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30. 余は、見ておらぬ

 八十四日目の朝、俺は城の門に立った。城の正門を通るのは、追い出されて以来だ。朝日が差しても、石の門は冷たい。判定の日の笑い声が耳の奥で一度だけ鳴り、俺は喉に残る乾きを飲み込んだ。


 隣で、ヨルカが召喚の夜の記録の写しを胸に抱えている。風にめくれかける端を押さえ、頬のインクの染みをこすらず、門の兵の顔だけを見た。


 茶色に染めた髪の宝来は、パン屋の粉袋の背負子を担いでいる。括られた灰色の石は、三谷の代わりに戻った供え石だ。紙が駄目なら、紙でない物を持って行く。昨夜、そう決めたのは俺だ。重さを宝来に背負わせている分、俺は言うべきことを引っ込めるわけにいかない。


「紙は一枚も通さぬ、との閣下の命であります」


「召喚の夜の記録の写しです。王へお見せするために、持って来ました」


 ヨルカは紙の端を押さえる。兵はその指が離れるのを待ち、紙を取り上げて門の内側の卓へ置いた。朝の風に、紙の端だけが小さく浮く。


「記録でも、紙であります。鞄も開けてください」


「鞄の中には、鉛筆と布だけです。写しの束は、書庫に置いてきました」


 俺は鞄を開いて、兵へ差し出す。兵が逆さにすると、鉛筆が門の石へ落ちた。かつん、と乾いた音が響く。拾おうと伸ばした手の上で、空の鞄がまだ揺れる。


「裏まで探せって、言われてんのかよ。空の鞄を、そんなに振るなよ!」


「底に紙が隠れていないか、検めるのであります」


 兵が鞄の底を裏返す。縫い目の内までのぞいても、紙は落ちてこない。ヨルカの目が、卓の上の紙へ戻った。


「それは、ここに置くのですね。誰が預かるか、わたしは見ておきます」


「門で預かります。お帰りの時まで、ここであります」


 俺は落ちた鉛筆を拾う。指に触れた木まで冷えていた。兵が宝来の背負子を見上げ、灰色の石へ指を寄せる。


「これは、石でありますか?」


「見りゃ分かるじゃん。紙じゃねえぞ」


 兵は石の後ろまでのぞき込む。粉袋の紐を引いて確かめ、ようやく門の脇へ退いた。


「石は紙ではありません。通ってよいのであります」


 宝来が背負子を担ぎ直す。俺は鞄を戻してもらい、ヨルカと門をくぐった。石を括る紐がきしむ音が、背中についてくる。


 謁見の間は、天井が高い。靴音が上へ吸われ、少し遅れて戻ってきた。赤い敷物の先の玉座に、王がいる。金の冠の下の赤ら顔が、俺たちへ向く。


 横には、指輪だらけの指の宰相だ。王の耳へ寄った口が、短く動いた。


「北の砦の勇者よ。望みの物を申せ」


 宝来が俺たちより前へ出る。背負子を担いだまま、玉座を見上げている。紐を握る手だけは離さない。


「魔石、一つ、いただきたい、っす。……帰り道に、要るんで」


 ヨルカが宝来の袖を引く。宝来は口をきゅっと結び直し、ヨルカはもう片方の袖まで引っぱった。


「勇者よ。余の前では、望みの物を明らかに申すがよい」


「魔石です。鍋じゃなくて、帰り道を描く墨に使う石です」


 宰相の口がまた王へ近づく。王は耳打ちを待たず、宝来へ身を向けた。


「帰り道? 余は、魔王を倒せば帰れると約したはずだ」


「約束は聞いてます。でも、先に帰った奴がいるんです。次の奴にも、その道を使わせたいんです」


 宝来は背負子の紐を握る。俺は玉座の前の床へ目を落とし、石を置く場所を測った。敷物の縁から玉座まで、遮る物はない。


 宰相が王と宝来の間に、半歩出る。指輪の光が、玉座の横で重なる。それだけの動きで、宝来から王の顔が見えにくくなる。


「陛下。おまけの陣で帰った者などおりませぬ。灰になっただけでございます」


