4. 順番は、謝った順です
三谷の予告した翌日の昼も、俺は腐りかけた本を写していた。頁の端は、指を添えただけで崩れそうだ。ヨルカが頁をめくり、三谷が写しを順に束ねる。鉛筆の音が続くあいだだけは、あの日の笑い声も少し遠かった。
窓から差す光の中で、紙の埃が金色に浮いている。乾いた紙の匂いを吸い込み、目にかかる前髪を指で払う。卓の端には白いチョークの欠片があり、三谷の手が時々その前で止まった。
「月岡くん、ここは次の束に入れるね。頁が抜けないように、私もちゃんと数える」
「うん。ヨルカ、次を頼む」
ヨルカは頬のインクの染みを袖でこする。取れたか確かめる暇もなく、その袖が本から離れた時、扉が開いた。
五分刈りの頭の猪瀬が、剣を提げている。入口から差す昼の光が、刃の縁を白く照らした。三谷が椅子を引く手を止める。
「おまけのくせに、帰り方知ってんだろ。帰せっつってんだよ!」
胸の奥に、あの日の笑い声が戻る。鉛筆を握る指が、知らないうちに冷えている。
「ご用件は承りました。順番は、謝った順です」
「ふざけ――」
猪瀬の剣が頭上へ上がる。俺は卓の前に立った。背中で紙を束ねる音がやみ、自分の息が耳につく。
ヴゥン……と空気が震え、振り下ろされた刃が額の手前で止まった。遅れて来た風が額を撫で、耳の横で空気が低く鳴る。刃には、目にかかる前髪を押さえる俺の指が映っている。喉に詰まった息を、音を立てずに吐いた。
「……何だよ! おい、止めんな!」
「剣には触れていません。まだお話の途中です」
猪瀬が渾身の力を込め、柄を両手で押す。刃と俺には指が一本入る隙間があった。しかし、たったそれだけの隙間を、猪瀬の剣は詰められない。
「剣聖の剣だぞ! 紙しか触れねえお前が、何やってんだよ!?」
「俺の額に向ける前に、帰りたい理由をお聞かせください」
猪瀬は剣を引く。さっきまで力を込めていた剣が、行き場をなくしたように浮いた。
床の輪をまたぎ、俺の胸ぐらへ手を伸ばす。指が襟の手前で止まり、勢いのまま片足だけが跳ねた。俺は動かず、届かないその手を見る。
「うおっ! 手だけ、何で動かねえんだ!?」
「輪の内の者に、力ずくの手は届かず。書いてあります」
猪瀬が片足で跳ねるたび、剣の先が扉の脇で揺れる。怒鳴り声に似合わない跳ね方に、俺の肩からわずかに力が抜けた。三谷は黒縁の眼鏡を直し、俺の隣に立つ。
「私は謝ったよ。月岡くんに、自分が笑ったことを」
「じゃあどうしろってんだ! 俺にもそれをやれって?」
猪瀬が足を下ろした。靴底が石を叩く音だけは、さっきと同じ勢いだ。俺の襟には、その指がまだ届かない。
「まず剣を下げて、話そう。入ってくるのまで止めてるわけじゃない」
「話したって変わんねえ! 煌真の剣より、俺の剣の方が速えんだぞ!」
ヨルカが写しかけの頁を卓へ戻す。猪瀬の剣先が、空いた椅子の脇を通った。ヨルカの手は、まず本の角を押さえる。
「ここは速さを比べる場所ではありません。本の側で振らないでください!」
「本、本って! 俺は本を読みに来たんじゃねえ!」
開いた扉の外で、通行人が足を緩める。猪瀬の声は、広場の像の所まで届きそうだ。俺はその声が途切れるのを待った。
「なら、何のために帰りたいんだ?」
「家に帰りてえからだろが! ほかに何があるんだよ!?」
俺の頭に、教室で机の端から見えたスマホの画面が浮かぶ。休み時間になると、猪瀬が必ず指で起こす画面だ。何を見ているのか聞いたことはないのに、そこにいた犬の顔だけは覚えていた。
「お前のスマホの待ち受け、ずっと白い犬だったね。耳が垂れて、鼻の横に小さな点がある犬」
