27. 旗を抜いた手
七十七日目の夕方、親方の娘は書庫の段で籠を抱えていた。二本のおさげの下から、広場を渡る足音のほうへ顔が上がる。西日が段の石を橙に染め、人の影を長く伸ばしている。籠から漂うパンの匂いに、乾いた土の匂いが混じる。
戻ってきた勇者たちが、段の下に並んだ。全員いる。出て行った顔を確かめる俺へ、列の先頭の男子が手を振る。俺は、鉛筆を握っていた指をやっと緩めた。触れの日から肩に入りっぱなしだった力が、指先からゆっくりほどけていく。
「勝ったよ。煌真が、先頭で前に出たんだ」
粉川が盾を下ろす。縁が石に触れて、硬い音が鳴った。粉で白い爪を、娘の前でぱっと開く。
「盾は俺。鍋は煌真。……旗は、煌真が抜いた」
娘が段を駆け下り、粉川の前で足を止める。粉川は盾を壁に寄せて、その籠を受け取った。先頭の男子は、北の空を親指で示す。
「魔王軍の黒い旗の列が砦の外に並んで、煌真が出たら先頭が退いたんだ。残った旗は、砦で隊長が預かったよ」
茶色に染めた髪の宝来は、煤で黒い鍋を提げて段を上がる。娘が空けておいた、いつもの場所に鍋の底が収まった。焦げた匂いが、夕方の風に乗ってくる。
「……鍋、焦がした」
「擂り鉢より黒いです! ネリカの墨よりも黒いです!」
煤けた袖口のネリカが、鍋へ鼻を寄せる。くすぐったそうに鼻をこすった。宝来は蓋を押さえ、俺の顔を見る。
「勝って帰った奴に、最初にそれ言うかよ!」
「最初に鍋の話したの、宝来だろ」
宝来の右の人差し指と中指には、煤で黒い布が巻いてある。取っ手を離したその指を、俺は見た。鍋の焦げより、そちらが目に残る。
「鍋まで持っていったんだな」
「誰かが飯を作んなきゃ、列だって腹減るじゃん。……月岡、水貸せよ」
俺は桶を段へ運んだ。水面に映った夕日が、縁まで揺れる。先頭の男子が鍋の隣へしゃがみ、ネリカは蓋の裏までのぞき込む。
「鍋は、食べてから洗えます! まず皆さんの分を出しましょう!」
「煌真、旗の話くらい自分でしろよ! 前に出たの、お前だろ」
「出ただけだ。……向こうが勝手に下がったんだって」
「勝手に下がらせたのが、勝ちなんだって!」
男子の声に、宝来は鍋の蓋を開けて返事を隠す。耳の先が、夕日より赤い。蓋の向こうから、まだ温かい匂いがこぼれてきた。
粉川と娘が籠を並べる。宝来は自分の勝った話をそれきりせず、空いた椀へパンを配った。湯気の向こうで、その口の端だけが少し上がっている。差し出される椀へ、煤の指が休まず動く。
◇
翌日の昼、宰相が兵と隊長を連れ、像の前に立った。指輪だらけの指の先で、黒い角の印の旗が広がる。昼の光を吸うような黒だ。風を受けた布が、乾いた音を立てている。
隊長の白い手袋が旗竿を握る。昨日、鍋の横へ座ったクラスも、広場へ集まってきた。日なたの石は熱いのに、読み上げを待つ俺の背中は冷える。
「北の砦の旗は、王家の隊長が取った。勇者は、おまけの店の鍋を提げて後ろにおった、とのお達しであります」
「嘘つけ!! 煌真が取ったんだ! 出まかせを、俺たちの前で言うなよ!」
男子の声に、隣の勇者も前へ出た。宰相は触れ役の板を下ろさせない。昨日は鍋を囲んでいた肩が、今は旗の前に並んでいる。
「勇者の口は、勇者をかばう。王家の手柄に、口を挟むな」
「見て帰った奴の口を止めて、見てない人が決めるのかよ!?」
「隊長も、ここに居る。旗を掲げる者を見ればよかろう」
群衆の男が、隊長の手へ首を伸ばす。手袋の白さに目を留め、隣の男の肩をつついた。その指の先を、周りの目も追っていく。
「隊長の手袋、真っ白じゃねえか! 昨日から抱えてた鍋と、えらく違うな!」
