5. 燃やしたのは、紙だけです
猪瀬が去ると、俺は召喚の棚の前に椅子を置いた。扉の向こうで足音が遠ざかる。明日の朝までに、ここにある記録を全部写す。
「ヨルカ、地下の写本も持ってきてくれ。三谷は、写した順に並べてほしい」
「私、城に戻って知らせてこようか? 本を燃やすなんて……宝来くんも、知らないかもしれない」
俺は最初の頁を開く。三谷の黒縁の眼鏡が、記録と扉を交互に向いた。紙の端を押さえる俺の指に、力が入る。今は、手を動かさなければ朝に間に合わない。
「今から頼みに行っても、朝は来るよ。ここで、この本を残そう」
「……分かった。私、数える。月岡くんが写したの、一枚もなくさない」
ヨルカが地下から箱を運んだ。卓に置く音が、静まり返った書庫に響く。頬のインクの染みの横に、灯の影が揺れる。
「この箱の写本も、全部ですか? 綴じていない紙も混じっています」
「全部だよ。読めるものも、読めないものも」
俺の指が頁の線を追った。長い指の先から、鉛筆の線が別の紙へ渡っていく。読めない字にも、書いた誰かの癖がある。灯の油の焦げる匂いが、夜更けとともに濃くなる。
ヨルカの袖に隠れた手が次の頁をめくる。読み上げる声は、棚を一段空けても途切れなかった。紙のこすれる音に、鉛筆の音が重なる。
「召喚の記録、次の頁。王都に残った者の名……名……」
灯が下がり、ヨルカの額が本へ近づく。
「ヨルカさん、お茶です! 寝ちゃダメです!」
三谷が茶を差し出すと、慌てて顔を上げた。湯気が頁の上をかすめる。
「……起きています。今は、同じ名が続いただけです」
「三回、同じ名でした。お茶を飲んでから、続きをお願いします」
ヨルカは茶を一口飲む。俺は目にかかる前髪を上げ、こわばる右手を左手で開いた。指の節が、きしむように痛い。紙を離した指まで、次の線を探している。
「……写しの人。右手を止めてください。固まったままです」
「次の頁を開いておいて。少し揉むから」
ヨルカの口が一度閉じた。俺の手から紙へ目を移し、灯をそちらへ寄せる。祖父からこの書庫を継いだのだと言う。
「三年前から、わたしが鍵を持っています。祖父は、誰も借りなくても毎日、この棚を開けていました」
「じゃあ、明日の朝も開こう」
ヨルカが次の頁を広げた。紙の向こうで、灯がかすかに揺れる。俺の右手は、線を一本見ればその続きへ動く。明日の朝も、ここを開ける。そのためなら、あと少しは動かせる。
最後の綴じの端に、紙を破り取った跡があった。不ぞろいな縁まで、目に入る形をそのまま写し、三谷へ渡す。
窓が白くなった。夜の灯が弱く見え、卓の木目まで浮かび上がる。五百枚の写しが卓を埋め、棚の記録と地下の写本がすべて紙の束に変わる。
「五百枚。順番も、元の本と同じだよ」
「ありがとう。束は、輪の内へ置いてくれ」
ヨルカは写し終えた写本を箱へ納め、抱えて地下へ下りていく。階段に消える足音を聞きながら、俺は写しの束から手を離す。
◇
朝、兵の靴が入口の段を鳴らした。夜の鉛筆の音を塗りつぶすような、硬い響きだ。宰相がその間を歩き、指輪だらけの指で書状を示す。
「禁書を改める。召喚の棚を、すべて運び出せ」
「宰相閣下! ここは王立書庫です。わたしが預かっている本です!」
ヨルカが入口で両手を広げた。兵が肩を押そうとするが、手は上着の手前で止まる。指先だけが、押す動きを繰り返す。
「書庫番をどけろ。書状は読んだであろう」
「閣下、手が……肩へ、届きません」
別の兵も手を出した。二人の指が空中に並び、ヨルカは広げた腕を下げない。書状の端だけが、宰相の手元で揺れる。
「触らないでください!」
「……いいから、運び出せ」
兵がヨルカの腕を避けて横を向いた。鎧の縁をこすりながら、蟹のように棚まで進む。肩を寄せるたび、鎧だけが妙に大きな音を立てる。
足は輪を越える。誰も抱えていない原本を、兵が次々と棚から持ち出す。さっきまで頁をめくっていた場所に、朝の光だけが残る。
「あ……、あぁ……」
