19. 帰らない人の値段
帰りたくない奴の切符。用意していた答えが、喉の奥でつかえる。俺が返事をする前に、見張りが粉川へ手を上げた。
夕方の段には、まだ昼の温みが残っている。石から上がる熱をさらう風が、広場の向こうから焼けたパンの匂いを運んでくる。
「いつもの粉の兄ちゃんじゃねえか。見張りに立つ前から、毎朝あの窯のパンだぞ」
帳面を開いた兵が、パン屋の勇者と記す。粉川は段の下で、夕日の中へ指の爪に付いた粉を払う。
粉で白い爪へ目を留めた。服には、焼きたてのパンの匂いが染みついている。冷えかけた風の中で、その匂いだけが温かい。
「ああ、広場の向こうのパン屋だね。俺が、最初に書庫への道を聞いた店だ」
「窯、見えるか? ほら、あの煙の下だ」
粉川が振り返った。俺が通ってきた道の先に、開いたパン屋の戸と、低く流れる煙が見える。
差し出す両手の形を、粉川は少し緩める。固く揃えていた指の間へ、夕風が通る。
「初陣で負けた次の朝、剣は置いた。十日目から、夜明けに城を抜けてる」
「その窯を、手伝ってるのか?」
「二番窯まで。城の朝飯より、こっちの窯のほうが早えから」
粉川の手には剣がない。爪の間の粉は、払っても白く残る。俺はその手から、しばらく目を離せずにいた。
「俺の切符は、要らねえ。……ここで、パンを焼く」
帰りたくない、と言う客は初めてだ。十円玉を握った夜から、頭にあったのは全員を帰すことだけだ。その全員の中にいたはずのこいつが、もう別の朝を生きている。
俺は目にかかる前髪を払い、閲覧室へ入って椅子を引いた。床をこする音が、静かな部屋に残る。粉川は卓まで来ても、まだ座らない。
「月岡、お前、全員帰すって言ってたろ?」
「全員、帰れるようにはする。帰るのを決めるのは、粉川だ」
椅子の背へかけた手が離れた。粉川の目が俺と、卓の順番の紙を行き来する。
「俺だけ残ったら、全員じゃなくなるだろ」
「帰れることと、帰ることは違う。残ると言った奴まで、陣へ押し出したりしない」
粉川は空いた椅子に腰を下ろす。座面がきしみ、卓の紙がわずかに揺れた。
「……止めねえのかよ? 俺、勝手に決めてきたんだぞ」
「俺も、勝手に帰すとは決められない。粉川に聞くよ」
「けど、母さんは待ってんだよ。……帰るって、思ってる」
膝の上で粉を払う指が、もう一度動く。さっきよりゆっくりと、同じ爪をこすっている。俺は日本の字が書ける紙を、卓へ出した。
粉川がその紙を自分の側へ引く。端を押さえた指から、粉が白く移る。
「母さんに、手紙を一通。……元気でやってるって、それだけ」
「値段は、同じだ。あの日の謝罪」
粉川の爪の粉を払う手が止まる。召喚の間で大きく開いた口を、俺は覚えている。あの時、飲み込むしかなかった言葉が、今も喉に残る。
「手紙だけでも、払うんだな?」
「粉川の口から、聞きたい。帰るかどうかで、あの日の笑いは変わらない」
粉川は爪を見てから、顔を上げる。椅子から立たずに下げる頭が、卓の紙へ影を落とす。
「笑ったよ。でかい声で。……悪かった」
俺は鉛筆を粉川の前へ置く。こつ、と木の卓で乾いた音がする。粉川の指が、粉を落とした側でそれを持つ。
「受け取る。手紙は、次に帰る奴に持たせる。切符も、取っておく」
粉川が鉛筆を握り直した。帰る順の紙には、粉川の名をまだ入れていない。
「……あとで、帰るって言い直してもいいのか?」
「その時には、そう言ってくれ。切符を取っておくのは、そのためだよ」
