35. 勇者の名
宝物庫の扉をくぐると、冷えた空気が頬を撫でた。宰相は足を止め、台の上の板を示す。
指輪だらけの指が示す先に、黄ばんだ頁が飾られている。高い窓から落ちる光が、板の縁だけを白くしていた。古い紙と木の匂いが、息に混じる。
「頁なら、そこに飾ってある。魔石は棚だ。勇者が選べばよい」
俺は目にかかる前髪を払い、板の端へ目を凝らす。
破り目の歯が三つ違う、あの頁だ。喉まで出かけた言葉を、息と一緒に腹へ戻す。今は、口に出さない。
茶色に染めた髪の宝来が、棚に並ぶ拳ほどの魔石を数えた。
石は三つ、どれも同じ棚の上にある。赤土の石より深い色で、窓の光を呑み込み、奥のほうだけが鈍く光っていた。
「見るだけなら、まだ選んだことにはならねえんだよな?」
「選ぶのは一つだ。何度も言わせるでない」
頬のインクの染みを寄せたヨルカが、宝物庫番の脇の目録を見つめる。声になる前の言葉が、その唇を小さく動かす。
台へ寄りかけた足を止め、開かれた目録の一行を読んだ。
「宰相より、王家へ納む。封じた箱、一つ。……目録の、一番新しい行に書いてあります」
棚の隅に、宰相家の封蝋で閉じた箱が一つある。薄暗い棚の中で、蝋の赤だけがまだ新しい。
俺は台の頁の前を素通りし、箱の前で足を止めた。
「その箱を、見せてください。選ぶ前に、中も見たいんです」
「あの箱は、宰相家の預け物だ。開ければ、盗人であろう」
ヨルカの顔が、目録から上がる。その指先は、読んだ行を離れない。
「納む、です。預ける、ではありません。……納めた物は、王家の物です」
「宰相家の封が、そこにあろう。預けた者の封を、勇者の供が破ると申すか?」
「封は見えます。ですが、納む、と読む字は、預ける、と読む字にはなりません」
侍従が、咳払いを一つした。
宰相が口を開く前に、その指が目録の一番新しい行を指す。紙の上に置かれた指は、少しも動かない。
「宰相閣下。この行の品も、陛下の宝物庫に納まる品にございます」
「封じた箱を、どこまで勝手に開けるつもりだ?」
侍従はまた息を吸い、今度は咳をせず、同じ行を指した。
「勇者殿が選ぶ前に、ご覧に入れます。箱を、こちらへ」
宝物庫番が鍵束を鳴らし、箱を棚から下ろす。金属の音だけが、やけに近い。
ぱきり、と封蝋の割れる小さな音が、天井の高い部屋に響いた。
俺は両手を下げて待つ。宰相の指は、目録の行を指し返さない。
蓋が開くと、箱の中に円と線の図が現れた。
紙は一枚で、長い一辺だけがぎざぎざに欠けている。俺はそこから、目を離せない。
あの夜に写した綴じの端の形を、その辺に重ねる。出っ張りと欠けが、頭の中で一つずつ噛み合っていく。息をするのを、少し忘れた。
百年。婆さんが箒を握って待った間、この一枚はずっと暗い箱の底だ。目の前の紙はこんなに軽そうなのに、待った時間の長さが胸に重い。
宝来は魔石の棚と箱の間で、息を詰めている。棚へ向きかけていた指も、止まったままだ。
「選ぶ前に、見せてください。……見なければ、選べません」
「陛下の仰せに従い、ご覧くださいませ。まだ、選ばずとも結構にございます」
侍従がうなずき、宝物庫番が箱を見やすい向きへ置いた。
俺は少し離れた床へ、白い布を広げる。膝をつくと、服越しに石の冷たさが伝わってくる。
「月岡、そこから見えんのか? 箱を近くへ寄せてもらえよ」
「見えてる。宝来、光の前だけ空けてくれ。影がかからなければ、写せる」
宝来が横へ動くと、頁の端まで明るくなった。
俺は布の角を押さえる。頁にも箱にも指を触れず、見える線だけを目で追う。
「異界の少年。選ぶのは勇者だ。その手で何をする?」