笑いに混じって、隊長の手が握り直された。俺は段から旗竿を見下ろす。木目の浮いた握りに、黒い指の跡が並んでいる。白い手袋が動くたび、その黒がのぞく。
手のひらで包んだ形の跡だ。二つの跡にだけ、細かな縦と横の線があった。鍋の取っ手を離れた、あの指が頭に浮かぶ。俺は鉛筆を握り、段の縁へ寄る。
「旗竿を、写させてください。……握った手が、残っています」
「異界の少年。旗へ何を描くつもりだ?」
俺は紙束を広げ、鉛筆の先を見せた。風に持ち上がる紙の端を、指で押さえる。先頭の男子も竿の黒い所へ目を向け、口を閉じる。
「旗には足しません。握りを段の下まで寄せていただけますか?」
隊長が竿を傾ける。俺は見えている跡を、一息で紙へ写した。布の目の一本一本が、鉛筆の先へ吸いつくように流れてくる。
「宝来、右手を。指の布は外さず、そのまま出して」
「これ、鍋の煤だぞ。紙まで黒くなるじゃん」
俺は目にかかる前髪をかき上げ、宝来の指の布へ紙を重ねる。頬のインクの染みのヨルカが、並んだ線へ顔を寄せた。線を目で追う順に、唇が小さく動く。
「布の目まで、同じです。……煤の指は、勇者さまの指です」
「隊長の手袋にも、この目がありますか?」
隊長は白い手袋の手を見下ろした。握っていた竿を、段の縁へ静かに立てる。石を打つ音が、やけにはっきり響く。
「……旗は、勇者殿から預かりました」
群衆の目が、隊長から宝来へ移っていく。連れてきた兵も、板を読む触れ役へ顔を向けた。板は宰相のそばに掲げられたまま、次の声が来ない。
「預かった手と、取った手は別です。閣下、布の目もご覧になりますか?」
「紙、遠くへ向けてくれよ! 後ろの奴にも、煌真の手が見えるように!」
俺は写しを広場へ向ける。宝来は煤の指を、紙の隣に出した。引っこめかけて、やめる。後ろまで見えるよう、俺は紙を少し高く掲げる。
宰相の指輪を回す指が止まった。旗は、隊長の手で段の縁に立ったままだ。風で布が揺れても、握りに残る黒い跡は隠れない。
「ちっ……。手違いがあったようだ……。手柄は、勇者のものとする。望みの物は、王の前で申せ」
「望みなら、もう決めてる。魔石一つ。……俺の分じゃねえ、五番目の分だ」
ヨルカが順番の紙を開いた。宝来の黒い指は、その紙へ触れる前に引っこむ。その手を見てから、俺も紙へ目を落とす。
「五番目は、先頭のかたです。ここに書いてあります」
「煌真が先に帰れよ! お前が取った旗だろ、俺の褒美じゃない!」
先頭の男子が紙を押し返す。宝来は押し戻さず、鍋の取っ手に手を置いた。煤の布が、取っ手の黒に重なる。
「最後でいいって言ったろ。二度言わせんな」
「でも、俺が使ったら、お前の石は残らないんだぞ!」
「だから、お前の帰り道に使うんだよ! 取った旗まで、取り直させんな!」
俺は順番の紙を、二人の間に置く。男子の手が止まった。俺も、何度も見てきた紙なのに、今日はその行から目が離れない。俺は紙の端を押さえ、顔を上げる。
「五番目のままだよ。宝来が選んだ望みも、受け取ってくれ」
「……先に帰っても、お前が来るまで待ってるからな」
宝来は鍋の蓋を持ち上げる。返事の代わりに、男子の椀へおかわりを入れた。薄い湯気が、二人の間をゆっくり上がっていく。
魔石はまだ、誰の手にも無い。宰相は兵と隊長を連れて去りかけ、像の前で足を止めた。俺の指は、順番の紙からまだ離れない。
振り返った目が、宝来へ向いた。俺は紙を押さえたまま、続きを待つ。風に鳴る旗の音が、声の空いたところへ入り込む。
「勇者よ。初代勇者殿が百年前、褒美に何を望まれたか、知っておるか?」




