38. 帰る十五人
百三日目の朝、書庫の冷えた空気を押し上げるように、段へたくさんの靴音が重なった。
宝来がクラスの者たちを連れて上がってくる。茶色に染めた髪の下から、肩越しに後ろの列へ顎を振った。
「全員、連れてきたぞ。……二十五人だ」
俺は目にかかる前髪を払い、段の上から一人ずつ顔を数える。判定の日、笑い声の向こうにあった顔だ。今は誰も笑っていない。俺は、そのどれも覚えていた。
粉川も籠を提げ、列の端に並ぶ。宝来がそれを見て、口の端を上げた。
「粉川まで……、パンごと並んでんな」
「パンは関係ない。帰るかどうかも、俺が言う」
粉で白い爪が、籠の縁を一度払う。その乾いた音が、やけにはっきり耳に残った。
そこへ宮廷魔術師が塔の者を従えて来て、石の箱を閲覧室へ運び込ませる。長い袖が、箱の角をかすめた。
頬のインクの染みをこちらへ向け、ヨルカが侍従の添えた文を開く。紙の鳴る音に、列のざわめきが引いた。
「蔵の石、四つ。宝物庫の石、二つ。……陛下の下げ渡しの文に、書いてあります」
「六つだな。もう蔵にあるから渡せねえ、なんて言わせねえぞ」
宝来が箱へ身を乗り出す横で、魔術師はネリカの擂り鉢を取り上げる。
「塔の擦り方は、手首から違う。よく見ておれ」
「師匠、そこは右回りです! ネリカが擦った墨が、こぼれます!」
煤けた袖口が擂り鉢の下へさっと伸びると、師匠の袖がぴたりと止まった。
「……今から回す所である」
「もう十日も、回しました! 五番目のかたの壺は、できています!」
ネリカが鼻をこすり、黒い壺を差し出す。列の先頭の男子は、指を広げて両手で受け取った。今夜、あいつが帰る。壺の重さで少し沈んだ肘を、男子は胸元へ引き寄せる。
魔術師は長い袖を払い、床に広げた大紙へ目を落とす。
「時の頁があれば、呼ばれた朝へ帰れよう。おまけは、それを婆のために隠しておる」
段の上の空気が、一度に冷えた気がした。何人もの顔がこちらへ振り向く。俺の手元へ集まる目に、判定の日の笑い声まで引きずり戻される。
「頁で、あの朝に帰れんのか?」
壺を抱えた男子の声が、最後のところでかすれている。
あの朝。教室の窓から差していた光と、購買の釣り銭の重さが、一度に掌へ戻ってきた。何でもなかった朝のことを、うまく息もできないほど鮮やかに思い出す。
「隠してない。……頁の写しは、ここにある」
俺は書庫の紙へ写した頁を、大紙一枚の上に置いた。指の下で鳴る薄い紙の音が、やけに頼りない。
紙の頁は、大紙の隅にすっぽり収まる。その周りには、床いっぱいの陣を描くための大紙が、まだ何十枚も続いていた。
「頁の図は、写本の大きさだ。床いっぱいに描き戻せば、線が狂う」
魔術師の口が開きかけて、閉じる。俺は小さな紙の端を押さえ直す。
「塔のかたでしたら、描き戻しの狂いはよくご存じのはずです。大きくなった分は、俺の手でも埋まりません」
「写しを取ったなら、使えばよいと申しておるのだ」
「使えねえ大きさだって、今言っただろ! 隠してるって話は、どこ行ったんだよ!?」
男子が壺を胸へ寄せて叫ぶと、魔術師の袖を払う手が、途中で止まった。宙に残った手が、ゆっくり袖の陰へ引っ込む。
宝来が大紙の隅へしゃがみ込み、小さな紙を見下ろす。しばらくは、口を開かない。
「……百日ぶん、向こうでも待たせてんだな」
誰も、すぐには返事をしなかった。あちらで待っている人の顔を、俺も声にはできない。
