32. 空の箱
八十八日目の朝、ヨルカは地下から帰りの陣の写本を抱えて上がってきた。
階段の冷気が、本と一緒に閲覧室へ流れ込む。黴と古い糊の匂いが朝の光の中でほどけ、鼻の奥をかすかにくすぐる。
頬のインクの染みの下に、開いた本の影が落ちた。
「最後の一枚を欠いて戻る、と書いてあります。綴じ目録の、あの書き付けです」
ヨルカは綴じの最後を開き、破り取られた端にそっと指を添える。
百年前に破られた所だけ、綴じ糸の際から細い帯がはみ出している。ヨルカがそこをなぞると、紙の毛羽が爪の先に引っかかった。
「今日は、それも段へ持っていくのか?」
「はい。空の箱を開けて見せるのは、空だと言うためです」
俺は目にかかる前髪をかき上げ、卓の上を空ける。卓の冷たさが、指の腹に残った。
「空の箱でも、底は見える」
「底に字が無ければ、わたしには読む物がありません」
写本の横へ、俺があの夜に写した破り目の紙を並べる。不ぞろいな縁の線は、あの夜から一本も変わっていない。鉛筆を握りしめていた感触まで、指に戻る。
「線なら俺が見る。何も無いって言うなら、何も無い所を見せてもらうよ」
ヨルカは紙と綴じの端を交互に見て、写本を閉じた。
「では、これも持ちます。本は、空の箱には入れさせません」
「入れさせないよ。俺たちの本を渡す話じゃない」
「渡しません。破った人が分からないうちは、なおさらです」
屋根裏の階段から、大紙の角がひょこりと顔を出す。
煤けた袖口のネリカが、両腕をいっぱいに広げて最後の予備を抱えてきた。
「これで予備はおしまいです! 半分に切ったら、二枚にできますか?」
「同じ大きさで写すから、そのまま。端まで置ける所を探そう」
「じゃあ、ネリカが段を空けます! 本も紙も、全部広げましょう!」
ネリカが先に扉へ駆けていく。大紙を抱えたままでも、その足取りは軽い。
俺は破り目の写しを、大紙に挟まず胸の前に持った。紙を折らないよう、指の力をそっと緩める。
◇
昼、広場へ来た兵四人が、棒で担いだ鉄の箱を像の前へ据える。
棒が肩から外れる時、箱の底が昼の熱を帯びた石畳を擦り、ぎ、と鈍く鳴った。
膝の高さの金庫の前で、宰相は指輪だらけの指を開く。視線が集まるのを待つような、ゆっくりした動きだった。
鎖の先で光る鍵には、あの黒い錆が無い。その明るさが、箱の古さから浮いて見える。
宰相が鍵を差すと、群衆の中の錠前屋が鼻で笑った。
「錠ごと替えたな。三日でよくやった。そいつなら、引っ掛からずに回るだろ」
「私の金庫だ。どの錠を用いるか、お前に尋ねる必要は無い」
「俺は褒めてんだよ、閣下。箱は百年、錠は新品。なかなか見ねえ取り合わせだ」
段の端では、シヅ婆さんが箒を担いだまま座っている。
三本きりの歯を見せ、婆さんは笑う錠前屋のほうへ顔を向けた。
「箱は百年も待ったそうだねえ。開ける人のほうはどうなんだい?」
「どっちだって、もう開くぞ! 後ろにも見せてくれよ!」
群衆の声に押されるように、蓋が持ち上がる。蝶番が錆びた音を一つ立て、乾いた鉄の匂いが箱の口から広がった。
宰相は空いた手で、箱の中を大きく示す。
「見よ。百年、空の箱だ。おまけの頁など、影も形も無い」
俺は段を下り、蓋の影を避けて底を見下ろした。
錆と埃に埋まる底へ、一枚ぶんだけ明るい四角が浮かんでいる。俺は瞬きをこらえ、そこへ目を凝らす。
長い一辺だけが、ぎざぎざに欠けていた。
その欠け方を、俺の目は知っている。写本の綴じの端で、毛羽を立てていたあの形だ。見つけた、と思うより先に、指先が鉛筆を探して動く。
「底を、写させてください。……空の形が、残っています」
「空を写しても無駄だ。無い頁の字でも読ませるつもりか?」
俺は金庫の脇へ大紙を広げ、底と同じ幅の場所を取る。石のざらつきが、紙越しに指へ伝わった。
