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25. 四人目の帰還

 六十五日目の朝まで、見張りの兵二人は何も言わず、帳面を付け続けた。


 あの命令から七日。俺が扉の内へ入るたび、筆だけがいつもどおり動く。紙を擦る小さな音が、扉を抜けても耳に残る。


 ネリカが煤けた袖口で壺を抱え、卓へ置いた。十日、擂り鉢の音が止まなかった卓だ。木目の溝にまで、黒い粉が入り込んでいる。


「十日、擦りました! 赤土の石、壺一つぶんです!」


 頬のインクの染みのあるヨルカが、壺より先にネリカの顔を見る。壺と鼻先を見比べて、口を開く。


「……ネリカさんの顔が、壺の中と同じ色です」


「えへへ! 鼻まで黒くなりました。墨は、底まで使ってください!」


 ヨルカが布を差し出す。ネリカは受け取るより先に、指で鼻をこする。


「顔の分まで、壺へ足さないでください。まず、拭いてください」


「足しませんよぉ、顔を擦ってたんじゃないんですから!」


 ネリカが壺の蓋を開けた。黒い墨は口のすぐ下まであり、灯を細く映している。


 俺は三谷へ〈今夜、姫崎〉と書いた。


 最初の鉛筆の頁を灯にかざし、羊皮紙へ同じ大きさで裏から写す。一つ目の壺から匙一杯を取り、線をなぞる。畳んだ手紙を載せ、息を細く吐いて、最後の一本をつないだ。


 光が閉じると、灰の上には向こうの紙だ。三谷の字で、〈待ってます。猪瀬くんと柿本くんも〉とある。


「待ってる。今夜は、あの三人が姫崎を待ってるよ」


「壺、間に合わせました! 月岡さま、今夜の灯もネリカが持ちます!」


 昼過ぎ、宝来と姫崎が段を上がってきた。鍋の揺れる音が、足音に混じる。


 茶色に染めた髪の宝来が鍋を提げ、金色に染めた巻き髪の姫崎は折った紙を胸元に持っている。


「三谷さんへの手紙。……自分で渡すから、書いてきた」


 姫崎は紙の端を、自分の指で押さえる。紙の端が、指の形に沿って少し曲がる。


「キヨから預かった物も、頼んでいいか? 手紙と一緒に、持っていってほしい」


 俺は桜の形の小さな徽章を出した。窓の光が、花びらの縁を細く照らす。


「これも、向こうに帰すんだ。……誰か、待ってるの?」


「持ち主は、こっちに名前を遺した。次に帰る奴に渡すって、俺が預かった物だよ」


「……持ってく。あたしの手紙と、一緒に入れとく」


 ヨルカが順番の紙を卓へ広げる。姫崎の指が、名前の所へまっすぐ来た。


「四番目、姫崎さん。書いてあります」


「朝、三谷に知らせた。今夜は猪瀬も柿本も、そこにいるってさ」


 姫崎が紙と徽章を重ねる。紙を押す金具の上に、指がそっとかぶさる。


「怖くないし。……全然」


「食えるか? 鍋、持って来たんだよ。帰る前に、一杯くらい食ってけよ」


 宝来が鍋を段へ置いた。姫崎の空いた手は、返事より先に耳たぶへ行く。


「た、食べられるわよ。当たり前じゃない!」


 俺は目にかかる前髪を上げた。耳の横の指が、さっきから同じ所をなぞっている。


「姫崎。……耳」


 指が耳たぶから離れる。宙で少し止まり、姫崎はその手を手紙の上へ戻した。


「そうよ……怖いよ。でも、行く」


「怖いまま、行くんだね」


「うん。三谷さんの前で、またごまかしたくない。……でも、会ったら、何て顔すりゃいいの?」


 姫崎の指が、折った紙を握る。軽い慰めの言葉が喉まで来て、そこで止まる。


「今の顔で。書いてきた物まで、作り直さなくていいよ」


「……月岡、向こうであたしが言うの、ちゃんと見ててよ。途中でやめないように」


「見える間は、見てる。行くのも、渡すのも、姫崎の手だ」


 宝来が鍋の蓋を開けた。芋の甘い匂いが広がり、俺の頬にも湯気が触れる。空いた椀へ、熱い芋を入れる。


「ほら、熱いうちに。言うことあるなら、先に腹へ入れとけよ!」


「芋、また大きいんだけど! あたしの口、そんなに大きくないからね!」


「昨日は、でかいほう取ってたじゃん。今日は小さいのにすりゃいいだろ!」


 姫崎が椀を受け取った。


       ◇


 夜には、閲覧室の床いっぱいに陣があった。灯の光が窓に映り、外の闇をさらに深くする。


 昼から百枚の大紙を一枚ずつ灯に透かし、列を逆に、同じ大きさで裏から写す。床へ描くのは四度目だ。身をかがめるたび、墨の匂いが鼻へ近づく。ネリカの壺の墨で、最後の一本の手前までなぞった。


