34. 自ら選ぶがよい
九十一日目の朝、白い髭の侍従が、書庫の段の下まで足を運んできた。
腕に抱えた紙の端から、王家の刻印の朱がのぞく。先に立つ宰相の兵はいない。老人が自分の足で、書庫まで持ってきている。朝の段はまだ冷たく、石の陰に立つ侍従の息だけが白い。
「陛下の仰せを、お持ちいたしました。北の砦の勇者殿は、おいでですか?」
「俺です。昨日、返事が出たって聞きました。ここで聞いちゃって、いいんですか?」
茶色に染めた髪の宝来が、段の上で手を上げた。
侍従はその手を見上げ、紙を広げて咳払いをする。乾いた音に、段の下の話し声が細くなる。
俺は目にかかる前髪を払い、開かれた紙に合わせて、自分の紙束を広げた。
字は読めないまま、形が見えているうちに鉛筆を走らせる。払いも、点も、朱の刻印の欠けも、見えるとおりに移していく。芯が紙を擦る感触が、指へ細かく伝わる。
一息の後、写しは最後の字まで俺の手元に収まった。
侍従は俺の鉛筆を止めず、宝来へ顔を向ける。
「陛下は、宰相閣下の耳打ちを待たずにお決めになりました。こちらへ直に、との仰せにございます」
俺は紙束を胸に引き寄せる。紙の重なりを腕の内側に確かめながら、侍従の白い髭を見上げる。
「宰相閣下は、この紙をご存じでいらっしゃいますか?」
侍従が口を開きかける。返事より先に、段を上がる足音が重なる。
そこへ着いた宰相が、指輪だらけの指で侍従の紙を取った。
「陛下の仰せは、宰相が読む。……勇者は、宝物庫より魔石を一つ受け取るがよい。おまけと書庫番は、城へ入れぬ」
宝来の手が、ゆっくり下りる。紙を持つ宰相の横で、侍従の咳もぴたりと止まる。
「閣下。今の紙は、写してあります」
俺は閉じかけた紙束を開き、鉛筆の跡を隠さないようにヨルカへ渡した。
頬のインクの染みが、鉛筆の字に沿ってゆっくり動く。
「望みの物を一つ、自ら選ぶがよい。供は、二人まで連れてよい。……書いてあります」
侍従は宰相の顔を見ず、ヨルカの持つ写しへ深く頭を下げた。
門の卓で取られた紙とは違う。この字には、王の使いの返事がつく。宰相が手にしている紙と、俺の写しが、同じ言葉で結ばれる。
「……その通りに、ございます」
「供が二人なら、こいつらを連れていけるじゃん! 入れねえなんて、どこにも書いてないだろ!」
「勇者が受け取る物は魔石だ。そのために書庫番まで要るまい」
宝来は段の端へ進み、宰相の紙をまっすぐ指した。
「自分で選べって、陛下が言ったんだろ! 供まで宰相が決めんのかよ!?」
「望みの物を、と仰せにございます。わたくしは、そのお言葉をお届けに参りました」
侍従が、白い髭の下で口を結ぶ。段の下でも、誰も声を挟まない。
俺は写しを受け取り、宰相にも字が見えるように持ち直した。
宰相の喉の奥が、くっ、と鳴る。
指輪を回す指は、紙の上で止まっていた。
「……ならば、選ぶがよい。選んだ一つのほか、宝物庫の物に指一本でも触れれば、勇者でも罪人だ」
宰相は紙を侍従へ返すと、兵を連れて去っていく。その背が遠ざかっても、紙束を押さえる俺の指は緩まない。
扉の外の見張りが帳面へ筆を走らせ、顔を上げて、俺とヨルカを順に見た。
侍従が見張りの帳面をのぞき、こちらへ向き直る。
「供のお二人は、明日の朝、勇者殿と門へお越しくださいませ。わたくしがお連れいたします」
「行きます。今の紙は、ここにも置いておきます」
俺が写しをヨルカへ返すと、段の下から列の先頭の男子が腕を上げた。
「煌真。魔石じゃなくて、頁を選べよ。……頁があれば、全員帰れるんだろ?」
「魔石は、お前の分だって言ったろ! ……選べんのは、一つなんだよ!」
「俺の分は後でいい! 俺だけ帰れても、頁が無きゃ、残る奴はどうなるんだよ!?」
