18. 書いてないことも
取り潰しの願いを聞いてから九日。三十日目の朝になっても、王の返事は来ない。戸口を通る足音のたびに顔を上げるのにも、もう慣れかけている。
ヨルカが革の表紙の帳面を抱え、屋根裏から下りてきた。
頬のインクの染みの下で、唇を結んでいる。卓へ置こうとしただけで、表紙の角がほろりと粉になる。古い革に、地下の水の匂いが残っている。湿った冷たさまで、掌へ移りそうだ。
「祖父の日誌です。……ずっと、開けられませんでした」
「その角、触らなくても崩れるのか?」
ヨルカは帳面の下へ白い紙を敷く。こぼれた粉を囲うように、紙の端をそっと広げた。
「地下に水が入った年からです。めくるだけで崩れます」
「三年、開けなかったんだね。今日、読むと決めた?」
表紙を押さえる細い指が、俺へ向く。俺は伸ばしかけた手を、膝へ戻す。開く所は、ヨルカの手で選ぶ。
「……はい。願い出の返事を待って、このままにしておくのは嫌です」
俺は目にかかる前髪を上げ、鉛筆を取った。指に馴染む重さを確かめて、紙を手元へ寄せる。
「めくってくれ。崩れる前に写す」
「最後まで……残せますか?」
「見える頁は残す。だから、一頁ずつ頼む」
ヨルカが最初の頁を持ち上げる。乾いたかすかな音に、息を止めた。文字のある面が見える間に、俺の手が紙を走る。
写しの最後の線を引くと、元の頁は粉になった。指の間から、白い粉がさらさらとこぼれる。ヨルカの肩が、小さく跳ねる。俺は鉛筆を置かず、写した文字を指し示す。
「今、読めるか?」
「読めます。端の字まで、ちゃんとあります!」
写しを日誌の隣へ置いた。ヨルカの指は新しい紙へ移り、文字の端をなぞってから次の頁をめくる。
俺は目に入る文字を、読めないまま一息で写す。鉛筆の擦れる音だけが、頁の崩れる音を追い越していく。
「次です。……『今日もヨルカが客に心得を全部読んだ。客が帰った』」
「ははっ。お祖父さんも、最後まで聞かされたのか?」
ヨルカが写しで口元を隠した。紙越しに俺の顔をうかがう。赤くなる頬の上で、インクの染みだけは同じ色だ。
「笑わないでください! 客が帰るのは、閉館だからです!」
「心得を全部聞いて、閉館になるまで?」
写しの陰から、深い緑の目が俺を見た。俺は鉛筆を持った手を、軽く上げる。
「必要なことは、全部読みます。祖父も、扉から外してはいません」
「分かった。続きも聞くよ。俺は笑ったままでも写せる」
頁がめくれる。鉛筆の先には、かすれた字の最後の点まである。書き終えるたび、ヨルカの指が写しの上でその点を確かめる。
昼前、ヨルカが地下の写本に触れる頁を引き寄せた。
「地下の写本を写したのは、祖父の祖父です。百年前の、写字生でした。書いてあります」
「百年前の書庫番は、祖父の三代前だったな」
ヨルカは隣へ、綴じ目録の写しも並べる。二枚の紙を順に指でたどった。日誌だけを見ていた俺の目も、その指を追う。
「その子です。書庫の本を写す仕事をしていました」
「地下の箱を見つけた、記録の端の一行もこの字だね?」
ヨルカが灯を記録へ近づけた。揺れる明かりが、並んだ文字の端まで照らす。
「あの一行は、祖父の字です。わたしがここを継ぐ前の字です」
「なら、箱も壺も、読めるように残してたんだ」
日誌には壺の置き場がある。ヨルカはその先の行を、指で隠さず読み上げる。壺の数を告げる声が、少しだけゆっくりになる。
「壺三つは、写せる人が来る日のために。……祖父は、待っていました」
「俺が来る前から、帰り道を描く人を待ってたんだね」
会ったこともない人が、俺の来る日を待っていてくれた気がする。百年と、そのあとの三年ぶん。粉の散った紙に、俺の手の影が重なる。胸の奥がじわりと熱く、次の息が喉に引っかかる。