 窓の外に人が集まる。声が重なり、窓の向こうがざわつく。姫崎は陣の真ん中に立ち、手紙と徽章を握る。


「ネリカ、灯を姫崎の足元へ」


「はい! 足の先まで、ちゃんと照らします!」


 シヅ婆さんが入口へ来て、欠伸まじりに三本きりの歯を見せた。箒の先が、戸口を軽く擦る。


「今夜は、聖女の番かい?」


 婆さんの欠伸が途中で止まる。目は姫崎の手にある小さな金具へ向く。


「……新太郎の、帽子の徽章だね」


 箒を握る手が震えた。床に触れた先が、かすかに鳴る。


 婆さんはそれ以上言わない。姫崎は手紙をほどかず、金具ごと手のひらに包む。


 宰相がクラスと兵を連れて入ってきた。靴音が室内に響き、窓の外の声が細くなる。


「魔王と通じたおまけの陣で、聖女を送ることは許さぬ」


 指輪だらけの指が、床を示す。俺は筆を持ったまま、扉へ目を向ける。筆先は、まだ床へ下ろさない。


「見張り、帳面を読め」


「この帳面の……あの夜の行でありますか?」


「そうだ。魔王の陣を約した行を読め」


 年かさの兵が、帳面を開いた。紙をめくる音が、やけにはっきり聞こえる。


「帳面には、〈角の男、本人が来いと言われて、手ぶらで帰る〉。……それだけであります」


「書き足せと命じたはずだ」


 もう一人の見張りが、帳面の同じ行を指す。指先は押さえた紙から離れない。


「嘘は、書けません。……閣下」


 宰相の指輪を回す指が止まった。


 連れてきた兵も、その指から帳面へ顔を向ける。クラスの先頭の男子が、姫崎へ場所を空けた。


「……下がれ」


 見張りの二人は帳面を閉じ、扉の外へ戻る。宝来が段へ置いた鍋から、二つの椀を差し出した。年かさの兵は、帳面を脇に挟んで両手で受ける。


「叱られる前に、食っておきます」


「冷める前に食えよ。塩なら、もう足してあるからな!」


 もう一人も椀を口へ運ぶ。窓の外の男が吹き出した。俺の肩からも、少し力が抜ける。


 姫崎の顔が、椀を配る宝来へ向く。


「煌真くん、向こうで待ってるから!」


「最後に行く。先に行って、三谷に渡せよ」


 姫崎から目を戻し、俺は最後の一本をつないだ。


 床の線が端から白く走り、光が閲覧室を満たす。窓の影まで薄くなり、光の向こうに、夜の教室が開く。机の間に黒縁の眼鏡の三谷、五分刈りの頭の猪瀬、柿本がいる。


 姫崎が三谷の前へ歩く。俺は筆を握ったまま、その背中から目を離さない。


 手紙を差し出し、深く頭を下げた。小さな金具も、差し出した手の中だ。


 光が閉じ、灰の上に灰色の石が一つ残る。


 ヨルカが刻印に灯を寄せた。窓の外から、四人目だ、と声が重なる。宰相は何も言わず、兵とクラスを連れて去る。


 陣の灰の前に、もう姫崎はいない。つい、空いた場所を見てしまう。宝来は鍋の蓋を閉め、順番の紙へ顔を向けた。


「……次は、五番目だな。鍋、もう一つ増やすか」


 人が散った後、段の下から粉川が上がってくる。静まった閲覧室へ、足音が近づく。


 粉で白い爪を払い、俺の前で足を止める。いつもの窯の話は、口から出ない。俺は順番の紙から顔を上げ、言葉を待つ。


「月岡。……親方の娘に、ずっとここにいてくれって言われた」

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