28. 百年前の褒美
八十日目の朝、宰相は兵を連れて、書庫前の像の下に立った。石段には、まだ夜の冷たさが残っている。宝来に問うた褒美の答えを、今日は触れ役の板から読ませるらしい。
指輪だらけの指が板を示す。鍋の無い段にも人々の目が集まり、石をこする靴音が、俺のそばで途切れる。
「初代勇者シヅ殿は百年前、褒美にこの国に残ることを望まれた。おまけの帰り道など、勇者の褒美にならぬ、とのお達しであります」
最後の一句へ、段の上から大きな欠伸がかぶさる。触れ役の口は、言葉の形のまま開いて止まった。
箒と腰の鍵を下げたシヅ婆さんが、段に立っている。三本きりの歯が見えるほどの欠伸を終え、口をゆっくり閉じた。
「……以上であります」
婆さんは箒を構え、低い声で板の向こうへ言い返す。板を持つ兵が、また肩を縮めた。
「勝手に、人の望みを読むんじゃないよ」
触れ役は板を胸の下まで下げる。帰りの陣を描く日でもないのに、婆さんが書庫の段に立っている。擦れた箒の柄が、朝の光に白く浮いた。
「番人の婆さんじゃねえか! 箒持って、広場に来てるぞ!」
「シヅ殿。これは、初代勇者の望みを後の勇者へ伝える触れである」
「伝える相手より、先にあたしを見な! あたしの口が、ここにあるだろ! 像に聞いて来たのかい?」
宰相は指輪に指をかける。
「ここに残り、召喚の間を守ってこられた。それは広場の皆も、見てきたことであろう」
「鍵を持つのと、ここに残りたいのは、同じなのかい?」
宰相は指輪を一つ回す。
「百年、同じ扉の前におられた。望まぬ者が、百年も座るまい」
「座ってりゃ、望んだことになるのかい!? あんた、待つってことを知らないね!」
「シヅ殿は百年、帰りたいと一度も申されなかった。それが答えであろう」
婆さんは返事をせず、欠伸もしない。腰の鍵だけが、箒の柄に触れて小さく鳴った。広場の声が、その細い音のまわりで途切れる。
その音で、俺は目にかかる前髪を払う。鍵の柄へ目を向けると、すり減った小さな字の列と、その下の王家の刻印が見えた。字の溝には細い影が残り、朝の光の中でも読みづらい。
「婆さん。その腰の鍵、写させてくれ」
婆さんが鍵を外し、俺の掌へ置く。召喚の夜、扉を閉めたのと同じ鍵だ。金属の冷たさが掌に染み、百年という長さまで、そこに乗ってくる。
「小さいけど、字の線はまだ残ってる。ヨルカ、紙を持っててくれ」
「大きくしないでください。この大きさのまま、読める所まで読みます」
俺は鍵の柄に紙を並べ、鉛筆を走らせた。すり減った溝の縁も、そのまま写す。静まった広場に、鉛筆のこすれる音が細く続く。
紙を受け取ったヨルカが顔を寄せる。頬のインクの染みが、鍵を見下ろす婆さんの手の近くへ来た。読み始める前の息まで、ここでは聞こえる。
「初代勇者シヅ、褒美に帰り道を望む。描く者の来る日まで、召喚の間の鍵を預く。……書いてあります」
「帰り道を待つための鍵じゃねえか! 残る褒美だなんて、どこにあるんだよ!?」
群衆の男の目が、像と婆さんの間を行き来する。隣の人も、触れ役の下がった板へ顔を向けた。
「刻印もあります。広場の台座と同じ、王家の形です」
紙の刻印をヨルカの指がたどる。俺は鍵を婆さんへ返し、宰相へ向き直った。
「閣下。望んだ物の字なら、ここに残っております。ご本人が言わなかったことを、足さずに読めますよ」
宰相の目が、鍵から紙へ移る。指輪を回す指が止まった。
婆さんは箒を動かさず、宰相を見ている。触れ役も、板を掲げ直さない。俺はようやく、掌の力を抜いた。鍵の冷たさは、まだ指に残っている。