ヨルカの指が、紙の壺三つの行で止まった。その隣に、俺の鉛筆を置く。粉を払う手は、どちらからも出ない。
最後の頁も写し終えると、ヨルカはそれだけを畳んだ。折り目をつける指の動きは、さっきよりずっと慎重だ。
「最後の頁は、読まないのか?」
「……あとで、読みます。今は、この写しを持っていきます」
日誌の表紙の間に、もうめくれる紙はない。卓に残る革の匂いを、俺は立ち上がる前にもう一度吸った。畳んだ一枚は、ヨルカの袖の内側だ。
◇
昼、広場の像の前に人が集まった。真上からの日が石畳を白く照らし、触れ役の板の墨だけが黒い。熱を含んだ風が、入口の段まで吹き上がる。
宰相の指輪だらけの指が、その板を示す。きらりと光が跳ねるたび、墨の文字が目に刺さる。
俺とヨルカは入口の段に並んで立った。板を抱えた兵が、書庫へ向いて声を上げる。広場に響く声が、俺たちのすぐ背後の扉にまでぶつかる。
「王立書庫は百年、一人も帰さず、おまけを匿う。宰相閣下は、取り潰しを王に願い出られた」
「一人もじゃねえだろ! 二人、帰ったじゃねえか!」
窓から帰還を見ていた男が、像の前へ進み出る。周りの人も、兵の板に目を向けた。日よけに上げていた手が下がり、ざわめきが細くなる。
「読めと言われたので、読んでいるだけであります!」
「だったら、見たことも読めよ! 窓の光の中に、向こうの部屋があったぞ!」
触れ役は板の陰へ顔を隠す。掲げていた板が、わずかに傾いた。宰相の指が、回していた指輪から離れる。
「二人か。三十人のうちの、二人だ」
ヨルカは袖から最後の頁を出した。風にさらわれないよう、俺は隣で紙の下を支え、声を出さない。
「『ヨルカへ。書いてないことも、自分の目で信じなさい』……祖父の、最後の頁です」
読む声が途中で止まった。ヨルカの指が、写しの端を握りしめる。袖の長すぎる上着の中で、細い肩が震えている。紙の擦れる音ばかりが、すぐ耳のそばで大きく聞こえる。
俺は頁を引き取らず、ヨルカの手が動くのを待つ。何か言おうとした唇を、そっと閉じた。続きは、俺の声で埋めたくない。
ヨルカは写しを胸へ当てた。畳んでいた紙の折り目が、上着にぴたりと重なる。
「書いてありません。……でも、わたしは見ました。この書庫から、二人が帰るのを。三人目も、帰します」
「そうだよ! また窓を開けてくれ! 次も見に来るからな!」
広場の声が重なる。触れ役の板が下がり、その前で何人もが書庫へ手を上げた。さっきまで俺たちを指していた墨の文字が、人の腕の向こうに隠れていく。
宰相の指輪を回す指は、また途中で止まった。
「……決めるのは、王だ」
兵を連れて去る宰相へ、誰も頷かない。ヨルカは写しを畳み直し、袖へしまう。兵の足音だけが石畳を叩き、像の向こうへ遠ざかる。
夕方、人が散るまで、俺たちは段に座っていた。石には昼の熱が残り、伸びた影の中を通る風だけが涼しい。
「トーゴ。最後の頁を、もう一度綴じてください」
「全部と一緒に。今なら、何度でも開ける」
「……祖父に、読み聞かせました。書いてないことまで、言ってしまいましたけど」
「聞こえてたよ。広場の全員にも、ちゃんと届いてた」
ヨルカが鍵を持ち直す。かちゃり、と小さな音がした。段の下には、大柄な男子が立っている。
粉川だ。二年三組で机に伏せていた顔が、俺へ上がった。名前を呼ぼうとして、俺は口を閉じる。
寝癖のついた短い髪と、粉で白い爪。爪の間の粉を払おうとする手が、そこで止まる。払われずに残った白さが、夕日の中で薄く光る。
「月岡。……帰りたくない奴の切符って、あるか?」




