3. 帰りの切符は一人一枚
「帰れないって……本当なの? 王様は、帰れるって言ったのに……」
俺は三谷を閲覧室へ入れた。古い紙の匂いと灯のぬくもりが、冷えた廊下から俺たちを包み込む。扉を閉じても、椅子を引く音にまで三谷の肩が跳ねる。
「魔王を倒しただけじゃ、帰れない。記録をヨルカに読んでもらおう」
「夕食で、姫崎さんが笑ってたの。おまけが南の書庫で虫干ししてたって……それで、城を抜けてきたの」
ヨルカが灯を持って席についた。頬のインクの染みが、開いた記録の上に傾く。紙の縁に落ちる明かりまで、三谷は食い入るように見つめている。
「魔王を討った七人は、この国に残りました。帰った方の名は、その後にもありません」
「じゃあ、私たちも……ここにいなきゃいけないの?」
俺は目にかかる前髪を払い、十円玉を卓に置く。乾いた音が、言葉の途切れた部屋に響いた。欠けた縁を指で示すと、三谷が身を乗り出して顔を寄せる。
「これは、召喚された朝に俺が落とした釣り銭だよ。陣を裏から写して描いたら、小石が日本へと飛んで、代わりに戻ってきた」
「日本へ送れたんだ……。月岡くんが、帰り道を描けるの?」
硬貨を押すと、三谷の指に当たる。三谷は黒縁の眼鏡を外し、目をこすった。それでも指の先だけは、十円玉に触れたままだ。
「お母さん、入院してるの。……帰りたい」
「帰りの切符は一人一枚。値段は、あの日の謝罪です」
三谷の指が十円玉から離れた。俺を見て、開きかけた口を閉じる。ほんの釣り銭を挟んだ距離が、急に遠く感じられる。
「……私も、それを払うの?」
「三谷の言葉で聞きたい。あの時に笑った理由を」
眼鏡のない目から、涙が卓に落ちた。三谷は袖で口元を押さえる。木目に吸われていく雫から、俺は目をそらせない。
「笑った。……ごめんなさい。みんなと同じ顔をしてないと、怖かったの」
責める言葉は、一つも浮かばない。あの笑い声の苦さは、今も胸に残っている。それでも、俺の声が一度だけ詰まった。やっと届いた言葉に返せるのは、この一言だけだ。
「……うん。受け取った」
三谷の手が、おずおずと卓の上に伸びる。俺はその手の前にスケッチブックを開いた。
「順番は一番だよ。ただ、今すぐ三谷を運べる陣は、まだない」
「十円玉は戻ったのに……私を運ぶには、何が足りないの?」
灰の付いた頁を見せる。小石一つを運んだ墨は、もう線の形をしていない。頁を傾けるだけで、灰がかすかに滑る。
「三十人を呼んだ陣は、あの部屋の床いっぱいだった。人を運ぶなら、床を同じ大きさで写し直す必要がある」
「待つ。……一番って、ちゃんと約束してくれる?」
俺は三谷の前でうなずいた。ただの慰めで済ませていい約束じゃない。ヨルカが記録の端の一行へ、灯を近づける。
「約束する。できることから、やっていこう」
◇
翌朝、記録の指す地下へ下りた。石段の冷たさが靴底から伝わり、鉄錆に似た匂いが鼻を刺す。灯が揺れるたび、壁の影も長く伸びる。古い箱の脇に陣墨の壺が三つあり、ヨルカが箱の写本を開く。
「人を運ぶ陣は、召喚の陣と同じ大きさ。墨は一壺です」
俺は縮めた鉛筆の写しを取り出した。三谷が床を見回し、両手で陣の大きさを示す。その手の間へ、俺も写しを重ねてみる。
「これを大きく描いたら、床の陣に戻る?」
「縮めた写しから大きく描き戻すと、線が狂う。あの床を、もう一度見ないと描けない」
ヨルカは一枚目の下の行を指でたどった。俺は同じ大きさで描ける羊皮紙を探す。灯の届く範囲を、手と目で確かめていく。
「掌に載る文一通なら、頁一枚ほどの陣で足ります。書いてあります」
「なら……お母さんに、手紙を送れる?」
ヨルカが書庫の便箋を一枚出し、俺は鉛筆を渡した。三谷は箱を机にして、母の名を書く。紙に触れた鉛筆の先が、そこからしばらく動かない。
「教室へは送れる。誰かが拾えるように、宛先も書こう」