「親方には、もう言ってある。二番窯を任せるって言われた。……一個、焼いてやろうか?」
「今度、買いに行くよ。王様の銀貨が、まだ二枚ある」
「おい、銀貨じゃ、釣りが出ねえよ」
粉川の口の端が、ふ、と動く。教室で、こいつの笑う顔を見た覚えはない。パンの匂いのする奴を、俺は今になって知った。
頬のインクの染みを指でこすり、ヨルカが順番の紙を開く。最後の宝来の名の下に、少し余白がある。
「帰らない人の切符は、どこに書きますか?」
一番下の空いた所を、俺は指で押さえた。
「そこに、取っておく、と書いてくれ。粉川は、順番の列には並ばない」
「名前の横に、その言葉を書きます。後で読む時にも、ちゃんと分かります」
ヨルカの筆が進む。紙をこする音のそばで、粉川が別の紙へ、母さん、と書く。鉛筆の先が、そこでいったん止まった。
書き終えた手紙を、粉川が俺へ渡す。封は折ったまま、俺は中を開かずに受け取った。
「次の奴に、住所も言っといてくれ。母さんの名前は、表にある」
「渡す。粉川が元気だって、書いた字ごと届ける」
窓の外は、もう暗い。パン屋の戸も閉じ、書庫の灯だけが卓を照らす。
扉が鳴り、宰相が兵二人を連れて入ってきた。扉の外の冷たい空気が、パンの匂いを押しのける。
「帰らぬなら、なおのこと国の兵だ。おまけの所で、兵を辞める知恵をつけられたか?」
粉川の腕へ兵が手を出す。輪の内の腕の手前で、その手が止まる。伸ばした指だけが、行き場を失っている。
粉川は椅子から立ち、俺の横へ来た。指輪だらけの指が、その顔を示す。
「城へ戻れ。剣を置けば、兵でなくなると思うな」
「恐れ入りますが、粉川の顔をここで見たのは、今日が初めてです」
俺は扉へ目を向けた。来る客の顔は、見張りと一緒に毎日見ている。
見張りの兵が、灯の下で帳面を持ち上げる。
「一人残らず書き留めております。閣下、どうぞこちらです」
帳面の開いた頁が、宰相の前へ出る。ヨルカが受け取り、灯へ寄せた。
見張りは胸を張り、もう一人の兵へ頷く。ヨルカが帳面をめくる。乾いた紙の音が二度鳴り、細い指が行をたどる。
「パン屋の勇者さまは、今日の夕方の一行だけです。……書いてあります」
もう一人の見張りが、身を乗り出して横から口を出した。
「この兄ちゃんのパンは、見張りに立つ前から毎朝買っております!」
宰相は帳面へ手を伸ばす。ヨルカが見開きを向けると、指輪の指が紙の手前で浮く。
帳面には今日の粉川まで、客の名が並んでいた。
帳面を差し出した見張りが、胸を張ったまま宰相を見る。
「パン屋の勇者は、その前の頁には一行もありません! 出入りは、すべてこの帳面であります!」
見張りの筆は、今日の一行を指していた。粉川が窯へ行き始めたのは、それより二十日前だ。
粉川は爪の粉を払う。帳面ではなく、宰相へ顔を向ける。
「俺が決めた。吹き込まれてなんか、ねえ。……パン屋の朝は、俺が焼く」
宰相の指輪を回す指が止まる。兵の手が粉川の腕の手前から引き、扉へ下がる。誰も粉川に、もう手を伸ばさない。
「ふんっ! 好きに焼け」
宰相は兵を下がらせた。粉川は頭を下げず、俺の卓へ置いた手紙を見る。折った紙の端が、灯の下で白く見える。
扉の前で、宰相が振り返る。今度は粉川でなく、俺の手へ目が向く。俺は手紙に添えかけていた手を、止めた。
「異界の少年。そなたの墨の出どころは、塔の見習いであろう」




