7. 嫌いじゃなかった
百年ぶん先の日本。シヅ婆さんはそれきり何も言わず、夜明けに俺たちを追い出した。朝の冷気が頬を刺しても、あの言葉だけは頭から離れない。
八日目の昼、閲覧室の卓と書架は壁へ寄せてある。俺たちは百枚の写しを床へ並べ、端から順を確かめた。
白い紙が床を埋め、窓からの光をはね返す。舞う埃まで見えるほど、閲覧室はいつもより明るい。いつもなら見過ごす小さな継ぎ目が、今はやけに気になる。
「裏から写すから、列は逆だよ。こっちの端が、一の十」
「一の十、一の九。三谷さん、次をお願いします」
黒縁の眼鏡を直し、三谷が紙を置く。ヨルカは頬のインクの染みも拭かず、指で番号を追った。かすかな紙の擦れる音まで、今は頼もしく聞こえる。
「月岡くん、この継ぎ目で合ってる? 線が二本、つながって見えるんだけど」
「合ってる。そのまま押さえていてくれ」
入口で靴音が止まる。顔を上げると、外の光を背に、金色に染めた巻き髪の姫崎が一人で立っていた。
兵はいない。巻いた髪の先が、今日は少しほどけている。広場のざわめきだけが、開いた入口から細く届いた。
「ねえ、入っていいよね? 今日は客なんだけど」
「五の三を踏んでいます。番号が書いてあります」
「おわっ……。ゴメン」
姫崎が足を上げ、隣へ下ろす。ヨルカは迷わず、その足先を指した。
「そちらは五の四です。紙のない所へお願いします」
「もうっ、紙ばっかり! 椅子くらいないの?」
「あります。紙を踏まずに来てください」
俺は壁際から椅子を引き、卓へ向ける。姫崎は靴底を確かめ、紙の隙間を選んで進んでから、ようやく腰を下ろした。
「月岡のこと、ずっと嫌いじゃなかったんだよね」
右手が巻き髪の下へ入る。その言い方に、胸のどこかが返事を探しかける。俺は目にかかる前髪を上げ、鉛筆を取った。
「ご用は、帰りの順番ですか?」
「明日、みんなで出るの。その前に帰してほしいんだけど。あたしには、優しくしてくれてもいいじゃない?」
鉛筆が紙を走る。耳たぶに指を添える姫崎を、俺は見たまま写した。鉛筆の先を見ていると、さっきまで近かった声が少し遠ざかる。
教室の斜め後ろの席から、何度も見た仕草だ。思い出そうとしなくても、こういうことだけは残っている。
「優しく、って何をすることですか?」
「あたし、おまけなんて一回も言ってないし」
三谷が紙を置く手を止め、顔を上げた。置きかけの紙の端だけが、床へ垂れている。
「言ったよ。六日前、ここで」
姫崎の指は、耳たぶから離れない。俺は二枚目を写し、紙を卓の端へずらした。
「言ってないってば! なんでそんなこと言うの?」
「私に、おまけの所にいたら帰れなくなるって言ったわよ!」
「てっ、ていうか、心配しただけなんだけど……」
「宰相に言いつけたのも、心配だったから?」
「そ、それは……煌真くんのためだし……」
三谷が椅子の背を握る。木に指を押しつけたままのその手を横目に、俺は新しい紙を手元へ引き寄せた。
「今朝、朝ごはんは食べた?」
「食べたけど。パンと卵。……それ、帰るのと関係ある?」
姫崎の手が膝へ下りる。俺はその位置まで三枚目に写し、前の二枚と並べた。
ヨルカが卓へ身を乗り出し、三枚を端から一枚ずつ指で押さえる。そのたびに、姫崎の目が指先を追う。
「一枚目、耳たぶに手。二枚目、耳たぶに手。三枚目、手は膝。……描いてあります」
「なにそれ! あたしの顔、そんなふうに見てたの?」
姫崎が絵へ手を伸ばす。紙の端へ指がかかり、薄い紙がかすかに鳴った。俺は押さえず、その三枚を姫崎のほうへ向ける。