ヨルカが空いた棚へ手を伸ばすが、指が触れる先にはもう本の背はない。俺は卓から写しの束を抱え、入口まで歩く。
「写しの人、本が……全部、外へ」
「ここにあるよ。ヨルカ、俺の隣へ来て」
広場に原本が積まれた。兵の一人が火を近づけ、乾いた頁の端が反る。灯の中で読んだ字が、熱に押されるように縮んでいく。
像の前から人が集まった。靴音と低いささやきが、火の周りに重なる。宰相は火の前で指輪を回す。
「帰り道など、初めから無い。おまけの写しなど、紙くずだ」
「やめて……」
ヨルカが袖で顔を拭った。頁が崩れ、開いたままの文字が火の下へ落ちる。紙の焦げる匂いが、喉の奥まで入ってくる。腕の中には同じ文字がある。それでも、焦げる音を聞くたび、束を抱く指に力が入る。
「燃やしたって、真実は変わらない」
「お前が写した物など、誰も信用せんぞ」
俺は束の一枚目を群衆へ向けた。紙が朝の光を受け、鉛筆の線まで見える。ヨルカが涙を拭い、袖の先から指を出し、俺の写しの、最初の行を指した。
「百年前の召喚者、七人。魔王を討った後、七人とも王都に残る」
「貴様! 書庫番。お前が読むべきものは、私の書状であろう」
ヨルカの袖から出た指は、紙から離れない。群衆の顔が、火から俺たちへ向く。広場のざわめきが薄れ、紙を繰る音まで聞こえる。
「祖父は、これを毎日開いていました。誰も借りない日もです。わたしは、その続きを読みます!」
「異界の少年の紙などに、何の値打ちがある?」
俺は頁を一枚めくった。元の本にあった欠けも、字の傾きも、俺の腕の中にある。宰相の目を見てから、紙の角をそろえる。
「宰相閣下がご丁寧に運び出させた、その本の中身です。火では、こちらの字は消えません」
「……その束を持て」
兵が輪をまたいで近づいた。束を抱えた俺の腕へ向かう手が、紙の手前で止まる。空振りの指先だけが、紙の縁をなぞろうとする。
「閣下、これも取れません! 指が、届かんのです!」
「ヨルカ、もう一度その一行を読んでくれ。広場の人にも、はっきり聞こえるように」
ヨルカがうなずいた。息を吸う音が、俺の隣で聞こえる。涙の残る声が、二度目には火の音を越える。
「魔王を討った後、七人とも王都に残る。帰った方の名は、この後にもありません」
兵は腕を下げる。宰相の指輪を回す指が握られ、淡い金色の目が俺の紙へ止まった。
「ふん! 好きに写すがいい。どうせ、誰も帰れはせぬ」
宰相は兵を連れて広場を去る。遠ざかる靴音に、紙の燃える音が重なる。群衆の間を抜けるあいだ、一度もこっちを振り返らなかった。
俺は写しを卓へ戻す。ヨルカが空の棚を開き、三谷が束を一つずつ並べる。本の背があった場所に、鉛筆の字が帰っていく。
夜、ヨルカが箱を抱えて地下から戻ってきた。壺は三つとも、誰も触れていなかったという。昼の焦げた匂いがまだ鼻に残り、紙をめくる音に耳を澄ます。
「宰相閣下の書状には、召喚の棚とだけありました。地下の箱には、誰も下りていません」
地下の写本の写しを綴じ直す。今度は急がず、紙の縁をそろえる。ヨルカが目次をたどり、最後の行で指を止める。
「最後の頁は、帰り着く〈いつ〉を定める図です。ここに、書いてあります」
「〈いつ〉……。帰れる場所だけじゃ、決まらないの?」
俺は綴じの最後を開いた。紙はなく、破り取られた跡の形だけが写されている。夜中には次の頁へ急ぐばかりだった指が、そこで止まる。
何度数え直しても、枚数は合った。目次の指す図を、夜の俺は一度も見ていない。数え直すたびに残るのは、同じ形の空白だ。
「トーゴ。これを見てください。箱の底に、綴じ目録があります」
「俺は字が読めない。ヨルカ、そこを読んでくれ」
ヨルカが箱の底から書き付けを持ち上げた。紙のこすれる音が、やけに近い。祖父の三代前の書庫番の字だという。
「百年前の冬、王宮へ貸し出し。最後の一枚を欠いて戻る」
俺は破れた縁へ、書き付けの端を並べる。写しは守れたのに、いちばん欲しい頁には手が届かない。ヨルカの指が、何もない頁の先を示した。
「最後の一頁だけ、百年前に破られています」




