2. 帰還、零
最初の一人を待つ前に、王の約束を確かめる。帰れるという言葉だけを、握りしめているわけにはいかない。翌朝、パン屋で古い記録のある場所を聞き、俺は王都の南へ歩いた。
朝露に濡れた石畳を、焼き立てのパンの匂いが追いかけてくる。城から一時間。靴の底から冷たさがしみ込む。王立書庫の前の広場には、剣を掲げる少女の像がある。
パン屋の話では、十七歳で召喚された初代勇者の像だという。見上げた剣先は、朝の光の中にあった。
扉の階段では、書庫番が本を並べている。赤茶色の髪が動き、頬のインクの染みがこちらを向いた。
「異界の人は、字が読めません。お帰りください」
「話なら分かるよ。誰かに読んでもらえば、本の中身も分かるだろ?」
少女は階段から本を一冊引き寄せる。俺の靴の前で、頁がぱたりと閉じた。立ち去れ、という音に聞こえる。
「わたしは虫干しをしています。あなたに読んであげる時間はありません」
「その本、端がもうぼろぼろだね。中を一頁だけ見せてくれない?」
「触ると崩れます。指を置かないでください!」
俺は目にかかる前髪をかき上げ、スケッチブックを開いた。少女がもう一度開いて押さえた頁へ、鉛筆を走らせる。本には触れず、一息で写し取る。
字は一つも読めない。虫食いの穴と、穴に切られた文字の端まで、俺の紙に並んだ。意味が分からなくても、目に見えたものならこぼさない。
少女が写本と俺の頁を横に並べた。袖に隠れた細い指が、穴の縁を交互にたどる。行き来する指先が、同じ場所でぴたりと止まる。
「……虫食いの穴まで、同じです」
「欠けてる所まで、そのままでいいんだね?」
「なんなのこれ!? この角の欠けまで、なぜ写せるの?!」
「見えたからだよ。俺の〈写し〉は、見たとおりにしか描けない」
少女が片膝を階段についた。今度は俺の紙が、開いたまま彼女の手に収まる。古い紙とかびの匂いの中で、深い緑の目がやっと俺の顔を見た。本から顔を上げてくれたことが、返事をもらうより先に胸に届く。
「わたしはヨルカです。十五歳です。あなたは、この続きも写せますか?」
「透吾。読めなくても、写せるよ。召喚の記録を読んでほしいんだ」
「では、腐りかけた本を写してくれないかしら? 一冊写すごとに、記録を一つ読みます」
俺はその場で鉛筆を持ち直した。仕事を頼まれるだけで、鉛筆が少し持ちやすくなる。ヨルカは扉の鍵を開け、貼り紙に指を当てる。
「閲覧の心得。その一、本に唾を飛ばさないこと。その二、汚れた手で触れないこと。その三、読む前と後に冊数を確かめること」
「今、そこまで全部読み上げる必要あった?」
ヨルカの指が貼り紙の末尾に止まった。俺が顔をのぞき込んでも、眉は一つも動かない。
「書いてあるので、読みました。あなたは字が読めません」
「本を持つ前に手を洗う。そこはよく分かったよ」
ヨルカは階段脇の水桶を指した。水に浸すと、指がきゅっと縮む。俺が手を洗う間に、写してほしい本を積み上げる。
「寝る場所も必要ですか? 屋根裏なら、雨は入りません」
「必要だよ。残った銀貨二枚を、寝床だけで使い切りたくない」
「では、虫干しも手伝ってください。濡れた本は、屋根裏へ持ち込まないでください」
◇
昼前までに、一冊ぶんを写し終えた。日向に並べた本から、乾いた紙の甘い匂いが立つ。鉛筆を握っていた指は重い。それでも、ここに座っていていい。ヨルカが頁を確かめ、約束の記録を膝に開いた。
「百年前。召喚、七人。魔王を討つ。帰還、零」
膝の上の鉛筆を止める。指の疲れが、急に遠くなる。王の約束と同じ所まで進んだ記録が、そこで終わった。
「倒したのに……誰も帰ってないの?」
