20. 三人目の帰還
墨の出どころを言われてから十八日、塔からも城からも音沙汰がない。四十八日目の夜明けに、段を走る音が沈黙を破った。
まだ青い空気の中、夜の冷たさが残る坂を足音が駆け上がってくる。煤けた袖口の娘が、布に包んだ壺を胸に抱えている。見張りが、塔の見習いが走って来ました、と帳面を開く。
「三年ぶんの屑、全部擦りました! 壺一つです!」
「ネリカ、塔はどうなってる?」
「昨日、師匠に見つかりました。宰相閣下は、その足で魔石の蔵を閉じたんです」
ネリカは壺を抱えたまま、きっぱり首を横に振る。蓋の脇には、黒い指の跡が残っている。
「擦り終えた壺は、外套の下に隠していました! 見つかったのは、空の屑袋と黒い擂り鉢です!」
俺は布の隙間から蓋を確かめた。布はまだ、夜の冷たさを残している。
「壺を持って、そのまま出てきたのか?」
「はい! だから、今日からここに住みます!」
ヨルカが頬のインクの染みをこする。ネリカの視線は、もう閲覧室の空いた床へ向いている。
「閲覧の心得、その六。閲覧室に寝泊まりしないこと。……書いてあります」
「ええっ! 床なら、ネリカの分も空いてるのに!」
俺は屋根裏へ続く階段を指した。
「寝る所は上だよ。そこは、帰りの陣を描く床だ」
「では、上に住みます! 壺は、月岡さまに使ってほしいんです!」
ネリカがようやく布を開く。蓋のすぐ下まで満ちた黒い墨に、窓の青白い光が薄く映る。
俺は両手で受け取り、そっと卓へ置いた。ずしりと、手首まで重さが響く。三年ぶんの重さを、取り落としたくなかった。壺の口から、擦りたての墨の匂いが立つ。
「一月ぶん、受け取った。今夜、使う」
「手習いの屑だって、残しておけば誰かに使ってもらえるんですね!」
ネリカの袖の下には、黒い指が並ぶ。俺はその手から、壺の口へ目を移した。
「この壺は、ネリカが擦ったから使えるんだよ。俺の手だけじゃ、今夜の陣は描けない」
「はい! 今夜の灯は、ネリカが持ちます!」
ネリカが黒い指で鼻をこする。ヨルカの目が、その指を追う。
「ネリカさん、鼻が黒いです」
「えへへ。一月、ずっと黒いままでした!」
朝、三谷へ送る薄い紙に、今夜、柿本、と書く。宛先は、いつもと同じ三谷だ。
一つ目の壺から匙一杯を取り、羊皮紙へ裏から写した陣を慎重になぞった。
光の向こうは朝の教室だ。人の姿はなく、返った三谷の紙には、待ってます、と一行だけある。短い文字が、妙に頼もしい。
俺は残った壺を傾けた。内側を流れる墨は、半分に足りない。
◇
昼、指の絆創膏の手で布包みを提げ、柿本が段を上がってくる。後ろでは、宝来の提げた鍋から湯気が上がり、茶色に染めた髪をかすめていた。
鍋は、閲覧室へは入れない。俺とヨルカも入口の段へ出て、日の当たる石に腰を下ろす。背中はまだ冷えるのに、掌へ届く湯気は温かい。
「外なので、食べます」
「ネリカも、外なので食べます! 一月、塔の干し芋だけでした!」
「三番目は柿本だ。墨も届いた。今夜、帰れる」
「三番目、俺じゃなくていい。……夜に泣いてる奴が、まだいる」
柿本は段に椀を並べる。空いた椀を順に見てから、宝来の鍋へ手を伸ばす。帰る話をしていても、その手は飯の支度をやめない。
俺は鍋を置く宝来の右の手に、目を留めた。
「宝来。その指、柿本と同じとこだ」
人差し指と中指に布が巻いてある。あの日、柿本の指で見たのと同じ位置だ。
宝来は布を巻いた指を、さっと背へ回した。俺からは、もう見えない。
「……鍋は、俺が続ける。列を持たせんのは、先頭の仕事だろ」
「煌真、お前、持って来るだけじゃねえのか?」
「城で作って、運んできたんだよ。ほら、蓋、開けてみろよ」
「誰に習った?」
「お前の手だよ。台所の窓から、十日、見てたんだよ。……包丁は、二回滑った」
柿本が鍋の蓋を開ける。湯気と芋の匂いが、俺たちの間へ広がる。宝来の手は、まだ背に回したままだ。