「……うん。私がいるって、伝えたい」
文字の進む所へ、ヨルカが身を寄せた。灯もつられて紙へ近づく。三谷が慌てて腕で紙を覆う。
「その字は、わたしには読めません。何と書いたのか、読んでください」
「絶対やだ! お母さんにだけ、読んでほしいの!」
ヨルカが真顔で首をかしげた。三谷は書き終えた手紙を両腕に抱える。読むための場所で、読まれまいと紙を抱える姿に、俺の口元まで緩む。
「書いてあることは、読まないと気がすみません」
「その分、折った紙の表は声に出して読むよ。……中は、ほんとにだめです」
俺は鉛筆の頁を灯にかざした。裏から透けた線を、同じ大きさで羊皮紙一枚へ写す。指の影が邪魔をするたび、持ち方を少し変える。
陣墨を細筆につけ、線をなぞる。息を抑え、便箋一枚を畳んだ手紙を載せて、最後の一本をつないだ。
光が紙の上を走る。かすかな風の音が耳をかすめ、手紙が消えた場所に白い欠片がある。目を凝らしても、便箋の端はどこにも見えない。
「チョーク……うちの教室の」
墨は灰へ崩れた。三谷が白い欠片を拾い、笑いながら目元を拭う。白い粉が、その指先に付いている。俺も、その粉から目を離せない。手紙だけでも、向こうへ行けるのだ。
「届いたんだ……本当に、日本まで! 月岡くん、手紙、なくなったよ!」
「うん。三谷の書いた字は、もう向こうにある」
夕方、ヨルカが入口から戻り、兵が逃げた娘を探していると告げた。俺は実寸で写しておいた外の輪の印を開く。さっき手紙を送り出した指に、また力が入る。
「外の輪は、同じ印をつないだ輪です。内にいる者を、力ずくの手と刃から守ります」
掌ほどの印を、そのまま床へ並べる。灯の下で、入口から書架の前までを囲む線が、鎖のようにつながった。
残る墨を壺へ戻す。手紙と輪で、一つ目の壺の三分の一を使った。壺の中を見つめてから、蓋を閉める。
筆を置くと、姫崎の金色に染めた巻き髪が入口に見える。後ろには兵が二人。靴音が書架の間に響き、俺は灯を持ち直す。
「三谷さん、おまけの所にいたら、帰れなくなっちゃうよ?」
「帰れなかった人の記録なら、もう読んでもらったよ」
姫崎の笑う口が止まった。兵が三谷へ向き直り、入口から輪の内へ歩いてくる。俺は三谷のそばから動かない。
「ていうか、勇者についてくのが一番なんだけど。ね、三谷さんも、そうしてたじゃん?」
「私は、ここで待つよ。もう城へは戻らない」
兵が三谷の腕へ手を伸ばした。その手は、腕の手前で止まる。つかむ形の指と三谷の袖との間に、わずかな隙間が残る。
「……手が動かないぞ! 娘に届かん!」
「この方は輪の内にいます。三谷さんは、連れていかせません」
ヨルカの声に、もう一人の兵が同じ所へ手を出した。二つの手の間で、三谷はチョークの欠片を握りしめる。俺の足元まで届く灯の光が、その指先の白い粉を照らす。
「月岡、なにしてんの? あたしが連れて帰るって言ってるんだけど!」
「三谷が、ここで待つと言ったんですよ」
姫崎が兵の顔を見た。兵たちは手を引き、空いた指を何度も曲げ伸ばしする。どちらも自分の手ばかり見ていて、姫崎の視線とぶつからない。
「なにこれ、キモッ! 煌真くんに言いつけるから!」
姫崎は兵を連れて去った。ヨルカが扉を閉め、三谷の椅子を輪の内へ寄せる。遠ざかる靴音を聞きながら、俺は肩に残る力をゆっくり抜く。
夜、三谷がチョークを卓に置いた。城の話を続ける間も、指の先だけは欠片に触れる。灯の下の白い欠片を見ると、俺も教室の匂いを思い出せる気がする。
「宝来くんは、帰った人がいないって噂を笑い飛ばしてた。でも……猪瀬くんは違うの」
俺は白い欠片を転がさないよう、紙の端を折る。三谷は城で、猪瀬が夜ごと犬小屋の前に座っているのを見たという。犬小屋、という言葉に、紙を折る手が止まった。
「猪瀬くん、たぶん来るよ。……一番帰りたがってるの、あの人だから」