「教室でも同じだった。宿題を忘れた日に、先生へ話す時も」
「それ、昔のことじゃん! いちいち覚えてるとか、キモッ!」
「今も、二回、同じ所に手が行ったよ」
「だから何? あたしの言うこと、全部嘘だって言いたいの?」
俺は朝ごはんを答えた絵を指す。耳たぶの二枚から、その一枚だけを離して置いた。
「全部なら、この一枚は描かない。続きを聞くよ」
姫崎の唇が閉じる。椅子の脚が一度鳴り、彼女は膝の上で両手を重ねた。さっきまで途切れずに出ていた言葉が、そこで止まる。
「明日、初陣なの。……怖いのよ」
金色の髪は動かない。俺は二枚の絵へ向けていた鉛筆を、膝の手へ向けた。
重ねた指の先が、白くなるほど握られている。その強さを見ていると、自分の指までこわばる気がする。
「嘘じゃなさそうだ。手が、膝のままだし」
「じゃあ、帰してよ! 怖いんだってば。こんな所にいたくない!」
最後の一言で声がかすれ、姫崎は俺の顔を見た。鉛筆の先は、まだ紙に触れない。その声を聞いてしまった以上、ただ追い返すだけの返事はできない。
「値段は謝罪です。嘘は、受け取れません」
「ごめんって思ってるし! それじゃ足りないの?」
「三谷にも、謝る気はありますか?」
姫崎の手が、また耳たぶへ動いた。三谷は椅子の背から手を離し、俺の横へ来る。隣に立つ気配を感じて、鉛筆を握る力を少しゆるめる。
「みんなのために呼びに来たのに、あたしばっかり責められて……ごめんって思ってるって、言ってるじゃん!」
俺は四枚目の紙を取り、白いまま卓の端へ戻した。鉛筆を置く音が、姫崎の声の切れ目に落ちる。小さな音が、部屋の奥まで届いた。
「思っていることを、俺は写せない。今の言葉を、謝罪には数えられません」
「……なんで? 謝ったじゃん、今!」
姫崎が勢いよく立ち上がる。三枚の絵は卓へ残り、椅子の脚だけが床をこすった。俺はその音が消えるまで、呼び止めずにいる。
「ふんっ!」
入口の段で、金色の髪が一度だけこっちへ向く。俺と目が合うと、姫崎は何も言わずに広場へ下りていった。
卓に残った三枚を見下ろす。笑ってやろうという気は、どこを探しても出てこない。あの日の笑い声が、ふいに耳の奥へよみがえった。同じ声を誰かへ返すのは、どうしても嫌だ。
「……怖いのは、私も同じだったよ」
三谷は三枚目の絵へそっと手を添える。そこに触れた指を見てから、俺はその紙をほかの二枚へ重ねた。
「怖いと言ったことまで、嘘にはしない」
「うん。……でも私は、ちゃんと月岡くんに謝りたかった」
ヨルカが三谷のために椅子を戻す。床を滑る脚の音が、さっきより柔らかく聞こえる。俺は息をつき、床の写しへ目を移す。
「帰るための紙を並べよう。五の三は、まだ使える」
◇
九日目の夕方、北の街道のほうから足音が来る。泥だらけの五分刈りの頭の猪瀬が、入口の段へ座り込んだ。土の湿った匂いが、暮れかけた空気へ混じってくる。
夕日が石畳を赤く塗り、長い影が段まで届いている。昼の温もりが抜け始めた石から、冷気が足もとへ上がってくる。
「水、くれ。……喉、もうからっからだ」
三谷が差し出す杯を、猪瀬は一息であおる。俺は隣にしゃがみ、膝に付いた泥へ目を止めた。
「みんなは、城か?」
猪瀬は空の杯を両手で包む。肩で息をしながら、北の丘へ顎を向ける。返事を待つ間だけ、広場の物音が遠くなる。
「全員、自分の足で戻った。……城には着いてる」
剣を提げた手は膝から下りない。俺は杯へ次の水を注ぐ。次の言葉を待つ耳に、水の音だけが近い。
「負けたよ。……煌真が、一歩も動けなかった」