鉛筆が四角の縁を通り、周りの錆の粒まで拾っていく。四角の中だけは、線を引く所がほとんど無い。握った軸が、汗で少し滑った。
一息で写し終えた紙を、ネリカが両手で押さえる。風にめくれかけた端を、指が追いかける。
「四角の中だけ、埃がありません! 昨日まで、何かが載っていたんです!」
「き、昨日まで! そんなことまで、おまけの紙で分かるのでありますか?」
触れ役が板を脇へ挟み、宰相のすぐ横から箱をのぞき込んだ。
「紙じゃなくて、箱です! そっちの四角も見てください!」
「閣下、確かに、四角の中だけ……底が明るいのであります!」
宰相の手が蓋にかかる。触れ役が慌てて首を引き、板を脇へ抱え直す。
俺は大紙の端を持って、段へ戻った。
「ヨルカ、写本の最後の頁を開いてくれ」
ヨルカが写本を開き、頁を四角に重ねる。紙の縁と縁が、髪一本の隙間も無くそろう。重ね直す必要さえ無い。
「写本の頁と、同じ大きさです。……一枚ぶん、ぴったりです」
ネリカが鼻をこすり、四角のぎざぎざの辺へ身を乗り出す。
「でも、端は真っすぐじゃありません! ここだけ、紙を噛んだみたいです!」
俺は持ってきた破り目の写しを、その辺へ添える。紙をずらさないよう、息まで細くなる。
綴じの端の出っ張りが、四角の欠けへ一つずつ収まっていく。最後の一つがはまった時、指先が少し冷たくなった。
「破り目が、写本の綴じの端と噛み合います。……百年前に破られた、最後の一枚です」
「大きさだけじゃなく、破れた所までかよ? そんなもん、別の紙で合うわけねえ!」
写本を押さえたヨルカが、群衆へ向けて頁の端を少し上げる。紙のこすれる音まで、広場によく響く。
「こちらが本に残った端です。今写した線は、箱の底に残っています」
「空の箱じゃねえ! 頁の寝床じゃねえか!」
群衆の顔が、いっせいに金庫へ向き直った。
シヅ婆さんは笑わない。箒を握る手だけが細かく震えている。召喚の間の夜、十円玉の手前で止まった指と、同じ震え方だ。俺は、その手から目を離せない。
「百年空なら、どうしてこの四角だけ、こんなにきれいなんだよ!?」
宰相の指輪を回す指が、ぴたりと止まった。
喉の奥から、くっ、と小さく音が漏れる。
「……無い物は、写せまい。おまけの手が届くのは、ここまでだ」
兵は蓋を閉じ、棒を肩へ戻した。
俺は言い返さず、四角を群衆へ向けたまま立つ。無い物は写せない。それは本当だ。だから俺は、無くなった跡の形を写している。
宰相と金庫が遠ざかると、人々が順に大紙をのぞき、通りへ散った。
シヅ婆さんだけは段から下りず、俺の手元を見ている。人の声が遠のくと、紙のこすれる音が耳へ戻る。
俺が大紙を段へ置くと、小さな指が四角の縁をそっとなぞった。
欠伸は出ない。箒も、膝に寝かせたままだ。
「……百年、こんな箱の底で、寝てたんだねえ」
「婆さんが待ってた間も、ここに載ってたんだ」
「箱には、昼も夜も無いからねえ。蓋を閉めりゃ、おしまいさ」
婆さんの指は、ぎざぎざの手前で止まる。ほんの少し爪を浮かせたまま、その先へは進まなかった。
「触ったら、崩れちまいそうでね。紙のくせに、百年ぶんの顔をしてるよ」
俺は大紙の端が折れないよう、そっと下から手を添える。風に揺れていた四角が、婆さんの指の下で静まる。
「でも、持ち出した跡は残る。無くしたって言葉だけじゃ、消せない」
「あんたは、まだ見て回る気かい?」
「婆さん。底の形は、紙に残る。……次は、在る所を探す」
婆さんは欠伸をしないまま、箒を担いだ。
段を下りかける足が止まり、皺だらけの顔が俺へ振り返る。俺は紙から顔を上げ、次の言葉を待つ。
「昨夜、塔の上から見てたよ。灯が一つ、宝物庫の窓へ入ってった」




