26. 描かない約束
粉川は俺の前で、粉で白い爪を払った。落ちた粉が、灯の下をちらちら舞う。姫崎の帰った床には、まだ灰が薄く残る。灯の油と焦げた墨の匂いが、閲覧室の天井の下で重なった。粉川の息だけが、妙にはっきり聞こえる。
「返事は、まだしてねえ。二番窯が焼けるまで待ってくれって、言ってきた」
「いつ焼けるんだ?」
「明日の昼。……窯なら、待たせる時間が決まるだろ」
俺は卓の端から鉛筆を引き寄せる。順番の紙の一番下には、粉川の〈取っておく〉がある。今夜は、その短い文字がやけに大きく見えた。
「パンは焼けても、返事まで焼けるとは限らないけどね。ははっ」
「分かってるよ! けど、黙ったまま夜明けの窯に立つより、ましだろ」
「じゃあ、今ここで何を迷ってるのか、言ってみろよ」
粉川の目が、床の灰の向こうへずれる。母さんへの手紙を俺へ渡した時と同じ手が、爪の粉をもう一度払った。もう落とす粉はほとんどないのに、指だけが動いている。
「切符を取ってある奴が、ずっとなんて言えるかよ」
いつもの、窯の時刻を告げる声よりずっと低い。鉛筆を握る指の力を、俺は少し緩めた。帰れるようにしておくことと、誰かを待たせることが、同じ紙の上でぶつかる。
「それは粉川が決めることだ」
「……消せって言いに来たんじゃねえからな」
俺は紙を動かさずにうなずく。粉川も、鉛筆には手を伸ばさない。卓の端で、鉛筆の細い影だけが揺れた。
「分かってる。残すよ。明日の昼も、ここにある」
粉川は卓から手を離す。段を下りる足音が、夜の通りへ乾いて響く。二番窯のあるほうへ、その音が遠ざかるまで、俺は紙から目を離せなかった。
◇
翌朝、俺は三谷あてに〈姫崎は着いたか〉と書く。紙を畳む指に、朝の冷えが残っていた。小さな陣の真ん中へ置き、端を押さえた手をそっと離す。
一つ目の壺から匙一杯を取り、最初の鉛筆の頁を裏から透かしてなぞる。息を詰め、最後の線をつなぐと、紙の下から白い光が走った。朝の冷えた空気が、俺の頬の前でふっと揺れる。
光が引くと、灰の上には別の紙が載っていた。返ってきた紙を灯にかざす。三谷の字は、行の終わりで少し大きくなる。いつもの癖を見つけただけで、喉がきゅっと狭くなる。
「『姫崎さんが、手紙を自分で渡してくれたよ。ふたりで、少し泣きました』」
読み上げた声が、思ったより掠れる。ヨルカは頬のインクの染みを袖でこすった。細い指が、俺の読んだ行の端を、紙をいたわるようにゆっくりたどる。
「……自分の手で、渡せたのですね」
「うん。今度は、言いに来た本人が渡したんだ」
〈ふたりで〉の文字を、もう一度目で追う。その短い言葉だけで、胸の奥の固いところがほどけた。紙は朝の空気に冷えているのに、手を離すのが惜しくなる。
俺は紙を写しの束の横へ置いた。ヨルカの指が、順番の紙の姫崎の行へ移る。そこに名前があることが、今は少し違って見える。
昼前、親方の娘がパンの籠を抱え直し、段を上がってくる。二本のおさげが、足取りに合わせて揺れた。焼きたての皮の匂いが、籠の布の隙間から流れ、油と墨の匂いをふわりと押しのける。
「〈パン屋の娘、籠〉。今日はパン屋の勇者殿でなく、籠であります」
「朝のパンを買ってくださる兵さんですね! どうぞ、これを!」
見張りの兵は筆を置き、籠からパンを一つもらった。帳面を脇に挟んでかじると、ぱり、と皮が鳴る。もう片方の兵まで籠をのぞき込み、段の上にパンの匂いが広がる。
娘は俺の前へ来て、空いた籠の隙間を腕で押さえる。早足で来たのか、まだ息が弾んでいた。言葉より先に、その腕の力の入り方が目につく。
「粉川さんの帰り道、描かないでください!」
俺は目にかかる前髪をかき上げた。籠へ視線を逃がさず、娘の顔を見たまま答える。
「描かない。粉川が、自分の口で帰るって言うまでは」
「言ったら、描くんですか? そんなの、約束じゃないです!」
「約束だよ。帰るかどうかを決めるのは俺じゃない。粉川が残ると言う間は、描かない」
