39. 百年ぶりの剣
三百六十四日目の夕方、書架の前の壁際に、十五の壺がそろった。
塔が擦り、侍従が王家の刻印で封じた蓋は、どれも閉じたままだ。窓から斜めに差す夕日が、封蝋の赤を一つずつ灯していく。
蔵と宝物庫の六つと、七番坑から月に一つずつ届いた九つ。十五人ぶんの墨が、ここに並んだ。足りなかったものが、今は手を伸ばせば届く場所にある。
俺は目にかかる前髪を払い、大紙百枚を番号順に棚から下ろす。百枚の紙は、腕の中でずっしり重い。端を折らないように抱え直すと、肘にぐっと力が入った。
「封も十五、壺も十五です! 蓋まで全部、ネリカが数えます!」
煤けた袖口を蓋から離し、ネリカが最後の封へ顔を寄せる。鼻をこすってから両手を背へ回し、触れずに封の縁を確かめている。
俺は床を掃き終え、一枚目の大紙を置く場所を空けた。掃ききれなかった埃が、夕日の中をゆっくり漂う。
茶色に染めた髪の宝来が鍋を運んできて、その後ろから、三本きりの歯を見せるシヅ婆さんが箒を担いで段を上がってきた。
「帰る前の晩くらいは、そりゃ見に来るさ。……壺が多すぎて、床が狭いね」
「線は、今夜のうちに引く。……最後の一本は、明日の朝につなぐ」
「シヅさま、ラムネの話は明日の朝にしてくださいね!」
「ちびのくせに、先回りするんじゃないよ」
「じゃあ、その前に食えよ。鍋まで床に写して、帰すなよな!」
宝来が鍋を段へ置く。湯気が夕方の冷えた空気にほどけ、俺は知らずに詰めていた息を吐いた。鍋を挟んだ軽口を、もう少し聞いていたい。
シヅ婆さんは箒の柄を膝に乗せ、壺を端から順に見ていた。欠伸は、まだ出ない。
◇
夜、封を切る前に、屋敷の者が四人、扉の前へ並んだ。
その後ろから、指輪だらけの指のヴァルトルムが閲覧室へ入ってくる。扉がきしみ、紙の乾いた匂いに冷たい風が混じる。三つ目の指輪の跡だけが、灯の下で白かった。
「国の石を、おまけの床に撒かせはせぬ。その壺は、宰相家の蔵より出た石だ」
屋敷の者が書架の前へ進み、壁際の壺へ手を伸ばす。さっきまで近くにあった鍋の匂いが、急に遠のいた。
壺は輪の外にあり、誰も抱えていない。輪は、あれを守らない。壺へ踏み出しかけた足を、俺は止める。
「石が出た蔵より、今の蓋をご覧ください。そこに印があります」
「その程度の封で、石を納めた家まで変わるまい」
俺は手前の壺の封蝋を一息に写し、解任状の日に写した三つ目の指輪の紋と並べた。
同じ紙の上で、王家の刻印と宰相の印は、一本も重ならない。指先で紙の端を押さえ、相手へ向けて差し出す。
「封の刻印を、写しました。……陛下の刻印です。指輪の紋ではありません」
「陛下の封を破れば、王家の物を盗むことになります。……王宮の決まりに、書いてあります」
頬のインクの染みを寄せ、ヨルカが決まりの写しを屋敷の者へ向ける。読み上げる声は、壺へ伸びた手の先まで、はっきり届いた。
「封を破らずに、壺ごと運べ。持ち出すことを禁じた字ではあるまい」
「運ぶ先は、陛下のお命じになった帰り道です。お屋敷へ戻す文は、どこにもありません」
ヨルカの声に、壺を抱えかけた者の腕が止まる。隣の者は封へ指を寄せかけ、触れる前に引っ込めた。
「明朝、十五人が使います。お戻しになるなら今、同じ所へお願いします」
四人は壺を壁際へ戻し、並びまで真っすぐにそろえて置く。さっきより整った一列を、ヴァルトルムが見下ろした。誰の手も、もう壺には添えられていない。
喉の奥で、くっ、と鳴る。
