37. 王が任じ、王が解く
九十四日目の朝、坂の上から、揃った足音が下りてきた。硬い靴音が石畳を伝い、書庫へまっすぐ近づいてくる。
王が侍従と王家の兵を連れ、書庫へ向かってくる。玉座の上でしか見たことのない人が、俺たちと同じ石畳を、自分の足で踏んでいた。
広場にはクラスの者と群衆が並び、段の前だけが丸く空いている。茶色に染めた髪の宝来が鍋を脇へ置き、その場に膝をついた。湯気が、低くなった肩の横をほどけていく。
王の後ろには宰相が立ち、指輪だらけの指を袖から出している。朝の風を吸い込んでも、昨夜の松明の匂いが、まだ俺の鼻の奥に残っていた。
「書庫番。召喚の夜の記録を、余に読ませよ」
頬のインクの染みを紙へ寄せ、ヨルカが記録の写しを差し出す。王の手へ渡るまでを見つめながら、俺は息を浅くした。
王は段に腰を下ろし、受け取った紙を膝へ置く。その途端、ヨルカの肩がぴくりと跳ねた。
「閲覧の心得。紙を膝の上で読まないこと。本も写しも、同じです。……陛下もです」
「余の膝も、ならぬか?」
「はい。裾の上では、端が折れます。紙をお持ちください」
「ここへ座ったまま、持ち上げればよいのだな?」
「はい。折らずに、読んでください。……その一行を、最後まで」
王は指を紙の下へ回し、膝から離す。侍従が自分の膝を見下ろし、そっと手を引っ込めた。
宰相が身を寄せかけたところで、王の口が動く。耳打ちを待たず、自分の目で追った行を、自分の声で読んでいく。
「召喚、三十人。……帰還の陣は、用意せず」
宝来の鍋の蓋が、かた、と揺れて止まった。広場からは、咳をする声も消える。
王は紙から顔を上げず、その行に長く目を留めていた。
「陛下。おまけの紙は、手で描いた絵にございます。昨夜の松明も、夜の見回りにすぎませぬ」
俺は目にかかる前髪を払い、昨夜の写しを段へ広げる。紙の端を押さえる指に、段の冷たさがしみた。
松明の柄を握る指輪の手と、火の向いた書架が、朝の光を受けて浮かび上がる。俺は端を押さえたまま、宰相へ目を向ける。
「昨夜の閣下を、写してあります。……松明の火は、書架へ向いています」
「手描きの紙を、また手描きの紙で示すか? 見回りには、灯が要る」
年かさの見張りが前へ出て、王の前で帳面を開いた。
「書架に火を移せ、と閣下は仰せであります。……昨夜の帳面の、最後の行であります」
王の指が、欄の外まではみ出した字の列をたどる。紙の擦れる音が、やけにはっきり聞こえる。
「見回りで、火を本へ移せと申したのか?」
「火を確かめさせたまで。兵は、一冊も焼いておりませぬ」
見張りは帳面の下を支え直し、声を張った。
「焼いておりません! その前に、ここへ書き留めたのであります。聞こえた命を、別の言葉にはできません!」
俺は見張りの隣へ一歩出て、写しの松明から、帳面の最後の行へ指を移す。ここに残った字を、都合のいい言葉へ戻させるわけにはいかない。
「兵の書き留めた字まで、絵だと仰せになりますか?」
「くっ……。お、おまけの紙を残さぬことも、国のためにございます」
王は帳面と写しを並べ、宰相を見た。開いた紙の端が、朝風にかすかに鳴る。
「余は、残った物を今、見ておる。ヴァルトルム、顔をこちらへ向けよ」
俺は鍵の写し、金庫の底の写し、破り目の写し、布の頁を、段に順に並べた。錆の剥げた鍵の歯の隣に、頁一枚ぶんの明るい四角がある。その四角に、布の頁のぎざぎざが重なっていく。端まで合ったところで、ようやく俺は息をついた。
「この底の形に、布の頁がぴたりと合います。破れた歯まで、全部です」
「ヴァルトルム。この頁は、そなたの家の金庫に、百年あったのか?」
指輪を回す指が止まり、宰相の喉の奥で、くっ、と鳴る。
「……百年前、わが家の祖が封じたのです。勇者を帰せば、国は滅ぶ。宰相家は百年、国を守ってまいりました」
王は布のぎざぎざを見つめ、しばらく黙る。その沈黙に口を挟む声は、どこからも上がらない。
「初代勇者が褒美を望んだ晩に、その頁を持ち出したのか?」
「翌朝までに、祖が金庫へ納めました。勇者を国に留める、それが宰相の務めにございます」
「国を守ったと申すのだな。では、百年前の王は、何を許した?」
「百年前の陛下は、褒美に帰り道を許されました。……シヅさまの鍵に、書いてあります」
ヨルカの指が、鍵の字を写した紙へ向く。いつもの読み上げる声が、広場の隅まで届いた。少しも震えていない。
「国を守る者まで帰せば、残る民はどうなるのでございます?」
「許された望みを、祖もそなたも、持ち主へ返さなかったのだな?」
宰相は答えず、右手を袖へ寄せた。指輪の光だけが、布の陰へ引いていく。
王は記録の写しを侍従へ預け、段の上に立つ。俺は紙の端から指を引き、顔を上げる。
「宰相も、王が任じ、王が解く。……ヴァルトルム、そなたの任を解く」
ヴァルトルムの口から、くぅぅぅ……と唸りが漏れた。王は耳打ちを待たずに、段の石を示す。
「宰相の印の指輪を、ここへ置いてゆけ」
右手の三つ目の指輪が外れ、石の段に小さな音を立てた。空いた指の付け根だけが、ほかより白い。誰も、その指輪を拾おうとしない。
「一つ外したって、まだ指輪だらけじゃねえか」
群衆の錠前屋が太い指を折ると、隣の男が口を押さえた。こらえそこねた息が、鼻から短く抜ける。
ヴァルトルムは段へ手を戻さず、王家の兵に付き添われて坂を上がっていく。その足音が遠ざかるまで、俺は並べた紙のそばに立っていた。
「書庫番の解任状は、無い物とする。取り潰しの願いも取り下げる。北の砦の勇者の名は、余が与えた物だ。剥ぐ者はおらぬ」
宝来の背中から、ふっと力が抜ける。膝をついたまま、鍋の取っ手を握り直した。それを支えにするように、握った手を離さない。
「……俺、石を持って帰ったんで。あれは、もう返さないっす」
ヨルカの手が、胸元の鍵を探す。指先が鍵に触れ、そこでようやく動きを止めた。
「……書庫は、ここで続けてよいのですね?」
「そなたに預ける。読む者の席を、空けておけ」
ヨルカは鍵を握ったまま、深く頭を下げる。肩が一度だけ大きく上下した。顔が隠れるほどのそのお辞儀を、俺は黙って見ている。
俺は並べた写しを片づけず、王の前へ出た。安堵にほどけかけた息を、胸の奥へ押し戻す。
「陛下、蔵の魔石を帰り道にお下げください。まだ、待っている者がいます」
「侍従。蔵の石と、宝物庫の残り二つを書庫へ下げ渡せ。塔に擦らせよ」
侍従は咳払いを一つして、王の言葉を紙に留める。走る筆の先を、俺は最後の字まで見届けた。
王は段を下りかけ、記録を抱えた侍従の前で振り返る。朝日が記録の紙を照らすなか、俺は次の言葉を待った。
「詫びは、帰す朝に言おう。……余は、まだ一人も帰しておらぬ」