先頭の男子は段に手をかける。身を乗り出した拍子に、袖が石を擦る。
宝来はその手の前へしゃがみ、男子と顔の高さを揃えた。
「全員って言葉で、お前の番を消すなよ! 俺が最後だって、あの紙にもあるだろ!」
「でも、お前の手柄だ! お前が旗を抜いた褒美を、俺が一人で貰えるかよ!」
「お前に渡すって、俺が決めたんだよ! 頁だって、欲しいに決まってんじゃん!」
男子は口を開き、何も返さずに閉じる。段にかけた手だけが固く握られた。宝来の最後の一言が、石に染みついたように消えない。
俺の胸にも、同じ重さが落ちていた。一つの石で、一人が帰る。一枚の頁で、帰り着く〈いつ〉が決まる。どちらも、喉から手が出るほど欲しい。どちらかを諦めろとは、俺の口からも言えない。
「城の門は、紙を通しません。紙が無ければ、見るだけで帰ることになります」
ヨルカの声に、煤けた袖口のネリカが俺の鞄へ目を留める。
「布なら、ネリカの外套の裏地を使ってください! 今、外します!」
「裏地は頁より小さいです。脱いでも、大きくはなりません」
ネリカの腕が片方抜け、もう片方が袖に残った。
「では、背中の分も足します! ネリカは、ここで待つので!」
「つないだ所へ線が来ます。まず、袖に腕を戻してください」
ヨルカは真顔のまま、ネリカの外套の肩を持ち上げる。袖へ腕を戻したネリカが鼻をこすると、宝来の口の端も、こらえきれずに少しだけ緩んだ。
俺は鞄に手を入れ、魔石を包むために入れていた白い布を引き出す。
「宝来は、魔石を選べ。頁は、俺が見る」
薄い麻布を広げると、向こう側の指が透けた。
頁と同じ大きさで写しても、周りにまだ布が余る。胸を塞いでいた息が、ようやく細く抜けていく。
「これに写す。見えてる間なら、紙と同じだよ。選ぶ一つは、増やさない」
「じゃあ……石と、頁の線を、両方?」
宝来の手が膝から離れ、白い布のそばまで上がった。
俺は布の裏へ手を回し、朝の光に透かす。糸の隙間を通る朝の光が、掌まで淡く照らす。
「布なら裏からも見える。まずは本物を見せてもらう。ヨルカも、一緒に来てくれ」
ヨルカはうなずき、写しの束を閲覧室へ戻した。
宝来と男子は、空いた段の上で同じ白い布を見ている。俺は頁の幅を取った所を、二人の前でもう一度指で示す。まだ何もない布の上を、二人の視線が一緒にたどる。
◇
翌朝、俺とヨルカと宝来は、侍従と城の門に並んだ。
鞄にあるのは鉛筆と、畳んだ白い布だ。門の石は、謁見の朝と変わらず冷たい。足の裏から上がる冷えに、鞄の紐を握り直す。
門の兵は鞄を逆さにし、布を広げて裏まで光に透かした。
「これも、おまけの紙ではないのでありますか?」
「布でございます。糸の目が、ご覧になれますね。裏返しても、紙にはなりません」
兵は布を目の前へ持ち上げ、織り目越しに俺たちを見る。俺は黙って、その確かめが終わるのを待つ。
「布は、紙ではないのであります。通ってよいのであります」
「なら、俺たちも通してくれよ。布だけ先に入れんなよ!」
宝来の声に、兵がようやく布から顔を出した。
侍従が咳払いをして門の内を示すと、兵の槍が脇へ寄る。
俺は鉛筆を布にくるみ、畳み目がずれないように鞄へ戻した。
城の奥は、廊下を曲がるたびに冷えていく。足音が壁に跳ね返り、背中の方へ遠く続く。鉄の扉の前では、鍵束を下げた宝物庫番が待っていた。
鍵束が鳴り、重い扉が内へ開く。低いきしみとともに、奥から埃と古い金具の匂いが流れてきた。
並ぶ棚の奥には、宰相と兵二人が立っている。鞄の中の布が、急に頼りなく薄く感じられる。
「よく来たな、勇者。……選べるのは一つだ。頁も魔石も、ここにある」




