24. カヘリタシ
宝来の紙を開いたのは、その夜だ。折り目を伸ばす指に、乾いた紙がかさりと触れた。下に黒い角の印、上に片仮名が並んでいる。
「三日前の夜、頭巾の奴が扉に挟んでくとこに出くわしてさ。頭巾の端から、角が見えてたぞ。見張りの帳面にも残ってる」
扉の外の兵が、〈頭巾の男、扉に紙〉の行を示した。
俺は灯の下へ紙を広げる。墨が灯に透け、裏からも字の形が浮かぶ。見慣れた字を目で追った途端、胸の奥がきゅっと縮んだ。字は五つだ。
「『カヘリタシ』。……帰りたい、って書いてある」
ヨルカが頬のインクの染みのある顔を、紙へ寄せた。字を追う唇がかすかに動く。いつも知らない言葉を読んでくれる、その口から声が出てこない。
「わたしには、一字も読めません。……トーゴの国の字ですか?」
「そうだよ。この文字なら、俺も宝来も読める」
ヨルカは字の下へ指を置いた。指先が、紙の上で迷う。俺の読んだ音と字を結ぼうとするように、端から端へゆっくり動く。
「……これだけの行なのに、読めません。トーゴが読めない字を、いつもわたしが読んでいたのに」
「今日のは、俺が読む。読めないほうの紙を、隠さなくていいよ」
「……意味を、もう一度教えてください。帰りたい、なのですね?」
「そう。帰りたい、だよ。読む人が替わっても、この言葉は同じだ」
煤けた袖口のネリカが、鼻をこすってから黒い印の所へ身を乗り出した。紙の上で、俺たちの指の影が重なる。
「角の印は、魔王軍の旗の印です! 塔で、旗の絵を見ました!」
「魔王軍の文、ってことかよ。俺、字も読まずに取っといちまったんだけど」
「字の形が古い。〈エ〉でなく〈ヘ〉と書いてある」
俺は字の端を、鉛筆を持たない指で示した。知っている字なのに、ここで見ると妙に遠い。書いた手も、そのときの顔も、俺には見えない。
宝来が片仮名をたどった。紙の裏へ返しても、ほかの字はない。灯の明かりが、空いた裏側を照らす。
「月岡、これ、返事はどうすんだ?」
「言った本人に聞く。この紙の五つだけなら、読めるのは今の言葉までだ」
ヨルカは紙を畳み、卓の上に残す。ネリカの擂り鉢から、石を擦る音が続いていた。ざり、ざり。その合間にも、帰りたい、という響きが耳に残る。
五十七日目の夜、見張りの声に俺は顔を上げた。扉の隙間から入る冷気が、卓のそばまで流れてくる。
「頭巾の男が来ました。名は?」
「名乗らぬ」
兵の筆が、帳面へ進む。年かさの兵が、横からその行を見る。書き終えた筆先が、帳面の上で止まった。
「〈名乗らぬ男〉、であります。これなら、聞き違えてはおりません」
男はその帳面を見ず、輪の内へ入ってくる。靴音が石の床に短く響いた。
頭巾の端から、黒い角の先がのぞく。揺れる灯を受けて、濡れたように光る。紙の下の印と、同じ形だ。
扉の外で、もう一人の兵が〈角の男〉と行を足す。魔王軍の斥候だ、と小さな声がした。
「主の文を、読める者は居たか?」
「ご用件は、何でしょう?」
俺の前で、男が頭巾を深くかぶり直す。布の擦れる音がやむと、部屋が静かになった。
「我が主は、帰りたいと仰せだ。帰り道を描け」
「帰りたい人は、本人が来て、自分の口で言ってください。順番は、それからです」
「主は、王都へは来られぬ」
斥候の指が、頭巾の端を押さえる。その指は離れない。俺は声の続きを待った。
俺は順番の紙を動かさない。魔王の名も、そこへは足せない。帰りたい、という響きがまだ胸に引っかかっている。俺も知っている言葉だからこそ、紙の向こうの顔を勝手に決めたくなかった。
「なら、待ちます。俺はここで、本人の言葉を聞きます」