柿本が椀へ少し取り、味を確かめた。俺まで、返事を待って息を詰めている。
「塩、足りてなかったぞ。昨日の」
「今日は足した! 味見もしたんだよ!」
「……芋も、昨日のより柔らかいな」
柿本が、もう一口取った。宝来の隠していた指が、椀を受ける側へ戻る。
「だったら、俺で続けられるだろ。お前が帰る夜にも、飯は出せる」
「夜の鍋も、明日の朝の鍋もか?」
「朝もだよ! お前が鍋を途中で置いたとこ、十日で一回も見てねえ」
「泣いてる奴は、呼んでも来ねえぞ。椀のまま、冷ますんだよ」
「じゃあ、椀を持ってく。俺もそこで食う。冷める前に、一緒に食わせる」
柿本は塩の袋を、宝来の鍋の横へ置いた。袋から指が離れるまで、俺は目をそらせない。
「……三番目、もらう。月岡、俺を帰してくれ」
「帰そう。粉川から預かった手紙も、頼める?」
粉川の母の名のある紙を、俺は渡す。柿本は椀を下ろし、両手で受けた。
「届ける。まず三谷に渡して、住所を確かめるよ」
閲覧室へ戻り、俺はネリカの壺の蓋を開ける。床へ広げる紙は、同じ百枚だ。
昼から一枚ずつ灯に透かし、列を逆に、同じ大きさで床へ裏から写す。三度目の線を、陣墨でなぞった。
ネリカが灯を持ち、俺の手の動きより先へ明かりを寄せる。紙から紙へ、灯が細い線を追っていく。
「ここ、次の紙へ続いています! 月岡さま、灯はこの高さでいいですか?」
「いいよ。最後の一本だけ、空けておく」
夜、窓の外へ人が集まり、低い話し声が重なった。入口には、三本きりの歯を見せたシヅ婆さんがいる。
宰相が兵とクラスを連れ、床を指輪だらけの指で示す。
「魔石の蔵は閉じた。見習いの屑で、おまけの陣が光るものか?」
クラスがざわめく。ネリカの灯は、揺れても筆先から離れない。
俺は目にかかる前髪を払った。
「光ります。ネリカの墨で、今夜の一人を帰します」
「ネリカが、全部擦りました! その壺、底まで使ってください!」
灯を持ったまま、ネリカが胸を張る。柿本は粉川の手紙を、懐の奥へ入れる。
窓の外には、粉で白い爪の手でパンの籠を抱えた粉川がいた。
宝来が鍋の取っ手を握り直す。
「行けよ、鍋は俺がやる」
「蓋は閉めとけよ。あと、冷めてから温め直すより、早く食わせろ」
宝来は鍋へ手を伸ばす。柿本は陣の真ん中で、懐の紙を指先で確かめる。
「月岡。……飯、ちゃんと食えよ。お前、写してる時は食わねえからな」
帰る間際まで、こっちの腹の心配か。返事が喉に引っかかる。
「食うよ。宝来の鍋の塩も、見張っとく」
「見張んな! 足したっつってんだろ!」
俺は最後の一本をつなぎ終えた。
床いっぱいに光が満ち、その向こうに夜の教室が開く。机の間には黒縁の眼鏡の三谷と、五分刈りの頭の猪瀬がいる。
柿本は光の向こうで、二人の前へ歩いた。懐の手紙を、三谷へ差し出す。
空いた手を丸め、二人に椀を差し出す仕草をする。猪瀬の両手が、空の椀を受ける形になった。見えない椀を、俺まで受け取りたくなる。
光が閉じる。灰の上に残るのは、灰色の石が一つだけだ。
ヨルカが刻印へ灯を寄せた。窓の外のクラスから、俺も並ぶ、と声が上がる。
同じ声が隣へ重なった。宰相の指は床を示したまま動かない。指輪の光だけが、そこに浮いて見える。
やがて宰相は手を下ろし、兵を連れて去った。空いた窓の前からも、並ぶという声はやまない。
ヨルカがネリカの壺をのぞく。傾けた壺の口からは、もう墨が落ちてこない。
「人を運べる墨は、もう、ありません」
空の壺の底に、灯だけが映った。一つ目の壺の、半分に足りない墨では人は運べない。手紙の匙なら、まだ取れる。
描く手はあるのに、描く墨がない。指先が、急に冷たくなった。窓の外の声に、今は返す言葉がない。シヅ婆さんが箒を抱え直し、大きく欠伸をする。
「墨が欲しけりゃ、南の山へ行きな。魔石なら、まだ埋まってるよ」