猪瀬の手が、襟の手前から引っ込む。空いた手で鼻をこすり、剣を持つ腕だけが下がった。俺を見ていた視線が、ふっと床へ落ちる。
「大福が……俺がいねえと、散歩に行かねえんだよ!」
俺は口を開きかけ、何も言わずに閉じる。さっきまで剣を見ていた目を、猪瀬の下がった手へ移した。
「大福とは、何ですか?」
「犬だよ! 犬! 白いやつ! 今こいつが言っただろ!」
ヨルカが真顔でうなずく。広場の通行人の一人が、像から書庫へ顔を向けた。扉の外にも、猪瀬の言葉を拾うだけの静けさがある。
「では、大福があなたを待っているんですね?」
「そうだよ! リード持って玄関行くと、俺の靴の上に座るんだよ……俺じゃねえと、動かねえんだ!」
猪瀬の鼻声が、息の途中で引っかかる。太い首が下を向き、剣の先が石畳へ触れた。乾いた小さな音がして、さっきまでの大声の余韻が消える。
「この世界には、大福はいないね」
「いねえよ……分かってんだよ! 白いのがいたら、つい見ちまうんだよ!」
三谷が卓から布を取る。猪瀬は差し出された布を受けず、袖で鼻を拭いた。俺の言葉を待つように、剣を下げたままそこにいる。
「ここで脅しても、先には帰せない。あの日、俺を笑ったことを謝る。それが値段だよ」
「頭下げりゃいいってことかよ……三谷と同じに?」
俺は猪瀬を見る。剣の柄に巻きついていた指が、一本ずつほどけた。頭を下げる形だけなら、今すぐ真似できる。あの日の声をどう返すかまでは、俺が代わりに決められない。
「お前の言葉で、俺に言ってくれ」
「……外のやつも、見てんぞ」
通行人が扉の前で立ち止まる。昼の日差しが、広場の石畳を白く照らしている。俺は卓の写しを一枚裏返し、鉛筆を置いた。見られるのが嫌だという気持ちは、俺にも分かる。
「値段は変わらない」
「……あの日、お前を一番でかい声で笑ったのは、俺だ」
猪瀬が剣を石畳に置く。膝をつき、広場から見える入口の石畳で、俺の前に五分刈りの頭をつけた。ごつ、と鈍い音が石に響く。俺は、あの日みたいに視線を逃がさなかった。卓の端に添えた指から、少しずつこわばりがほどけていく。
「……っ、すみませんでした!」
「二番目です。三谷の次」
頭が勢いよく上がる。石畳についた掌は、まだそのままだ。口を開くのを見て、俺は思わず身構えた。
「マジかよ! 俺、二番目! じゃあ、今日帰れるんだよな?」
「まだ誰も帰せない。召喚の間の床を、同じ大きさで写し直すまで待ってくれ」
猪瀬が剣へ視線を落とす。握り直さずに顔を上げ、俺の手を指した。剣の柄は、石畳に置かれたままだ。
「月岡、お前がまた城に行くってことか?」
「そう。帰りの陣を描けるのは、俺だけだよ」
「……じゃあ待つ。二番目、抜かすんじゃねえぞ」
俺はうなずいた。三谷が布をもう一度差し出し、猪瀬は両手で受け取る。広げかけてから、布の端をそろえるように指を動かす。
夕方まで、猪瀬は入口の段に座っていた。剣は入口の外の段に置いたままで、通行人が来るたび足を寄せる。広場の白かった光が薄れ、段の影がゆっくり伸びた。書庫にはまた、鉛筆と頁をめくる音が戻っている。
「布、洗って返してね。ヨルカさんのだから」
「分かってるっつの。……月岡、まだ言ってねえことがある」
猪瀬が立ち上がる。俺は写す手を止め、入口へ椅子を向けた。布を返す話なら、こんな前置きは要らない。
「姫崎のことか?」
「そうだよ。輪と記録のこと、宰相に言いつけやがった。兵の手が止まるって、ずっと騒いでてさ」
ヨルカが本を閉じる。乾いた音が、卓と入口の間に落ちた。猪瀬は城のある北の丘を見て、握った布を開く。
「宰相が、明日ここの本を燃やしに来る」




