31. 錆びた鍵
八十五日目の朝、閲覧室の窓はまだ白く曇っていた。
ヨルカが写しの束から一枚抜き、昨日と同じ一行を俺へ向けて卓に置く。乾いた紙の音が、朝の静けさにはっきり響く。
ヨルカが身をかがめると、頬のインクの染みが紙に近づく。そこにあるのは、召喚の夜の記録だ。門で取られた一枚を失っても、この束には字の形が全部残っている。
「見ておらぬ、と陛下は仰いました。……なら、まだ読んでいただけます」
王の声の最後の一言が、一晩じゅう耳の奥に引っかかっている。喉の乾きは消えず、城の門の石の冷たさまで身体の内側に残っている。またあそこに立つと思うだけで、唾がうまく飲み込めない。
「門で紙を取られるなら、見せる道を探す。あの一行は、ここにも残ってる」
ヨルカは紙を畳まず、卓の端を俺へ空けた。並んで記録を見られる距離へ、俺も身を寄せる。
「昨日は、読む前に連れ出されました。次も、同じ門です」
「だから、同じ持ち方で行くのはやめるよ。紙を取る奴の向こうまで、届ける」
目にかかる前髪を払ったところで、扉が小さく鳴った。
年かさの見張りが外から顔を出し、帳面を脇へ挟む。腰に旅の袋は無く、いつもの槍だけが、曇った窓を通した朝の光を細く返している。
「兵舎で噂を口にした者は、北の砦へ送る、と閣下が。……自分のことであります」
「あの金庫の噂を言っただけで、ですか?」
乾いた喉を動かし、俺は見張りの顔を見る。
「いつ出ろって言われたんです?」
見張りは戸口から動かず、槍を握り直した。
「次の兵が来るまでに支度を、と。書庫前の務めは、今日までであります」
「まだ来ていませんね。なら、今はそこの見張りです」
ヨルカの指が、兵の立つ扉の外を真っすぐ示す。そこに残る理由を、記録から読み上げるような声だ。
煤けた袖口のネリカが、鼻をこすりながら二人の間から首を出した。
「北の砦なら、勇者さまの鍋がある所です! お昼はちゃんと食べられます!」
「鍋は、自分のではありません。鍋の後を追って北へ行く務めでもありません!」
「じゃあ、ここの昼を食べてからですよ! 空のお腹のまま出すなんて、駄目です!」
見張りの口が開き、言葉にならない息だけが漏れる。帳面を挟んだ脇が、少しだけ震えていた。
俺は、出発の荷物が一つも無いその背中を見る。北の砦は、歩いて半日の道だ。誰かが言った一言のせいで、毎朝扉の外に立ってきた人が、そこへ送られる。明日もここにいるはずだと、今朝まで疑いもしなかったのに。
「昼まで、ここに立っていてください。誰が何を言ったか、俺たちも聞きます」
見張りは俺へ頭を下げ、いつもの側へ戻った。槍の石突きが床をこつ、と鳴らす。
◇
昼、宰相は兵を連れ、書庫前の像の前に立った。
広場の石畳は昼の日を吸って白く、照り返しが目の奥を刺す。像の影だけが短く、そこを外れると靴底まで熱い。
指輪だらけの指が動くと、触れ役が板を持ち上げる。集まった人々の顔が、その板へいっせいに向く。
「閣下のお屋敷の金庫は、百年開かずの空の箱である。おまけの探す頁など、入っておらぬ。噂を広めた見張りは北の砦へ送る、とのお達しであります」
板が下がる前に、扉の外から声が飛んだ。
「閣下! 百年開かずの金庫の話は、自分が言ったのと同じであります!」
「そりゃそうだ! お前の噂を、閣下が広場中へ配ってるぞ!」
笑い声が、広場のあちこちで弾ける。
群衆の男が、見張りから触れ役へ目を移し、板を指す。通り過ぎかけた者まで足を止め、同じ文を聞く側に加わった。
触れ役は、その指の前で板を胸に引き寄せる。高く掲げていた板の端が、顎の下へ沈む。
「自分は、お達しを読んだだけであります!」
「じゃあ、あの見張りも兵舎で読めばよかったのかよ!?」
「自分の持ち場は、ここであります! 噂のために北へ送られるのは……!」
見張りの声が裏返り、広場の笑いがぷつりと止まった。
