29. 帰る日は、決めていない
「……決めてない」
シヅ婆さんは俺を一瞥すると、欠伸を一つして段を下りていく。石段に伸びる影をゆっくり踏み越え、夕日の中で、小さな背中が塔のほうへ遠ざかった。
閲覧室に戻ると、ヨルカが順番の紙を卓へ広げる。折り目に夕日が差し、紙の端が淡く光る。頬のインクの染みのある顔は、俺ではなく紙の一番下へ向いた。
「一番下まで、もう空いていませんね」
「帰りたいって来た奴の順に、書いていったから」
ヨルカが紙の上から下まで、指を滑らせる。帰った者の行をたどる指先が、粉川の所で止まった。俺も、その先の余白を見る。
「トーゴの名前が、順番の紙のどこにも書いてありません」
「全員を帰すまでは、俺の番は書かない」
「全員に、トーゴは入っていないのですか?」
俺は卓に手を置く。冷えた木の感触が、掌に伝わった。ヨルカはその手の前へ、紙の空いた端をそっと寄せる。
「俺は描くほうだから。先に帰ったら、残った奴の陣を誰が描くんだよ?」
「では、トーゴの番は、いつ来るのですか?」
「分からない。……来るのか、それも」
「決めてくれないと……わたしは、何を読めばいいのですか?」
目にかかる前髪をかき上げる手が、途中で止まる。口を開けても、続きの返事は出なかった。灯の芯が小さく鳴る。紙の白い端ばかりが目に入り、そこへ自分の名前を書くところを、うまく思い描けない。
屋根裏からネリカが下り、煤けた袖口をまくる。紙に顔を寄せたヨルカの横へ、勢いよく身を乗り出した。
「ネリカは、月岡さまが帰る日に、壺を三つ擦ります!」
「一人に、壺一つです」
ネリカは鼻をこすってから、空中で指を三つ数える。ヨルカは真顔で、その指を一本ずつ折る形を示した。
「余る分もあっていいんです! その日の墨だけは、足りなくしたくないんですから!」
「今は、余りを置く話より、帰る人を先に書く話です」
俺は前髪から手を下ろす。ヨルカは鉛筆を渡そうとはしない。細い芯の先が、余白の手前で止まっている。
「日も、名前も……今は出ない。何も決めないまま書くのは、違うだろ」
「……では、書かずに場所を空けます。紙の端まで、ほかの人で埋めません」
順番の紙の一番下、粉川の〈取っておく〉の下に、一行ぶんの余白ができた。何も書かれていないのに、その行から目を離せない。ヨルカはそこへ鉛筆を置かず、紙を畳む。
「ネリカ、壺を数えるのは、その日を俺が言ってからでいいよ」
「はい! でも、擦る手は今から空けておきます!」
俺は紙の最後の折り目を押さえた。名前も日も無い行が、折り目の内側に残る。さっきまでより、指を離すのに少し時間がかかる。帰る日を聞かれてすぐに答えの出なかった口の中は、まだ乾いている。
◇
翌日の昼、宰相が兵を連れ、書庫の段の下へ来る。石の段に、兵の足音が硬く響いた。指輪だらけの指が上がると、兵が紙を掲げる。
広場を渡っていた人々が足を止めた。立ち話の声が途切れ、こちらを向く顔が増えていく。ヨルカは書庫の鍵を下げたまま、俺の隣にいる。
「書庫番。おまけを匿う書庫番の任を、今日で解く。王に代わる印がある。鍵を出せ」
兵が段へ足をかけた。ヨルカは鍵を外さず、兵の持つ紙へまっすぐ顔を向ける。
「解任状を、こちらへ向けてください。印も、見えるように」
「読むために受け取ればよかろう。鍵を出してからだ」
俺は紙の下に押された印を、一息で写した。掲げている兵の指は、まだ紙の端を押さえている。
ヨルカが閲覧室から、台座を写した予備の大紙を運んでくる。俺はそれを広げ、今写した紙と並べた。大紙の端が、昼の風に一度だけ持ち上がる。浮いた端を押さえ、印が見える向きに整える。
「印の形が、台座の刻印と違います」
「王に代わる印である。王の形と違うのは、当然であろう」
ヨルカは袖の内から、自分の任命状を出す。開いた紙の下には、台座と同じ刻印があった。ヨルカの指先が、紙の折り目をゆっくり伸ばす。
「書庫番は、王が任じ、王が解く。わたしの任命状に、書いてあります」
「王の意を伝えに来たのだ。書庫番が、王の意を読めぬとは」
「読めるのは、ここにある字です。宰相閣下が解く、という字はありません」
俺は任命状の刻印から、宰相の右手へ目を移す。紙へ写した紋と、指の上の小さな紋が重なった。
「その印なら、閣下の右手の、三つ目の指輪と同じ形です」
宰相が右手を袖へ入れる。袖の布が、風に小さく膨らむ。群衆の前のほうで、誰かが短く吹き出した。
「王様の代わりの印なら、隠さなくたっていいじゃねえか!」
掲げた兵の目も、宰相の袖へ向く。段の途中で、その足が止まった。鍵へ伸びる手はない。
「閣下。鍵を受け取るのでありますか?」
「任命状の字と、この紙の印を、もう一度並べて見せます。兵さんも、見てください」
ヨルカは任命状を、兵の解任状と同じ高さへ持ち上げる。兵は空いた手を伸ばすこともなく、解任状を掲げたまま宰相を待った。
俺は並べた写しを群衆へ向ける。広場の視線が、今度は紙へ集まる。袖に入った右手は、その紙を指せない。
「どちらが王の刻印かは、台座を見ればお確かめいただけます。印の持ち主を、描き替えはいたしません」
宰相の淡い金色の目が、ヨルカの鍵へ戻った。鍵は、胸の前でかすかに揺れる。兵の足は、それ以上段を上がらない。
「……ならば、王の前で解こう。三日後の朝、謁見の間へ来い。勇者の望みも、そこで聞く」
宰相は兵を連れて去る。掲げられていた紙は、段の下へ遠ざかった。広場に、人々の小声が少しずつ戻ってくる。
ヨルカが任命状を胸に当てる。指のかかった紙の端が、わずかにしなる。書庫の鍵は、上着の上に下がったままだ。
「祖父から継いだ時の紙です。今日、持っていて……よかったです」
「鍵も、持ってる。まだ、ここを開けられるよ」
ヨルカは俺にうなずき、扉の鍵穴へ鍵を差した。鍵の回る音が、いつもよりはっきり聞こえる。俺は大紙を畳んで、その後に続く。
夜、卓には順番の紙と、召喚の夜の記録の写しが並ぶ。灯が揺れるたび、折り目に細い影ができる。謁見には、宝来の望みも持って行く。
扉が開き、茶色に染めた髪の宝来が、空の鍋を提げて駆けこんだ。冷えた夜の空気が、宝来の背中から流れ込む。鍋を置くより先に、俺を呼ぶ。
「月岡。謁見の間には、紙一枚、持ち込ませねえってよ」




