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36. 抱えた写し

 九十三日目の朝、閲覧室の灯はまだ夜の色をしていた。窓が白み始めても、古い紙の匂いを含んだ空気はまだ冷たい。


 ヨルカが、魔石を包んでいた白い布を灯の上へ広げる。麻の目の向こうで炎が揺れ、布の内側に写した円と線が、薄い影になって浮かび上がった。


 頬のインクの染みの下で、ヨルカの目がぎざぎざの辺を追っている。俺も息を細くして、その先を見守る。


 俺は目にかかる前髪を払い、四日目の夜明けに写した綴じの端の紙を重ねた。


 紙の出っ張りが、布の欠けへ一つずつ沈んでいく。最後の歯が収まった瞬間、指先が冷えた。重ねたままの指を、すぐには離せない。


「歯が、一つも違わない。……宝物庫の頁は、写本から破られた一枚だ」


「綴じ目録の、最後の一枚です」


 ヨルカの指が、目録の行から布へ移った。爪の先は線に触れる手前で止まり、そこから動かない。


「百年、欠けたままの行でした。……この一枚は、もう目録へ戻せます」


「戻せるな。本物は、まだ宝物庫の箱の中だけど」


「それでも、線はここにあります。トーゴが写してくれた線です」


 擂り鉢の縁が、こつ、と鳴った。


「ネリカは、その間に石を擦ります! 五番目のかたを、もう待たせません!」


 煤けた袖口をまくり、ネリカが宝物庫の魔石を擂り鉢へ落とす。拳ほどの石が底で重く転がり、卓がかすかに震えた。


「十日です! 十日で、五番目のかたの壺にします!」


「慌ててこぼすなよ。俺も、布のままにはしておかない」


 俺は書庫の紙を一枚取り、布の頁を同じ大きさで写す。裏には返さず、見えている表をそのまま移した。


 鉛筆の音が止む。布と紙を卓に二枚並べると、薄い紙の端が俺の息でかすかに持ち上がる。片方が燃えても、もう片方が残る。


 ネリカが擂り鉢から顔を上げた。石を押さえる手は止まったままだ。


「今夜は、この紙も抱えててください! 燃やすなんて、言わせたままにしません!」


「抱えます。トーゴは布と紙を。記録の束は、わたしが持ちます」


 ヨルカは破り目の写しを、束の間へ戻した。端を揃え直す音が、いつもより近く聞こえる。


「閣下は、口にしたことはやる人だ。来るなら、今夜だろうな」


 卓の端には、まだ空の壺がある。擂り鉢の音が、朝の冷えた空気を小さく削っていく。


       ◇


 夜、扉を叩く音がした。


 年かさの見張りが帳面を抱えて顔を入れる。外の冷気に交じって、焦げた脂の匂いが流れ込んだ。


「松明の列が、坂を下りてきております。閣下も、ご一緒であります!」


 窓の向こうに、火の列が揺れている。その一番前で、指輪だらけの指が灯を弾いた。


 宰相は松明を持った兵四人を連れ、段を上がってくる。広場には、寝間着に上着を引っかけた人々が集まり始めていた。


 その間を、粉川が桶を提げて走ってくる。桶の水が跳ね、石段でぱしゃりと鳴る。


「火の番なら、毎朝やってる。……その火、どこへ持ってくんだよ?」


「閣下の……ご命令であります。桶は、近づけぬように!」


 粉で白い爪が、桶の取っ手を握り直した。


「近づけられたくねえ火を、本の所へ持ってくんな」


「松明は、掲げているだけであります!」


「じゃあ、そのまま掲げてろ。下ろしたら、俺も桶を上げる」


 兵は松明を高く持ったまま、目だけで桶を追う。腕の震えに合わせて、火の影も足元で揺れた。


 年かさの見張りは扉を開けたまま、筆を抜く。


「入られた方と、お持ちの物を、帳面へ記すであります」


 宰相はその脇を通り、閲覧室へ入ってきた。松明の熱が頬の片側を炙り、戸口からの風は反対側を冷やす。


「おまけの布一枚、紙一枚。……書庫ごと灰にすれば、写しも残るまい」


 俺は布と紙を胸に抱え、輪の内へ一歩下がった。


 ヨルカも写本と記録の束を抱えて隣に立ち、ネリカは擂り鉢を両腕で包む。布を胸へ押しつけると、心臓の音ばかりが大きく聞こえた。


「ここは、祖父が預かった書庫です。……本を、燃やさないでください!」


「書庫番が何を抱えようと、取り潰す建物の中だ。渡すがよい」


 宰相の手が伸び、俺の布の手前でぴたりと止まる。


 指先と布の間には、指一本ほどの隙間しかない。それでも、その隙間は縮まらなかった。


「閣下の手は、俺の抱えた物に届きません。……ここは、輪の内です」


「抱えられるだけ、抱えるがよい。背中の書架までは抱えられまい」


 振り返らなくても分かる。書架は輪の外で、棚の前には誰もいない。布を押さえる指に、力だけがこもった。


 宰相は手を引き、兵から松明を一本取る。柄が渡る瞬間、火が大きく揺れた。


「ならば、書架に火を移せ」


「閣下。王立書庫に火を、と帳面に書かねばなりません」


 兵たちは書架の前で足を止め、扉のほうへ顔を向ける。足音が途切れ、油の燃える音だけが残る。


「見張りの務めは、出入りを記すことだ。命を止めることではない」


「入られた方のなさることも、書き留めております。閣下のお言葉であります!」


 年かさの見張りは、開いた帳面へ筆を当てた。宰相に見下ろされても、筆先は引っ込まない。


「閣下、松明を書く欄がありません。……欄の外へ、足すであります」


「欄の広さを、今、私に申すか?」


 筆が欄をはみ出し、もう一人の見張りもその行へ身を寄せる。誰も帳面を閉じようとはしなかった。


 俺は抱えた紙束の表を開き、片腕で布を押さえる。


「書架を燃やすお姿なら、皆さんの見える所でお願いします」


「その手を動かして、何を残すつもりだ?」


 書架へ向いた松明と、柄を握る指輪の手。その上の宰相の顔まで、俺は一息に写した。


 扉の外からのぞく人々にも、紙の上の松明の先が見えるはずだ。俺は紙を伏せず、扉のほうへ向ける。


「閣下、そのままで。……今の閣下を、写しました」


 宰相の目が紙へ落ち、指輪を回しかけた指が止まる。


 喉の奥で、くっ、と鳴った。


「……紙の絵など、王の前では塵であろう」


 松明が兵の手へ戻る。火が棚から遠ざかるにつれ、固く上がっていた俺の肩も少し下りた。


 宰相が段を下りると、兵四人もその後を追っていく。書架の本は一冊も焦げていない。腕の中の布と紙だけが、汗で少し湿っている。


「ネリカ、擂り鉢を一度も落としませんでした! 腕が、まだ震えてます!」


「……本は、一冊も減っていません。数えなくても、分かります」


 粉川が桶を段へ置き、坂を上っていく火を見送る。水面だけが、まだ細かく震えていた。


「その絵、明るい所でも見せてやれよ。夜だけの顔にすんな」


 入れ違いに、白い髭の侍従が灯を提げて段を上がってくる。老人は扉の前で足を止め、咳払いを一つした。


「陛下は明朝、こちらへお出ましになります。……召喚の夜の記録を、書庫番殿の声でお聞きになるとの仰せにございます」


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