やがて十七人が、段の前へ並ぶ。口を開く早さはばらばらで、最後の語尾だけが重なった。
「月岡。……あの日、笑って、ごめん」
先頭の一人が頭を下げ、後ろも次々に顔を伏せる。そろわなかった声の端が、耳の奥に残っている。
喉の奥が、熱くなる。俺は順番の紙を広げ、その顔が上がるまで待った。聞きたかった言葉のはずなのに、胸の底の固いものはすぐにはほどけない。
「笑ったことは、消えない。帰りたいなら、今、自分の口で言ってくれ」
「帰りたい! 家で、待たせたままなんだ……!」
「帰る奴は、手を上げろ。今夜の五番目は、先に行く。お前らの手を数えるぞ」
宝来の声に、手が次々に上がる。ヨルカがその手を一本ずつ追い、両手を上げた男子の前で指を止めた。
「一人一本です。二本でも、二人分は帰せません」
「分かってる! そんだけ帰りたいんだよ!」
男子が片手を下ろし、段の前に小さな笑いが起きる。ヨルカの指が列の端に届き、数は十五で止まった。俺は詰めていた息を、少しだけ吐く。
「残るのは、宝来と粉川と、あと七人だな?」
「俺は最後でいいって、前に言ったろ。粉川の分も、勝手に消すなよ」
粉川は籠を提げ直し、手を下ろした七人の横へ並ぶ。籠からは、いつものパンの匂いがする。
「俺のは取っとけ。……窯は、明日の朝も開ける」
ネリカが壺の脇へ指を置き、石の数を紙に書きつけた。
「蔵と宝物庫の六つと、七番坑の月に一つで、十五人ぶんそろうのは一年目の朝です!」
「一壺できるたびなら、先に帰れる奴もいるだろ?」
十七人の側から、そんな声が出る。宝来は順番の紙を指で叩き、六番目からの五人へも顔を向けた。
「今日払った奴らは、みんな同じ日だ。誰からにすんだよ? 十五人そろって帰れ。順番で揉めんな」
「俺たちは、六番目から十番目だ。でも、待つ。……同じ朝でいい」
五人がうなずき、上がっていた最後の手も下りる。俺は紙の上の名前から顔へ、ゆっくり目を上げる。
「値段は、受け取った。……十五人、一年目の朝に帰す」
◇
夜、俺は五度目に床へ写した帰りの陣の端に膝をつく。昼のざわめきが消えた床から、冷たさがじわりと染みた。
朝のうちに一つ目の壺から匙一杯を使い、三谷へ今夜と送ってある。返ってきた紙には、待ってます、の一行があった。何度読んでも、目がそこで止まる。
先頭の男子が、陣の真ん中に立つ。昼のうちに、あいつの壺の墨で引いた線が、灯の下で黒く光っていた。
「一年目の朝、教室の石を十五個、縄で一つに括って真ん中に置いてくれ。荷を、一つにしてほしい」
「分かった。括っとく。……あいつらの分も、ちゃんと」
男子は両手で、自分の頬を一度叩く。ぱん、と乾いた音が書庫に響く。
「月岡。一年目の朝、教室、開けとくからな」
俺が最後の一本をつなぐと、光の向こうに夜の教室が現れた。黒縁の眼鏡の三谷が、窓際で両手を上げている。見慣れた窓も、あの両手も、今なら触れられそうに見える。俺は墨の乾いた指を曲げ、床に手をついた。
男子が消え、代わりに供え石が一つ、床へ戻る。こつん、と音がした。
ヨルカが順番の紙を押さえ、五番目の名の横へ、乾いた一行を足す。光が消えたあとも、筆先が紙をこする音だけは続いた。
その時、年かさの見張りが扉から顔を入れる。
「宰相家の屋敷の者が、扉の外で、壺の数を書き留めて帰ったであります」




