。……俺が笑ってくれて、手間が省けたって」
俺は自分の右手を見る。零日目、王へ耳打ちする宰相の目が、この手の上で止まった。忘れたつもりの視線が、今になって指先へ戻ってくる。
鉛筆を持つ長い指だ。剣も握れない手を、あの人はわざわざ見ていたのだ。
「……そうか。あの日、俺の手を見てたのか」
俺はぎゅっとこぶしを握った。
おまけだから捨てられたんじゃない。描けるから、遠ざけられた。喉の奥でずっとつかえていた物が、少しだけ動く。悔しさは消えない。それでも、隠したくなっていたこの手を、俺は見直せた。
「陣を描けるのは、月岡だろ。王様でも宰相でも、俺でもねえ」
宝来は水桶の縁へ指を置く。猪瀬が立ち上がり、今度は彼の顔をのぞき込んだ。
「なら、最初からそう言えよ! クラスに戻してやるって、今もお前が決めるのかよ!?」
「分かってる! ……でも、俺が前に立たなきゃ、みんなばらばらになるだろ」
「昨日は前で止まったじゃねえか!」
宝来の口が開く。声は出ず、濡れた指だけが桶の縁を強く押さえた。俺にも、否定できる言葉はない。それでも、言い負かして終わりにしたくはなかった。
「猪瀬、そこまでだ。宝来の話を聞こう」
「……月岡。俺が帰りたいって言ったら、みんなにも聞こえるだろ?」
「聞こえますよ。今、ここにいる人には」
宝来は広場へ顔を向ける。剣を見ていた人が、今度は彼の口を見た。俺は先を促さず、その場に立っている。
「俺、怖くて動けなかったんだ。強いって言われて、先に立って……ただ、立ってただけだ」
「……私も、怖かったよ。だから、あの日は……笑ったの」
「三谷……。そっか」
猪瀬は腕を下ろす。水桶の横へ置いた杯を取り、宝来へ差し出した。
「水、飲めよ。そこに立ってるだけじゃ、喉も乾くだろ」
「……今はいい。先に、言う」
宝来が聖剣の帯を外す。帯の金具が、小さく鳴った。俺の前で腰が軽くなり、両手が剣を入口の外へ運ぶ。
猪瀬が剣を置いたのと同じ段へ、聖剣の鞘が触れる。こつ、と石が鳴る。広場のささやきがやみ、宝来は俺のほうへ戻ってくる。俺はその足が止まるまで、黙って待った。
「……帰り方を、教えてくれ」




