6. ラムネ持ってない?
五日目の夕方、俺は綴じ目録の写しを卓へ広げた。西日が卓の端を赤く染める。
「ヨルカ、あの床を毎日掃いている婆さんに聞こう。俺は床を同じ大きさで写す」
「人を運ぶ陣と、欠けた頁……。上手く行くといいんですが」
頬のインクの染みを袖でこすり、ヨルカが地図用の大紙を運んでくる。俺は零日目、陣の縁を歩いて見た敷石を指で数え直した。あの床を、今夜は取りこぼさずに持ち帰る。
「縦十、横十。敷石一枚に、紙を一枚使う」
「百二枚あります。二枚は予備に残します」
筒に巻く前の紙を、端をそろえながら二人で一枚ずつ確かめる。黒縁の眼鏡の三谷が、最後の二枚を卓の下へよけた。
「私も持っていこうか? 二人だけじゃ、大変だよ」
「三谷はここで待ってくれ。兵に探されている間は、輪の内にいてほしい」
三谷の手が、俺の差し出した鍵の下へゆっくり伸びる。書庫の鍵を両手で受け取ると、そのまま包むように握り込んだ。ここに残る三谷へ、鍵しか渡せないのがもどかしい。俺は百枚ぶんの筒を抱え上げる。
「……分かった。帰ってきたら、私にも教えてね。破られた頁のこと」
「必ず聞いてくる。三谷を一番に帰してやるんだから」
◇
夜の坂は、昼に歩いた時より長い。紙の筒が腕を圧迫し、冷気が袖口から入り込む。ヨルカの吐く息が白くほどけるたび、塔の小さな扉が少しずつ近づいてきた。ようやく着いたその前で、見張りの兵二人が槍を交差させて道をふさぐ。
「宰相閣下の命だ。おまけを塔へ近づけるな」
「命じられた対象は、『おまけ』一人ですよね? 書庫番と紙は通してください」
兵の一人が、ヨルカの抱えた筒を引っぱる。紙の縁がきしみ、俺は目にかかる前髪を払って筒をつかみ返した。こっちは、折られるために運んできたわけじゃない。
「屁理屈を言うな! この紙で何をする気だ!?」
「地図用の紙です。引っぱれば折れてしまいます」
「おまけの言うことなど聞かん! 手を離せ!」
ヨルカは筒を抱え直し、胸元へ寄せる。俺も手を離さずにいると、扉の内側で鍵が鳴った。そこから番人の婆さんが、箒を持って出てくる。
「うちの客に、何してんだい? くっくっく」
「宰相閣下の命であります! 婆あは下がれ!」
「なら、その命を持って帰りな。ここはあたしが掃くんだよ」
婆さんが三本きりの歯を見せ、箒を横へ払う。
「ソイヤッ!」
槍が二本とも柄に巻き取られ、伏せてある水桶へ穂先から突っ込まれた。がこん、と桶が鳴る。塔の壁に跳ね返る音のあと、兵の手だけが宙に残った。
「うわっ! 槍が!」
「婆あ、何者だ!?」
「ほら、飲み代くらい出してやんな」
婆さんはそう言ってウインクする。
「あ、そ、そうですね……」
「じゃあこれ」
ヨルカがポケットから、銅貨を数枚取り出すと兵たちに渡した。
「ふ、ふん! 俺たちは何も見てないぞ!」
兵はそっぽを向きながら銅貨を懐へしまった。
「槍はちゃんと持ちな。掃除する物を増やすんじゃないよ」
婆さんは箒を斜め上へ掲げ、片足を引いて止まる。その足の開きと柄を握る手の高さに、俺は広場の少女の像を重ねた。
手首の角度まで同じだ。見間違いかと思い、俺は足先まで見直した。剣の代わりに、今は箒を掲げている。
朝の光の中で見上げた剣先が、頭の中で箒の先に重なる。
「……婆さん。その構え、広場の像と同じです」
「ふぁ~~~~あ」
返事は欠伸だった。俺の驚きが置き去りになるくらい、長く、気の抜けた声だ。婆さんは扉を開け、顎で俺たちを中へ招く。
「こないだの硬貨を見せな。まだ持ってるんだろ?」
「持ってます。縁が欠けてる、この一枚です」
俺は召喚の間で十円玉を渡した。婆さんの指が、灯の下で硬貨をひっくり返す。
「日本国。十円。……字は、まだ同じなんだねえ」
「読めるんですか? 日本の字なのに」
婆さんは硬貨の縁を親指で押さえた。今度は俺の掌へ押し戻さず、顔を上げる。
「シヅだよ。十七で呼ばれて、百年たった」
百年。口の中で繰り返しても、数の大きさが舌に乗らない。学校へ行って、帰って、また朝が来る。そんな日々をどれだけ重ねれば、目の前の人に届くんだろう。