娘は籠を握る指に力を込めた。編まれた縁が、きし、と鳴る。見張りの兵の噛む音まで、そこで止まる。
「でも、あるんでしょう? 取っておくって、粉川さんから聞きました!」
「あるよ。でも、粉川の代わりに〈ずっといる〉とは、俺には言えない」
「わたし……今すぐ返事が欲しいんです……。明日の朝、いないかもって、毎朝考えてしまって……」
俺は籠の前にしゃがんだ。娘の腕は、まだ籠から離れない。俺が約束できることと、この子が欲しい約束は、こんなにも遠い。
「待つのが怖いなら、先に答えを取りに来るのも分かるよ」
「分かるなら、ずっと描かないって、言ってください!」
「粉川の返事を、俺の返事に替えたら困るだろ。本人の口から聞いてくれ」
「……待たないと、駄目なんですね」
「二番窯まで、と言われたんだね?」
娘はうなずき、籠を抱えたまま段に座り込む。俺はその隣に、粉川のための紙を残した。娘は紙を見ても、指を伸ばさない。
昼、宰相が兵を連れ、指輪だらけの指で像の前を示す。触れ役が板を掲げると、鍋を待つ人々も広場へ向いた。鍋の蓋の鳴る音が途切れ、板の上へ視線が集まる。
「十日後の朝、勇者は一人残らず北の砦へ出よ。おまけの所に並ぶ者も除かぬ、とのお達しであります」
ざわめきが、広場の端まで走る。宰相は板の横で、指輪を一つ回した。その小さな動きだけが、騒ぎの中でもゆっくりしている。
「手柄を立てた勇者には、王が望みの物を一つ取らす」
鍋の前で、茶色に染めた髪の宝来が顔を上げる。宰相の淡い金色の目は、段に座った娘へ移った。
「娘。異界の勇者は、魔王を倒せば国へ帰る。王の約だ。待つだけ無駄であろう」
娘の腕が籠の上で固まる。俺は段の上から、宰相を見下ろした。待っている人間の前で、待つ意味まで取り上げるのか。
「どの帰り道で、ですか?」
ヨルカは写しの束から、召喚の夜の記録を開く。紙の行を娘にも向け、はっきりと読み上げた。その声は、ざわめきの向こうまで届く。
「召喚の夜の記録には、帰還の陣は用意せず、と書いてあります」
「王の約を、おまけの紙で測るつもりか?」
宰相の声は低いままだ。俺は段に座る娘を、手のひらで示した。籠が膝の上で、わずかに傾いている。
「俺の陣は今朝、この人に描かないと約束しました。粉川が、自分で帰ると言うまでは」
娘が籠を抱え直す。板を見ていた群衆の男が、段と宰相を交互に指した。鍋の列でも、こっちを向く顔が増えていく。
「『待つだけ無駄』って、何が無駄なんだよ?」
「徴用の触れである。娘の待ち時間を決める場ではない」
俺は目にかかる前髪を払う。
「先に言われたのは、閣下ですよ。待つだけ無駄、と」
群衆の笑いが、鍋の列までぱっと広がる。宰相の指輪を回す指が止まった。俺はその目から、視線を外さない。
「十日後に北へ出よ。家庭を持とうと、兵は兵だからな!」
宰相は兵を連れて去っていく。徴用の板が下がっても、娘は段を下りなかった。
日が真上に来て、段の影が短くなる。粉川が二番窯のパンを提げ、段の下へ来た。湯気の残る袋から、甘い匂いが立つ。娘は籠を持ち上げ、その顔を見上げる。俺は声をかけず、段の脇へ体を寄せる。
「……焼けましたね」
粉川は爪の粉を払う。白い粉が、娘の籠の縁へ落ちた。粉川の目は、娘から離れない。
「北へは行く。……帰ってくるのは、ここだ」
娘が段を下り、パンの袋に空いた手を添える。袋の紙が、かさりと鳴った。俺が描くより先に、粉川の帰ってくる場所が、ここにできていく。
「焼いて待ってます。粉川さんの分も、二番窯で」
「焦がすなよ。俺の分まで、焦がすな」
宝来が鍋の蓋を鳴らす。かん、と明るい音が段に響いた。娘と粉川の手が、同じ袋にかかったまま止まる。
「ははっ、婚約じゃん。おめでとう!」
粉川が袋を持ち上げると、宝来は蓋を戻す。鍋の取っ手を握る右の人差し指と中指には、布が巻いてあった。笑い声のあとに残った間が、妙に長く感じられる。
「手柄立てたら、望みの物、だったよな。……魔石でもいいのかよ?」