「灰になるのは墨だ! 三谷は、灰になんかなってねえ!」


 宝来の指が紐を緩めかける。俺は目にかかる前髪を払い、その顔へ目で合図を送った。宝来が、宰相へ伸びかけた足を止め、石を置くための場所を空ける。


 背負子が床へ下りる。宝来は灰色の石をほどき、玉座の前へ据えた。


 ごとん、と重い音が響き、赤い敷物の端が震える。足の裏にも鈍い響きが伝わった。王の目が、宝来の空いた肩から石へ下がる。


「陛下が三十人の代わりに、向こうへ送られた石です。……三谷の代わりに、戻りました」


 王が身を乗り出す。石の側面にある刻印へ、赤ら顔が近づいた。俺はその視線を遮らないよう、体を脇へずらす。


「陛下。異界の少年が持ち込んだ石でございます」


「持ち込む前は、書庫にありました。三谷が帰った時、灰の上に残った物です」


 宰相の目が石へ動く。俺は刻印の面を、王から見える向きのままにした。冷たい表面に添えた指へ、少しずつ力が入る。


「陛下がお送りになった石です。紙の写しではありません。刻印も、この石にあります」


 宰相が耳へ顔を寄せかける。王はその口を見る前に、石へ手を向けた。


「……余の刻印だ」


 宝来が石から手を離す。脇に立つ兵も、王の指した面へ顔を寄せた。高い天井の下が、息を吐くのもためらうほど静かになる。俺は石から指を離し、王の次の言葉を待つ。


「三谷は向こうへ、石はこっちへ。今、陛下が見てるのは、戻ったほうです」


「供えに積んだ石を、余は見ておる。……あれが、ここにあるのか?」


 俺は王の目を見て、ゆっくりうなずいた。ヨルカが、紙を取られて空いた手を前へ出す。俺の目も、その手へ引かれる。


「召喚の夜の記録に、帰還の陣は用意せず、と書いてあります。……紙は、門で取られました」


 王の手が、石を指したままで止まる。宰相は指輪を回す指を動かさない。今度の静けさには、喉が詰まる。俺は息を細く吐く。


「門で、だと?」


「陛下。謁見へ、余計な紙を入れぬためでございます」


 ヨルカの指が、胸の前で紙を持つ形に開いた。王の視線は、その空いた手へ移る。紙を支えるはずの指の間を、光だけが通る。


「とある紙を持って来ました。今、門の卓にあります。置いた兵の手を、わたしは見ています」


「勇者の望みを聞く場へ、書庫の紙まで持ち込む必要はない」


「帰り道の話です! しっかり説明するための紙は必要です!」


 宝来が石の隣で顔を上げる。宰相はその声に答えず、王へ向き直った。


「謁見は、ここまでである。陛下はお疲れだ」


「魔石の返事、まだ聞いてません。五番目の奴が、待ってます!」


 兵が扉を開き、俺たちを手の向きで促す。戸口から流れ込む冷気が、足首を撫でた。ヨルカは鍵を下げたまま、その兵を見る。まだ足を動かさない。


「書庫番の任についても、まだ……何も聞いていません」


 王は首をかしげ、思案に沈む。


「謁見は終わりだと言っておろう! 動かぬなら反逆罪だぞ!」


「……宝来、石を持とう。陛下には、刻印を見ていただけた」


 俺は背負子の紐を床へ広げる。宝来が石を載せ、ほどいた時より強く結び直して担いだ。


 褒美の石も、書庫番の任も、何一つ決まらない。それでも王の目は、石が床を離れるまで、その刻印から動かなかった。ヨルカは紙を読む手を下ろし、俺と扉へ向かう。敷物を外れた靴が、硬い床を鳴らす。俺はその音に紛れない返事を、まだ耳のどこかで待っている。


 扉が閉まりかける。宰相に腕を取られた王が、俺たちのほうを振り返った。


「書庫番。……その記録、余は、見ておらぬ」

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