「……ならば、私が持ち帰るまでだ」
ヴァルトルムは書架の前へ進み、壺の胴へ両手をかけた。封を残したまま、一つが胸の高さへ持ち上がる。
輪の外だ。俺の手は、あの壺には届かない。浮いた壺の底と床の隙間を、目で追うしかなかった。
「その壺を抱えて坂を上れば、陛下の下げ渡しを抱えて帰ったことになりますよ」
「構わぬ。国が残れば、名など後から書き直せる」
「宝来。その剣、ちょいと貸しな」
シヅ婆さんの小さな手が、宝来へ向かって開く。俺は口を開きかけ、何も言わずに閉じた。
宝来は聖剣を外し、鞘ごと婆さんへ投げ渡す。
「重いねえ、今の剣は。若いのは、毎日こんなの下げてんのかい?」
「俺より先に抜くなよ! ……落とすなよ、婆さん!」
皺だらけの指が柄を握る。左手に鞘を残し、刃が灯の前へ滑り出た。光が細く伸びる。
「抜くのは、百年ぶりだよ」
刃は、壺の蓋の上で止まった。
ヴァルトルムの体にも、蓋にも、刃の先は触れていない。それなのに、閲覧室の空気は、その一点でぴんと張る。息を吸う音さえ大きい。俺は、刃と蓋のわずかな隙間から目を離せない。
「そのまま運ぶのかい? 蓋を傾けずに、歩いてみな」
「シヅ殿。国の石を守る者へ、勇者が剣を向けるか?」
婆さんの目が、刃の先からヴァルトルムへ上がった。
「あたしの帰り道を百年しまってた家が、今度は十五人ぶんかい?」
「……百年前の勇者が、今さら剣を抜くとはな」
婆さんは欠伸をしない。柄を握る手には、わずかな揺れもなかった。百年という言葉だけが、胸の奥へ遅れて沈んでくる。
「今、持ってかれようとしてんだよ。百年前の話をして、待ってやるもんか」
「……国の石を、一朝で使い切るつもりか?」
宝来が空いた両手を、ヴァルトルムの抱えた壺へ向けた。受け取る形に開いた指が、その場から動かない。
「帰る奴の顔なら、全部知ってる! 明日の朝、ここの床に立つんだよ。壺、置けよ!」
「床が気に入らなきゃ、あんたが外へ出な。壺は、ここだよ」
ヴァルトルムの腕が少し下がると、婆さんの刃も同じだけ下がる。壺の底が、こつり、と壁際の床へ戻った。
扉の向こうには、年かさの見張りが呼んだ王家の兵が並んでいる。開いた扉から入る夜気が、汗ばんだ俺の指を冷やす。
「ヴァルトルム殿。お屋敷まで、こちらの兵がお送りするであります」
屋敷の者四人は空の両手を見せて扉を出た。ヴァルトルムも兵に付き添われ、坂を上っていく。
「……今のことも、帳面にお書き留めいただけましたか?」
「閣下……いえ、ヴァルトルム殿のなさったことは、全部書いたであります!」
シヅ婆さんは刃を鞘へ戻す。かちり、と収まる音に、俺は肩の力を抜いた。宝来へ剣を返した婆さんが、やっと大きな欠伸をひとつする。
「……俺の剣、あんなに動かねえもんだったのかよ? 腕じゃなくて、刃の先だけ止まってたじゃん!」
「動かすより、止めるほうが用があったのさ。今は、鍋を下げとくれ」
「婆さん、明日の朝も来んのか?」
「来るさ。帰る奴の顔は、ちゃんと見とかないとね」
俺は封の写しをしまい、端の壺の封を切る。指先で封蝋が乾いた音を立て、黒い墨の匂いが夜の閲覧室へ広がった。
夜更け、大紙を一枚ずつ灯に透かす。俺は六度目に帰りの陣を裏から写し始めた。ヨルカが次の番号を読み、俺の筆先が床の続きをたどる。
段に座るシヅ婆さんは、最後の一本を残す場所を見ていた。紙をめくる音が途切れても、そこから目を動かさない。
「……で、あんたは。明日の朝、乗らないのかい?」