宰相は鎖を引き、掌ほどの長さの黒い鍵を掲げる。揺れた鉄が、かすかに鳴る。
「見よ。百年、誰も回しておらぬ鍵だ。おまけの紙で、錆が落ちるものか?」
持ち手と軸は、錆の粒で埋まっている。赤黒い粒の間で、歯の先だけが細く光を返していた。
あの光り方を、俺は知っている。教室の戸の鍵の先が、毎朝回されて同じ色をしていた。
俺は段の端へ寄り、鍵の歯に目の高さを合わせる。赤黒い中に残るその光から、目を離せない。
「その鍵を、写させてください。……錆の無いところが、あります」
「紙は紙だ。好きに写せ。錆びた鉄を開ける役には立つまい」
鍵は宰相の手から下がったまま、鎖の先でゆっくり向きを変える。歯の光が、錆の向こうへ逃げていく。
歯が隠れる前に、俺は紙束を開いた。
見えている鍵を、同じ大きさで一息に写す。鉛筆の芯が紙を擦る。持ち手の銘から軸へ、歯の先へと、線が途切れず続いていく。錆の粒は粒のまま、剥げた所は剥げたまま、紙の上へ移っていく。
歯の先だけにある細い輪を写し終え、どの線も指で隠さないように、紙を段へ置いた。
ヨルカが写しの持ち手へ顔を寄せる。唇が、そこにある文字の形を確かめるように動く。
「宰相家の金庫、と書いてあります。鍵の持ち手の銘です」
群衆から太い指の錠前屋が身を乗り出し、紙の線を指でなぞった。
「歯の先だけ、錆が剥げてらあ。錠の中で回った跡だ。……一年と経っちゃいねえ」
「紙の上の輪で、錠が開くとでも申すか?」
「開けろなんて言ってねえ。錠の中で鉄が擦れた跡なら、俺の飯の種だ」
錠前屋は、宰相の手の本物の鍵へ顎を向ける。俺は写しの歯の先を、指で示した。
「この輪ですね。持つ所にも、軸にもありません」
「へっ、飾って眺めるだけじゃ、そこだけ剥げやしねえよ」
俺は写しを立て、広場へ向ける。
触れ役まで紙へ目を落とし、板を掲げる手を止めた。後ろの兵にも鍵の歯が見えるよう、俺は紙の下だけを持つ。
胸の奥で、判定の日の笑い声が一度だけ遠く鳴る。あの日、笑いを返したのは俺の線だった。今日、その線がつまんでいるのは、百年の嘘の端だ。こわばる指は紙の下へ隠し、線だけを広場に見せる。
「閣下。今年は、どなたが回されたのですか?」
宰相の指輪を回す指が、途中で止まる。
喉の奥が、くっ、と鳴った。
「……鍵など、いくらでも替えが利く」
「替えるのはいいさ! 百年回してねえって話は、どこへ行ったんだよ!?」
男の声に、錠前屋も紙を指す手を高く上げる。
「錠と鍵は組で替えな。今の歯じゃ、今の錠を回してらあ」
「金庫のことを口にしただけで北へ送るなら、閣下も一緒かよ!」
触れ役の肩が縮み、宰相の鎖が一度揺れた。
宰相は紙を見ず、扉の外の見張りへ目を向ける。鍵を握る手だけが、ゆっくり下がっていく。
「兵の務めを決めるのは、お前たちではない」
「じゃあ、ここに立たせとけよ! 閣下が自分で、同じ金庫を触れたんだろ!」
群衆の声が重なる中、俺は写しを下ろさない。紙の向こうに、槍を立てて待つ見張りがいる。
「くっ! ……見張りは、そのまま立たせておけ」
見張りは槍を立て、扉の外で胸を張った。北へ出る道へは向かず、書庫へ入る人のために一歩横へ寄る。その、いつもどおりの動きに、詰めていた息がほどける。
触れ役が板を下げると、男たちは見張りの足元を指した。
「よし、そこだ! 次は金庫だ、開けて見せろ! 紙だけだって言うなら、本物を見せりゃ済むじゃねえか!」
俺の隣で、ヨルカが鍵の写しを受け取る。その指先が、紙の端を少しだけ強くつまんでいた。
宰相は鎖を袖へ入れ、像の向こうへ歩きかける。歯の先の輪は隠せなくても、本物の鍵はまだあの袖の中だ。
兵の足も止まり、広場へ向けた宰相の口だけが動いた。
「いいだろう! 三日後の昼、金庫をこの広場で開けてやろう。……空の箱をな」




