33. 偽の頁
シヅ婆さんの見た灯の話から二日後、ヨルカは閲覧室の棚から王宮の決まりの写しを出した。紙のこすれる乾いた音が、棚の間に残る。
九十日目の昼前、窓の光が机の上へ伸びる。頬のインクの染みが、その一行へ近づく。
「宝物庫は、王の許しが無ければ、誰も入れません。……王宮の決まりの写しに、書いてあります」
「王の許しなら、褒美の返事はまだ来てない。宝来も、毎日城で聞いてるよ」
俺は目にかかる前髪を払い、金庫の底を写した大紙を机に広げた。
白い四角の中は、何も描き足さないままだ。あの晩、灯が一つ窓へ入った。婆さんの見た灯の先に、この四角を埋める一枚がある。たぶん。そう思うたび、何もない白さが少しだけ怖くなる。
「許しを待つ間に、別の所へ運ばれませんか?」
「そこに在るかどうかも、まだ見てない。許しが出たら、俺の目で探す」
扉の外で、鍋の蓋がかたんと鳴った。
茶色に染めた髪の宝来が取っ手を提げ、段を上がってくる。湯気の向こうの顔が、いつもより硬い。
「月岡、宰相がクラスを広場に呼んでる。頁を見せるってよ」
「自分から見せてくださるとはね。褒美の返事は?」
宝来は鍋をいつもの場所へ置いた。まだ揺れている蓋へ、手を添える。
「そっちはまだ。頁が見つかったから、全員来いってさ。皆、もう下にいる」
「なら、こっちも持っていく。見せられた物と比べるよ」
ヨルカは写本を抱え、大紙の片側を取る。端が折れないよう、俺も手の位置を直した。
宝来も鍋の蓋から手を離し、空いた端を持つ。
昼の像の前には、クラスの者たちと兵が並んでいた。北の砦から戻った顔、城の台所で見た顔、判定の日に笑っていた顔。照り返しの中、皆が宰相の手元を見上げ、俺たちが来ても振り向かない。
宰相が指輪だらけの指で、板に留めた黄ばんだ頁を掲げた。紙の縁を透かす陽が、やけに白い。
「勇者たちよ。これが、おまけの探す百年前の頁だ。王家の宝物庫より、出させた」
列の先頭の男子が顔を上げ、隣の者も息をのむ。肩越しに覗こうとする顔が重なり、後ろの誰かが声を張る。
「やっと見せるのかよ!? だったら、月岡に渡せばいいだろ!」
「慌てるでない。帰りたい者は、よく見るがよい」
宰相の板の向きに合わせ、クラスの肩が前へ寄った。石をこする靴音の中で、俺も頁へ目を凝らす。
「描かれているのは、供え石の目録だ。帰り道の図など、一本の線も無い」
「……図じゃ、ないって……。あれが戻れば、帰り道がそろうんじゃなかったのかよ!?」
「そのような図は無い。おまけの言葉より、この頁を信じるがよい」
先頭の男子の肩が、すとんと落ちる。開きかけた口が閉じ、視線が宰相の手元から足元へ下がっていく。
宝来の手が大紙の端を強く握り、紙に折れがついた。俺の指先まで、ぴんと張った紙の震えが伝わる。
「見せるために集めて、無いって言わせんのかよ!?」
「勇者は、在る物を見よ。無い帰り道のために、いつまで列に並ぶつもりだ?」
俺は宝来の手から紙を受け、段の上へ横に広げた。折れのついた端を伸ばし、空白を陽の下へ出す。
黄ばんだ頁の縁に、見覚えのあるぎざぎざが見える。
似ている。けれど、似ているだけだ。底の四角を写した時の線が、目の奥でまだ乾いていない。欠けの並びを、焦らずに目で追った。
「その頁を、写させてください。……破り目を、見たいんです」
「写すがよい。目録は目録だ。紙を増やしても、図にはなるまい」
宰相が板を傾け、紙の面がこちらを向く。
俺は頁全体を、同じ大きさで紙束へ一息に写した。
字の形も、破れた端も、端に沿う小さな欠けも省かない。