「はい。この後も、帰還した方の名はありません。残った方が暮らした記録なら、続きます」
ヨルカは端の小さな字まで読む。召喚陣には、呼ぶ人数ぶんの重さの供え石を積むという。鉛筆の芯を紙に戻せないまま、俺はその説明を聞いた。
あの床の、石を引きずった跡。そういえば一瞬見えた教室の隅に見慣れない石があったような……。
「人をここへ呼ぶ代わりに、石を向こうへ送るんだね?」
「そうです。陣が働いた後、積んだ石は残りません」
俺は十円玉を取り出した。欠けた縁を、記録の頁の横に置く。硬貨の冷たさだけは、向こうの世界と変わらない。帰る方法に見当はついている。だが、安全に帰れる保証はこれから見つけないとならない。
「……帰り道のことも、この棚で探せる?」
「調べます。王国の魔術師が百年かけて写しても、一度も働かなかった陣の記録もあります」
◇
昼、広場に歓声が寄ってくる。初代勇者の像の前で、勇者一行の顔見せが止まった。人の肩の向こうで、掲げられた剣が光る。
宝来が茶色に染めた髪をかき上げる。後ろには五分刈りの頭の猪瀬と、金色に染めた巻き髪の姫崎がいる。宝来の視線が、階段の俺を見つけた。
「ははっ! 月岡が居やがった! おまけは本の虫干しでもしてろよ。俺たちは魔王倒して帰るからさ」
「ご用件をどうぞ、勇者様」
俺は本を広げる手を止めない。宝来の笑う口だけが、半開きになった。歓声の切れ目に、その顔がぽつんと取り残される。
「は?」
「俺は本を確かめたんだ。百年前の勇者さまも魔王を討ったけど、帰還された方は一人もいません。本にはそう書いてあります」
ヨルカは膝から記録を持ち上げた。像に花を供えていた人まで、手を止める。花が像に届かないまま、広場の音が薄くなる。
「帰還ってなんだ? 煌真、何の話か分かんねえよ!」
「帰るってことだよバカ! ……ていうか、その本、いつの話なの?」
姫崎の声で広場がさらにざわめいた。宝来に道をあけていた人たちが、足を止めて振り返る。さっきまで勇者を見上げていた目が、今は本へ向いている。
「百年前じゃん! 俺の聖剣、ここの像のよりでかいだろ!?」
「剣の大きさで帰れるとは、この記録にはありません」
宝来が記録へ手を出した。ヨルカは袖の中へ本を抱え、俺はその横に立つ。足を引きかけ、靴底を階段の縁に押しつける。
「じゃあ何だよ。おまけが本の端っこ写して、俺より先に帰れるって?」
「帰る約束の根拠を、勇者様にもぜひ確かめていただきたいんです」
猪瀬が宝来の肩越しに本を見た。姫崎は像へ向けていた笑顔を引っ込める。誰も、宝来の言葉の続きを受け取らない。
「帰る方法を知っているなら、俺にも分かる形で示してください」
「……黙れよ、おまけ!」
宝来が剣の柄を握り直した。猪瀬と姫崎を連れ、道をあけない群衆の間を肩で押し分けていく。さっきまで勝手にひらいていた道は、もうひらかない。
背中が見えなくなってから、自分の指が震えているのに気づく。宝来に言い返したのは、これが初めてだ。膝まで力が抜けそうになり、本の端をそっと押さえた。吐き出した息で、紙の端がかすかに揺れる。
ヨルカはまた本を階段に並べる。戻った俺の手元へ、写すべき次の頁を開いた。そこにあるのは、おまけに押しつける暇つぶしじゃない。俺に任された仕事だ。
◇
夜、屋根裏で鉛筆を削っていると、階下の扉が鳴る。屋根の下にこもる紙の匂いを残して、俺は階段を下りる。鍵を外すと、夜の冷たい空気が頬に触れた。
黒縁の眼鏡の三谷が、肩を上下させている。俺の顔を見るなり、扉の縁に両手を置いた。細い息が、言葉になりきらずに漏れる。
「月岡くん。……帰れないって、本当?」




