22. ここに、帰り道は無い
娘の指す七番坑は、町外れの坂の上にあった。
坂の土は赤く、靴の裏に重く付く。板で塞いだ坑の口の脇に、小さな家がある。口の横には、腰ほどの石だ。石は東を向いていて、夕日は背中から差す。面だけが、ひんやりした影に沈んでいる。
額に巻いた手ぬぐいの娘が、石の端を指で弾いた。
こつ、と短い音がする。返事を待つように、娘の指は石のそばに残る。
「ひいじいちゃんの字。……この町じゃ、一人も読めないんだ」
石の上の段には、俺の知っている字がある。見慣れた字なのに、息が浅くなる。下の段は摩れて、溝の端しか見えない。
俺は目にかかる前髪を持ち上げ、上の段へ顔を寄せた。彫りの角は丸くなっている。それでも、筆の運びはそのまま残っていた。
「『此処ニ帰リ道ナシ』。……ここに、帰り道は無い」
「それで……。続き、まだあるだろ?」
次の行を指でたどる。〈母ノ名〉に触れた所で、声が喉に一度つかえた。
「『母ノ名ヲ、子ニ遺ス。草間新太郎』」
持ち上げた前髪を、そのまま離す。字が隠れても、読んでしまった言葉は消えてくれない。
百年前に、この石の前に立った男がいる。俺と同じ字を書き、同じように帰り道を探して、見つけられなかった男だ。指を離したのに、石の冷たさは腕に残っていた。
娘は俺の指の先を見つめている。石を弾く手は、さっきから止まっていた。
「あたし、キヨ。……ひいじいちゃんの、向こうのお母さんの名前なんだって」
「この字を、ずっと読んでほしかったんだね?」
「そうだよ! 名前だって言われたって、どこがあたしの名前か分かんないだろ!」
キヨが上の段へ指を伸ばす。俺は〈母ノ名〉の所へ、その指をそっと案内する。
「ここがお母さんの名、という字だ。子に遺す、って続いてる」
「キヨ、って字は……。あたしと同じ名前は、ないの?」
「この行にはない。でも、母さんの名を子に遺すって、本人が彫って残した」
「……そっか。あたしまで、その名が来たんだね」
キヨはゆっくり指を下ろす。握った手は、すぐには開かない。
夕方の風が、坑の口の板の隙間から冷たい息を吐く。煤けた袖口のネリカも、鼻をこすって石へ近づいてくる。
「百年前に呼ばれた七人の、一人だったんだね?」
「そうだよ! ここへ来て、裏の坑を掘ったんだって。ひいじいちゃんも、前髪が目にかかってたってさ」
「月岡さまと同じです! 前髪の兄ちゃん、ですね!」
ネリカが俺の顔を見上げる。キヨは歯を見せて、へへっと笑った。
俺は前髪に手をやる。帰れなかった所まで似てしまいそうで、指がふとためらった。
「似てるの、そこだけだろ?」
「そこ、毎回上げないと字が見えないだろ。ひいじいちゃんも、こうやってたんだよ」
頬のインクの染みのあるヨルカが、下の段をなぞる。
「こちらも字です。ですが……今は、溝が途中で見えなくなっています」
俺はヨルカの指の先を見た。途切れた溝の続きを、目だけで追う。
「上の段は、向こうへ届けたかった言葉だ。下も読もう。この家の横に、残してあるんだから」
下の段の溝には、上の段よりも深く砂が残っていた。日が落ちて、石の面は暗く沈んでいく。指を置いても、砂の冷たさしか分からない。
◇
翌朝、家を出ると、役人が手下を連れて坂を上がってきた。赤土を踏む靴音が、朝の静けさを破る。
キヨが戸口に立つ。坂の下からは、昨日の坑夫たちも上がってくる。その足音が、少しずつ増えていく。
「七番坑は、王家の坑でございますな。異界の者の末も、王都のおまけも、今日のうちに山を下りていただく」
「ひいじいちゃんは、王様にもらったって聞いた! ひいじいちゃんの坑だってば!」
役人が帳面の表紙を叩いた。乾いた音が、キヨの声の後へ割り込む。キヨの足は戸口から動かない。
「証がおありなら、出していただこう。読めぬ落書きの石は、証になりませんな」
「読めないのは、そっちだろ! あたしの名前を遺した人の石だよ!」
「帳面によれば、王家の坑でございます。戸を空けていただく」
手下が家の戸板に手をかけた。木の軋む音に、キヨの指がぴくりと動く。
年寄りの坑夫たちが、その前へ座り込む。
「昼飯の時間だ。ちょいと、そこ空けてくれ」
「まだ朝ですぞ! 坑夫ども、そこは家の戸口です!」
「飯を食う場所くらい、俺たちに選ばせろよ! 石を掘る場所は取り上げたんだからな!」
広げた弁当が、戸口の前に並ぶ。麦飯と漬物の匂いが、冷えた朝の空気へ広がる。手下は弁当を跨げず、戸板から手を外した。
誰かが、ゆっくり麦飯を口へ運ぶ。帳面を叩かれても、噛む速さは変わらない。
役人の太い指が、帳面を叩く速さを増す。俺は石の下の段へ目を向ける。
東の山の端から、低い朝の光が石へ斜めに差した。
昨日は暗く沈んでいた溝に、細い影がある。摩れた角も、影の縁ならたどれる。
「下の段も、字です。……朝の光なら、線が見えます」
「石に線を足す気ですかな? おまけの絵など、帳面の代わりにはなりませんぞ」
「足しません。今、見えている物だけを写します。ヨルカ、読んでくれ」
俺は紙束を石の横へ広げた。
光が上がる前に、影の端から鉛筆を走らせる。指の先が冷えて、鉛筆が少し重い。字の列の下には、彫りの深い印が残っている。
最後の線まで写し、ヨルカへ紙を渡した。
「王、七番坑を、新太郎とその子らに与う。……書いてあります」
ヨルカが紙を坑夫たちへ向ける。弁当の上から、年寄りの顔が上がった。箸の先が、そこで止まる。
「下の端の印は、広場の台座と同じ王家の刻印です。王都で毎日、見ています」
「この石なら毎日見てきた。紙の線は、石と同じだ!」
年寄りが石の端を押さえ、もう片方の手で紙を指す。俺も、石と紙に並ぶ線を目で確かめた。
「王様にもらったって、聞いたとおりだよ! 家まで空けろって、なんで言われなきゃいけないんだよ!?」
「キヨさんの家の坑です。王の名で、子らへ渡すと、はっきり残されています」
役人の指が止まる。手下が帳面へ目を向けても、表紙は開かない。聞こえるのは、麦飯を噛む音だけだ。役人は顎を振り、手下を戸口から下がらせた。
坑夫たちは弁当を広げたままだ。キヨの指が、俺の紙から石の上の段へ移る。
「ひいじいちゃん、帰りたかったんだね……」
キヨは〈母ノ名〉の溝に手を当てる。朝の光が、その手の甲を白く照らしていた。名前は石になくても、その手はそこから離れない。
役人の靴音が坂を下りる。坑の口の脇で、キヨの家の戸はそのまま閉まっている。
坂の途中で、役人が振り返った。
「宰相閣下へ、早馬を出しましたぞ。おまけが、王家の石を盗みに来たとな」