宝来が押さえる大紙へ、写したばかりの頁をそっと重ねた。
四角の長い辺から、紙の端が離れている。昼の光が、その隙間にだけ細く差し込んだ。
俺はその隙間を指し、宰相を見上げる。紙がずれないよう、空いた手にだけ力を込める。
「破り目が、金庫の底の形と違います。……指一本ぶん、小さい」
「指一本なら、俺にも測れるぞ! ほら、紙が足りねえ!」
群衆の男が自分の指をかざすと、隣の男まで指を伸ばした。肩越しからも手が出て、紙の上が影だらけになる。
「そっちの指、太すぎるだろ! おい、細い奴のでも空くぞ!」
「触らないでください! 指は、上からかざすだけです」
ヨルカの声で、何本もの指が宙で止まる。紙へ落ちる影まで、ぴたりと止まる。
俺は写しの端を押さえ、金庫の底のぎざぎざを見せた。
「ここの歯が三つ、違います。大きさを揃えていただいても、この欠けは噛み合いません」
「底の汚れを、王家の頁より信じると申すか?」
ヨルカが写本を開く。ぱらりと紙を鳴らし、目次の行へ指を置いた。
「写本の目次では、最後の頁は図です。……目録とは、一字もありません」
「読めねえけど、絵合わせなら俺にも分かる。合ってねえじゃん!」
宝来は紙を押さえたまま、板と写本を交互に見る。写本へ寄せていた顔を、宰相へぐいと向けた。
「勇者に、古い文字が読めるのか?」
「読めねえって言ってるだろ! でも、無い絵を見たふりはしねえよ!」
ヨルカは目次を開いたまま、列の先頭の男子へ向ける。今度は言葉をはっきり区切り、広場へ向けて読み上げる。
「帰り着く時を定める図です。この本の最後は、ここで図と記されています」
「じゃあ、あの目録は別物なんだな! 最後の頁が、ただの石の数だったんじゃない!」
俺は写した目録を、大紙の四角から外した。
下のぎざぎざが全部見えると、クラスの者たちが揃って板を見上げる。風に鳴る紙の音が、返事のない間を埋める。
宰相は指輪を回す指を止めた。
喉の奥で、くっ、と低く鳴る。
「……頁は頁だ。宝物庫へ戻せ」
「戻す前に答えろよ! 何で大きさも破れた所も違うんだよ!?」
兵は板を抱え、宰相の後へついた。黄ばんだ頁が、皆の目から遠ざかる。
先頭の男子は、去っていく頁から俺の紙へ顔を戻した。落ちていた肩が、ゆっくり上がる。やがて紙から顔を上げ、俺をまっすぐに見る。
「偽物を見せたってことは……本物が、あるんだな」
「ある。王家の宝物庫の、奥のほうに」
男子は唇を噛み、宝来のほうを見る。声になるまで、わずかに間が空く。
「……あれで全員、並ぶのをやめる所だった。帰れる図なんて無いってさ」
宝来は立ち上がり、両手で鍋の取っ手を握る。金具がきゅっと鳴り、俺のそばで鍋が揺れる。
「やめさせるかよ! ……鍋も、列も、まだ片づけてねえ」
俺は大紙を畳む前に、空いた四角をもう一度見た。白さは同じなのに、今は目をそらさずにいられる。
「本物を見るまでは、見せられた一枚で決めない。違うって分かった分、探す物は減ってる」
ヨルカは写本の目次に栞を挟み、閉じた。ぱたんという音が、昼のざわめきの中で小さく響く。
夕方、俺は閲覧室へ目録の写しをしまい、空の段へ出る。西日が、段の石を赤く温めていた。昼には聞こえなかった靴音が、自分の足元から返ってくる。
城へ鍋を返しに行った宝来が、坂の下から駆け上がってきた。
鍋を持たない手が大きく振られ、俺は段の端へ寄る。
息を継ぐ宝来の顔が、こちらを向いた。急かす言葉を飲み込み、俺はその口が開くのを待つ。
「月岡。陛下から、褒美の返事が来た。……宝物庫から、自分で一つ選べってよ」




