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1. お前はおまけ

 宝来に押しつけられたクラス旗の下絵を、スケッチブックに描いていた。頼まれると、俺はいつも断れない。断ったあとの空気を想像するだけで、口が重くなる。購買の釣り銭の十円玉を握ったまま、机の脚を見る。


 はぁぁぁ……。


 深いため息をついたその時だった。脚が消えた――――。


「へっ?!」


 床の光に手をのみ込まれ、縁の欠けた十円玉が指の間を落ちていく。指を伸ばしても、届かない。


 直後、尻に激しい衝撃が走る。ぶつかったのは、冷たい石の床だった。


 見回せば二年三組の三十人が、机も椅子もない輪の中にいた。頭上には、教室よりずっと高い天井が広がる。左手には、下絵のスケッチブックと鉛筆が残っていた。


「へっ!?」「はぁ!?」「なんだこりゃぁ!」


「よくぞ参った、異界の勇者たちよ」


「え、これドッキリだろ! カメラどこ?」


 誰かの裏返った声を、金の冠を載せた赤ら顔の王が笑って聞き流す。石の壁に跳ね返る笑い声は、教室で聞く声とまるで違う。横に立つ宰相の指輪だらけの指が、肘掛けに触れた。


 俺は目にかかる前髪を払い、床を見る。幾重もの溝の輪が尻の下へ続き、真ん中からでは魔法陣の半分も見えない。尻の痛みだけは、やけに本物だ。


 陣の縁に、重い石を引きずった跡があった。宮廷魔術師が水晶を運び、宝来を呼ぶ。


「宝来煌真(こうま)、勇者。聖剣をお受け取りください」


「おぉ!?」「えぇっ!?」「なんだそりゃ……」


 ざわめくクラスメートをかき分け、宝来が前に進む。


「よっしゃぁ! 見たかよ、俺、勇者だって!」


 茶色に染めた髪をかき上げた宝来は、差し出された剣を抜き、光を走らせて、俺たちに向けて掲げる。


「次! 猪瀬剛史(たけし)、剣聖。姫崎綺羅々(きらら)、聖女。お二人も前へ」


 猪瀬が五分刈りの頭を突き出した。姫崎は金色に染めた巻き髪を揺らし、待ちきれないように宝来へ寄る。


「煌真くん、すごーい! あたし、隣で治してあげるね」


「剛史もいるし、マジで余裕じゃん。次、月岡の番だろ?」


 水晶に触れる。冷たさが手のひらに染み、光が一度だけ揺れた。魔術師が首をかしげる。


「月岡透吾、〈写し〉。……見た物を、紙に写すだけのようでございます」


 俺は月岡透吾、十七歳。スキルは〈写し〉。見た物をそのまま紙に写せる、それだけだ。


 ほかの二十九人には戦うスキルがある。俺の手には剣も杖も来ない。鉛筆だけが、指の間で場違いに細い。


「写しって何、コピー機? お前はおまけじゃん」


「ギャハハ! なあ、これ、戦う時どこに置いとくんだよ!?」


「かわいそー。月岡だけ、教室のまんまなんだけど」


 笑う顔が一斉にこっちを向いた。耳の奥が熱くなり、十円玉のない右手を握る。握ったところで、何も隠せない。三谷史緒と呼ばれて水晶に触れた三谷も、黒縁の眼鏡の奥で小さく笑う。