「主の言葉だ。我が口で足した物ではない」
「本人がここへ来たら、その口から聞く。先に帰り道だけを描く約束はしません」
斥候は俺の手と、畳んだ紙を見比べる。その間、灯が紙の折り目を細く照らした。
「主に伝える」
男は紙を求めず、手ぶらで扉を出る。見張りの筆がまた動く。俺は卓へ戻り、片仮名の紙をしまった。紙から指を離しても、読んだ言葉だけは胸に残る。
◇
翌日の昼、宰相が兵とクラスを連れて像の前に立った。広場に靴音が重なり、書庫の段まで迫ってくる。
指輪だらけの指が書庫を示した。俺とヨルカは、入口の段の上だ。昼の光はまぶしく、手に持つ紙の影が石の段へ濃く落ちる。
「おまけは魔王軍の文を受け取った。魔王軍を王都へ呼ぶ陣の約束の文だ。内通である」
兵が見張りの帳面を開き、〈角の男、書庫に入る〉の行だけを読む。段の上で、ヨルカがうなずいた。
「帳面のとおりです。〈角の男、書庫に入る〉と書いてあります」
「その陣の約束の文を、差し出せ」
「紙はここです。来た男も、受け取った紙も、隠していません」
兵が段を上がり、俺の手へ指を伸ばす。その指の影が、紙の折り目にかかる。
握った紙の手前で兵の指が止まると、俺は目にかかる前髪を払った。紙を握り潰しそうな指を、意識して緩める。
紙の表も裏も、クラスへ向けて掲げる。昼の光が紙を透かし、空いた裏側まで、顔を上げた男子たちに見えた。俺だけの言葉では、届かない。掲げた腕が重くなる。それでも下ろさず、皆の目を待つ。
「字は五つ。線は角の印だけで、陣の線は一本もありません。皆の国の字です」
「魔王軍の印があれば、魔王軍の文であろう」
「はい。その文の中にある、陣の約束はどこですか?」
クラスの中から、茶色に染めた髪の宝来が段を上がってきた。その足音が近づくほど、紙を持つ手から余計な力が抜けていく。
「カヘリタシ。……帰りたい、じゃん。約束なんて、一字も書いてねえ」
宝来が俺の紙を指す。俺は隣で、空いた裏もクラスへ向けた。声の届いた先で、男子たちが紙を見上げる。
「古文で出たやつじゃん。これ、帰りたいって読むんだよ」
「宝来、お前、古文は寝てただろ!」
クラスが吹き出す。張りつめていた広場に、笑い声が弾けた。宝来は紙を指したまま、声のしたほうへ顔を向ける。
「今は起きて読んでんだよ! お前も読めるだろ、この五つ!」
先頭の男子が口の中で、五つの字を繰り返す。隣の女子も、同じ五つを小さく繰り返した。笑いが薄れ、その唇が止まる。俺は紙を持つ指に、また力を込める。
「帰りたいって、俺たちと同じだろ。どこに呼ぶってあるんだよ!?」
広場の男たちが、表と裏を見るために首を伸ばす。帰りたい。その音が宝来の声になると、胸にまっすぐ入ってくる。俺は紙を掲げたまま、宰相へ向き直った。
「魔王が帰れば、戦は終わります。……閣下は、お困りですか?」
宰相の指輪を回す指が止まる。クラスの顔が、紙から宰相へ向いた。さっきの笑い声はもうない。
「……魔王の策だ」
宰相は問いに答えず、兵とクラスを下がらせる。靴音が段から遠ざかり、紙を見上げていた男子たちも人の流れに押し戻されていく。
宝来だけが段の上に残った。紙の裏には、最後まで一本の陣の線もない。掲げていた腕を下ろすと、肩の強張りがやっとほどける。
宰相の足が扉の脇で止まる。俺は扉の内側に立ち、次の声を聞いた。紙をしまいかけた手を止め、その場に留まる。
低い声の先に、見張りの兵二人がいる。広場の話し声に紛れて、俺にだけ届く。さっきまで皆に見せていた紙が、指の間でかさりと鳴った。
「見張り。今夜の帳面に、おまけが魔王に帰り道を約したと書き足しておけ」