「シヅさま。写しは、こちらに残してよいですか?」
婆さんはヨルカにだけうなずいた。宰相は何も言わず、兵を連れて去る。石を踏む足音が遠ざかり、広場にざわめきが戻ってくる。
「……百年ぶりに、あの字を人に読まれたよ」
昼、人が散ってから、婆さんは段に腰を下ろす。俺も隣へ座った。朝は冷たかった石が、今は服越しにぬるい。並んでみると、婆さんの体は思っていたよりずっと小さい。
駄菓子の話は出てこない。膝に置いた鍵の柄を、婆さんの親指が隠している。俺も黙って、膝の上の紙へ目を落とす。
「あの晩、王様は、頁を探しとくって言ったよ」
「……褒美を聞かれた晩だね?」
婆さんはうなずく。俺は紙を置いた。鍵の字からその顔へ、ゆっくり目を戻す。
「頁は?」
「次の朝には、もう無かったよ」
婆さんは鍵を腰へ戻す。俺の鉛筆の先は、帰り道を望む、と読まれた線の下で止まった。
「その晩に探すと言って、次の朝には、無い」
俺は聞いたことだけを声に出す。百年前の朝、頁の無い本を開いた十七歳の婆さんが、勝手に目に浮かぶ。今は隣にいるのに、その朝へは手が届かない。喉の奥が、少し詰まった。
「……あんたが声に出すと、百年前より短く聞こえるね」
婆さんは箒を膝に寝かせ、それ以上は言わない。ヨルカが紙を束の上へ戻した。鍵の字は、すり減った所まで俺の紙に残る。土ぼこりの匂いがする風に、紙の端が持ち上がる。俺は字に触れない所を指で押さえる。
◇
夕方になっても、婆さんは段にいた。広場に影が伸び、石の熱が足元から少しずつ抜けていく。腰の鍵が夕日を受け、年かさの見張りが帳面から顔を上げる。
「その鍵のお話で、兵舎の話を思い出したのであります」
「言い触らすなら、本人の居る間にしなよ」
見張りが帳面を閉じる。婆さんは箒を抱え、欠伸をしようと口を開けた。
「閣下のお屋敷には、百年開かずの金庫があるそうで。……兵舎の噂であります」
欠伸が、途中で止まる。鍵に添えられた指も動かない。閉じた帳面の音だけが、妙に耳に残る。
「百年、かい?」
俺は紙の束へ目を落とした。百年前の朝に無くなった頁と、百年開かずという噂を、頭の中で並べる。紙の角が、掌に少し食い込む。
何も結んで口には出さない。婆さんも見張りへ、それ以上は聞かなかった。
小さな手が懐へ入り、王の銀貨を一枚出す。段の縁に、王の顔が上を向く。硬い音が、長くなった影の中で跳ねる。
「あんたの銀貨、返しとくよ。……百年ぶんの写し代にしちゃ、安いけどね」
俺は銀貨の前に手を置いた。婆さんの歯は、今日は王の顔へ近づかない。ヨルカが横から、心得の紙をのぞき込む。
「写し代は、閲覧の心得に書いてありません」
「じゃあ、書いときな。あたしが先に払ったんだから」
「シヅさまが決める金額ではありません。トーゴが、受け取るか決めます」
俺は段から銀貨を取る。鍵を預けた手が、箒の柄へ戻った。夕日に温まった銀貨が、指に収まる。
「受け取るよ。鍵の写しの分として」
「安かったって言ってんのに、そこでうなずくんじゃないよ!」
「じゃあ、高いって言えばいいのか?」
「言ったら、もう一枚出させる気だろ。あんたも商売を覚えたね」
ヨルカが心得の紙を見直す。写し代の無い行を真顔で探し、婆さんはそこでやっと欠伸をした。俺のつい詰めていた息が、今度はゆっくり抜けていく。
俺は銀貨をしまい、鍵の字の写しを束に揃えた。紙の端が、指の下でぴたりと重なる。婆さんが箒を担いで段を下りかけ、振り返る。
「あんた、自分の帰る日は、決めたのかい?」