「……そうだね」


「認めたぞ、こいつ! 煌真、ほんとにおまけだってよ!」


 言い返す言葉は、いつも喉の手前で止まる。ここまで来ても、俺の役だけは教室と同じだった。


「じゃあ勇者様を写してみろよ。魔王を倒す前の記念にさ」


「煌真くん、ポーズかっこいい! あたしも後で写してもらおっと」


 宝来が剣を肩へ担ぐ。宮廷魔術師の差し出した紙に、俺の手が一息で線を引いた。


 剣の傾き、腕、足を開いた構え。目に入った形が全部、そのまま紙に載る。


「煌真くん、前……そこ、開いてる」


「はあっ! どこが?」


 姫崎の指が絵のズボンを指した。猪瀬の口が丸くなり、次にクラスの笑いが宝来へ向く。


「ギャハハ! おい煌真、勇者様がそのまんまだぞ!」


「笑うな! 綺羅々も、それ見るなよ!」


「だって、見えちゃったんだもん!」


 王まで口元を隠した。宝来は紙を握り潰し、剣の先を床へ下げる。丸められた紙が、乾いた音を立てる。


 笑いの向きが、一度だけ変わった。俺はまだうつむいたまま、握っていた右手だけをほどく。


「魔王を倒せば帰れる。約束しよう」


「じゃ、倒せばいいじゃん! 俺たち全員、ちゃんと帰れるんだろ?」


 宝来の声に歓声が重なる。帰れる、という言葉に俺まで顔を上げかけた。宰相が王に耳打ちし、宰相の目が俺の手に一度止まる。


 王が兵を呼ぶ。


「おまけに食わせる飯は無い。これを持って去れ」


「……俺だけ、城の外ですか?」


 答えの代わりに銀貨三枚を握らされた。兵の腕が出口を示す。俺は陣の縁を歩く。誰も呼び止めない。握り直しても、銀貨の冷たさは消えない。


 奥の小さな扉から、婆さんが水桶を運んでくる。腰の鍵で扉を閉めた。


 俺はその様子を見て、婆さんの顔を覚えた。鍵を持っている人はきっと何か役に立つ。


 門へ下る道で、北の塔の外の小さな扉の脇に、同じ形の水桶が伏せてある。北の丘の城から、俺だけが門の外へ出た。背中で閉じる門の音が、やけに大きい。


       ◇


 夜、水桶の伏せてある北の塔の扉を叩いた。石壁から冷気がにじみ、指の関節がじんとする。


「なんだいアンタは?」


「召喚の間に連れて来られた者なんですけど、ちょっと……召喚の陣をもう一度見たいんです」


「ほう? そりゃ大変だ。銀貨一枚。見るだけだよ」


 番人の婆さんが陣墨(じんずみ)の壺を抱えている。戸口に漏れる灯を頼りに、俺は銀貨を一枚つまんだ。


「今朝は、半分しか見えなくて……」


「城から出された口かい? 王様の言いつけは、忘れちゃいけないねえ」


 銀貨の王の顔を向ける。昼には俺を追い出した顔が、灯で光る。


「その王様からもらいました。見るだけのお代には、足りますよね?」


「ひっひっ。王様の銀貨で王様の床を見ようってのかい。本物かどうかは、あたしが決めるんだよ」


 婆さんは三本きりの歯で銀貨を噛んだ。硬い金属の音に、俺の奥歯までむずむずする。


「本物だね、王様の顔だ」


「紙に写すのは、見るうちに入りますか? 覚え違いをしたくないんです」


 婆さんが俺の手元を見る。俺はスケッチブックを開いた。クラス旗の下絵の後ろに、まだ白い頁がある。


「描く紙まで持ってきたのかい。見るだけで銀貨を出すとは、変な客だよ」


「見るのは、得意なんです」


「得意なもんで、城から放り出されたんだろ?」


「……だから、得意なことで取り返しに来ました」


 婆さんの返事は、長い欠伸だ。壺と細筆を置き、さっさと背を向け、進んでいく。


      ◇


 召喚の間に戻ってきた俺は灯を床へ寄せる。湿った石の匂いが鼻につく。


「魔石を砕いて溶いた墨だよ。線を汚すんじゃないよ。あたしが掃除するんだからね」


「紙の上に写すだけです。床には触りません」


「床に触ったら、銀貨もう一枚だよ」


 手が勝手に動いた。目に入った線が、指の先から紙へ流れ込む。床一面の陣が、スケッチブックの頁に収まる。


 縮めた線は、細かすぎて目が迷う。外の輪をつなぐ手のひらほどの印を、隣の頁へ実寸で写した。


「この小さな印も写すのかい? 床には、同じのがずっと並んでるよ」


「紙の中だと、小さすぎて形が見分けにくいんです。一つだけ、元の大きさで残します」


 鉛筆を置き、床と紙の印を見比べる。紙の上なら、端から端まで目が届く。


「どれも同じ向きに巻いて、外から真ん中へ向く印ばかりだ……お婆さん、帰る時に使う陣は、別にあるんですか?」


 婆さんは扉にもたれ、目を閉じる。


「何を聞いたか知らないけど、ここにある床は一つだよ。銀貨一枚で見られる物も、それだけさ」


 ――この陣には、帰り道がない。


「もう見終わったかい? 夜中にあたしを働かせるんじゃないよ」


「もう少しだけ、灯を借ります。裏からも見ておきたいんです」


 鉛筆で写した頁を灯にかざした。紙が蜜色に透け、裏から線が浮かぶ。それを別の空白の頁へ、同じ大きさで写す。


 印の巻きが、床と逆回りになる。細筆に陣墨を含ませ、写した線をなぞった。筆先を揺らさないよう、息まで浅くする。


「紙にまで、その墨を使うのかい?」


「この石屑を一つ載せてみます。床の縁にも、石の跡がありました」


「石ころで何をする気だい?」


 最後の一本をつなぐ。指の先で、小さな陣が光る。息を止めたまま、俺は目を細めた。


 光の中で、墨が灰になる。


 一瞬光の向こうに教室の景色が広がり――――小石が一つ教室の床に派手に落ち、その拍子に十円玉を弾き飛ばした。


 コロコロと召喚の間の床に転がる十円玉――。


 拾えば縁に小さな欠けがある。朝、俺の手から落ちた一枚だ。購買の声と、教室のざわめきが急に近くなる。


「……これ、今朝の俺の釣り銭です。日本の金です」


 婆さんの指が伸びた。硬貨の手前で指先が震え、拾わずに俺の手のひらへ押し戻す。


「……銀貨一枚じゃ、ここまでだよ。帰りな」


 城壁の外で手のひらを開く。残る銀貨二枚の上に、日本の十円玉を載せた。夜風が指を冷やしても、この重さを確かめずにはいられない。


 欠けた縁を指でなぞる。俺を笑った顔も、一つ残らず覚えている。


 帰り道を描けるのは、この世界で俺だけらしい。


「さて。最初に『帰りたい』って言いに来るのは、誰だろうな? ははっ!」

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