ヨルカが灯を持ち直す。硬貨とシヅ婆さんの顔を交互に見て、読み上げる時のように背筋を伸ばした。
「像の台座に、十七歳で召喚と書いてあります。……百十七歳とは、書いてありません」
「毎年台座を削らせる気かい? 十円が銅貨になっちまったほうが、あたしには驚きだよ」
シヅ婆さんが硬貨を俺へ返す。指に触れた十円玉は、さっきより温かかった。日本の字を読める人が、目の前で箒を抱えている。遠い話の中にいた勇者が、急に手の届く距離になった。
「百年前の七人のうち、婆さんが勇者だったんですね?」
「魔王は討ったよ。帰れずに、ここを掃いてるのさ」
俺が次の言葉を探す間に、シヅ婆さんの目が俺のポケットへ動く。空いているほうの手が、当たり前みたいに俺へ差し出された。
「あんた、ラムネ持ってない?」
「百年前の人がなんでラムネ知ってるんですか?」
「そんくらい百年前にもあったんだ、ばか」
ばか、と言われたのに腹は立たない。教室の後ろの席で聞くような、遠慮のない声だ。
差し出された手へ、俺は何も載せられない。シヅ婆さんは指を折り、箒へ戻した。
「金よりラムネがよかったよ。瓶の玉が鳴るやつさ」
「からん、って鳴るやつですよね。俺のいた教室の近くでも、売ってます」
「……まだ、あるのかい?」
シヅ婆さんの口が、開いたまま少し止まる。灯の火が、濁りかけた目の中で揺れる。つい当たり前のことのように答えてしまい、俺は次の言葉に迷う。からん、という音なら、俺も同じものを思い出せるのに。
「あいにく、呼ばれる時に持ち物の案内はありませんでした」
「次を待たせるんじゃないよ。あんたの紙を広げな」
床の一角から大紙を広げ、敷石と同じ大きさで写す。紙を押さえる手に、石のざらつきが伝わる。継ぎ目も溝の底の欠けも、そのまま紙へ移った。
敷石は冷たく、膝から熱を吸っていく。目に入った溝が、指を通って紙へ抜ける。最初の夜は一枚に縮めた床を、今夜は一枚ずつ、そのままの大きさで受け取る。
「一の一。次は、一の二です」
「隅の番号は、線に重ならないように頼む」
ヨルカが書く番号を声に出す。シヅ婆さんは灯を持ったまま欠伸をし、俺の手元へ明かりを寄せた。紙を進む線のそばに、箒の影が細く伸びる。
「ヨルカ。番号、全部読み上げるの?」
「百枚あります。書いた番号は、声にしないと確かめられません」
「夜が明けちまうよ。あたしの欠伸が先に百回になるね」
夜更けには紙の束が積まれた。右手を開くと、こわばった指の間に冷気が触れる。最後の敷石を写す俺の耳に、ヨルカの声がはっきり届いた。
「十の十。百枚、そろいました!」
「よし。これなら、人を運ぶ大きさで描ける」
塔の上へ続く階段の口が、薄く白くなる。紙を押さえていた手を離し、俺は破れた頁の写しをシヅ婆さんへ向けた。
「この頁、婆さんなら知ってますか? 王宮から、欠けて戻ったそうです」
「知ってるよ。帰り着く〈いつ〉を決める図さ」
箒の柄を握る手は動かない。俺は床へ広げた百枚の端を押さえる。階段から流れる風に紙が浮きかけ、掌の下でかさりと鳴った。
「頁が無けりゃ、向こうも同じだけ日がたった今に着く。それだけさ」
「小石を送った夜、光の向こうの教室も暗かったよな。あれで合ってたんだ」
シヅ婆さんは顎を引く。俺はヨルカの持つ灯の前で、帰りの陣の写しを開いた。
「じゃあ、頁が無くても帰せる。五日ぶん、怒られるだけだ」
五日ぶんの欠席と、五日ぶんの心配。それで済むなら安い。叱られる声も、見慣れた教室の匂いも、今は帰る場所のしるしに思える。筒を抱えてきた腕から、やっと力が抜けていく。
「頁が無くても……三谷さんは帰れるんですね!」
ヨルカが息をのみ、紙へ伸ばしかけた手を握る。俺は書庫に残る三谷の姿を思い浮かべた。ラムネを載せられなかった手にも、今なら渡せるものがある。俺はシヅ婆さんへ向き直る。
「婆さんも、同じ陣で――」
シヅ婆さんは欠伸をやめる。箒が床を一度掃き、俺の足元の紙屑を端へ寄せた。乾いた音だけが、問いかけのあとに残る。
階段の口へ顔を向けたまま、婆さんは俺を見なかった。灯のそばにいるのに、床から伝わる冷たさが急に膝へ戻ってくる。
「欠けた頁は、あたしの帰り道だったよ」