「俺の布に、俺の鉛筆で線を描かせていただきます。宝物庫の物へは、手を出しません」
鉛筆を布へ当てた。頁を、同じ大きさで一息に写す。
鉛筆の先が布の目に引っかかり、指にかすかな震えが返る。それでも、見えている円も線も、白い布の内側へ収まっていく。
「王家の宝を盗み写すとは、おまけらしい」
俺は布から鉛筆を上げた。肩の力を抜き、両手を宰相へ見せる。
「指一本、触れていません。触れたのは、俺の布だけです」
「箱にも頁にも、お手は触れておりませぬ。わたくしも、こちらで見ておりました」
「王家の物を前に、絵を描けば済むと申すか?」
侍従は箱と布の間へ目を向ける。俺の両手は、その目の前で開いたままだ。
「指一本でも触れれば罪人、とは宰相閣下のお言葉。今は、その指が触れたかどうかのお話にございます」
俺は線を内側にして布を畳み、床から持ち上げた。
頁は箱に残り、宝物庫番の手で蓋が閉じられる。木の触れ合う音に、指が布をきつく掴む。
宝来が魔石の棚へ向き直り、手を伸ばさず、指だけで一つを示した。
「魔石を、一つ。……五番目の分だ」
「下げ渡しを承りました。勇者殿のお選びになった物は、この魔石にございます」
宝物庫番は棚からその石だけを下ろし、宝来の手へ渡す。
宝来は受け取った石を両手に載せ、俺へ差し出すように見せた。
「これでいいよな、月岡? あいつに、待ってろって言った分だ」
「ああ。持って帰ろう。その石を、抱えててくれ」
宰相の目が、宝来の掌へ落ちる。俺は畳んだ布を握ったまま、宝来の隣に立った。
「罪人の供を連れた勇者の名など、王の前で剥いでくれよう」
「剥げよ。勇者の名なんか、くれてやる。……魔石は、持って帰る」
判定の日に俺を笑った声と、同じ高さの声だ。あの日は耳を塞ぎたくなった。嫌な響きは、まだ耳の奥に残っている。それでも今は、その声の続きを聞いていたい。
「帰る者に石を渡すため、勇者の名まで捨てると申すか?」
宝来は石を抱え直す。両腕の中へ収めたそれを、宰相のほうには向けない。
「名前であいつが帰れんのかよ!?」
「その名を与えたのは王だ。お前が決めることではない」
「なら、王の前で言えよ! 貰った石を返すかどうかは、もう決めてんだよ!」
宝物庫番の鍵束が、二人の間で鳴った。
老人は目録の余白へ筆を下ろしかけ、宝来を見上げる。短い沈黙の間も、宝来の腕から石は動かない。
「……名は、目録に載りませぬ」
「じゃあ、そっちは数えんな。石は一つ。それだけ持ってく」
筆は石の行へ戻り、侍従が宰相へ身を向ける。
「陛下の褒美を取り上げることは、宰相閣下にもできませぬ」
宰相は喉の奥でくっと鳴らし、指輪に触れた。ゆっくりと、宝来の前を空ける。
台の上には板の頁、棚の隅には蓋を閉じた箱が残る。窓からの光は、まだ板の縁を白く照らしている。
俺たちは宝物庫番の前を通り、侍従について鉄の扉を出た。
昼の城の門は、来た時より明るい。眩しさに目を細め、俺は門の脇で白い布を広げる。
写した側を内にして魔石を包み、角を固く結んだ。
宝来が包みを抱えると、門の兵の目がその結び目へ止まる。結び目を締めた俺の指は、まだこわばっている。
「その包みは、宝物庫からの品でありますか?」
侍従が、宝来より先に口を開く。
「陛下の下げ渡しの品にございます」
兵は侍従を見て、包みを解かずに槍を引いた。
俺の鉛筆は鞄の中、頁の線は宝来の腕の中にある。門を抜ける風が頬にあたり、ようやく深く息が入った。
ヨルカが門をくぐり、俺もその後へ続く。振り返ると、門の内に残った宰相が、宝来の抱える白い包みだけを見ていた。
「……布一枚なら、燃やせば済む。書庫ごとな」




