17. 最後でいい
聖剣の話を聞いてから、城からは何も来ない。扉の外で足音がするたび、俺は顔を上げる。三日後、二十一日目の昼に宝来が一人で現れた。
茶色に染めた髪の下で、目が書庫の奥を探す。腰にはまだ聖剣があった。宝来が足を止めると、鞘の揺れも収まる。
昼の日が段に落ち、温まった石の上で鞘の影が細く伸びる。猪瀬を送った夜より、宝来の頬はこけて見える。
見張りの兵が勇者の来訪を書き留める。その筆先が止まるころ、宝来は段の上まで来た。
「三番目は、いつだ?」
「墨が足りない。今あるのは、壺の半分だ」
言いながら、喉の奥が少し苦い。三番目と言ったのは、俺だった。帰る日を聞きに来た相手に、足りない墨の話しか渡せない。
頬のインクの染みをこすり、ヨルカが写本を開いた。頁から古い紙の匂いが立つ。指の止まった行へ、宝来も顔を寄せる。
「人ひとりに壺一つ。書いてあります」
「半分なら、俺の上半分だけ帰んのか?」
ヨルカの目が写本の次の行へ動いた。指先まで、きちんと続きを追っている。
「上半分の帰り方は、写本にありません」
「探すなよ! そこは、ないって言ってくれよ!」
「ありません。下半分も残しません」
「残せよ! ……いや、残すなよ。どっちも困るだろ!」
自分で言って、宝来が自分で口を曲げた。聞き慣れたはずの軽口に、俺の詰めていた息が抜ける。こいつのそんな声を聞くのは、久しぶりだ。
俺は壺の蓋を戻す。蓋の当たる音が、妙にはっきり響く。宝来の手は、自分の腹を押さえたままだ。
「一月待てば、壺一つぶんが届く。今は、その約束を待ってる」
「一月か。三番目の札があっても、それまでは動かねえんだな」
「猪瀬の時は、三つ目の壺があった。……今は、それが無い」
「謝んなよ。お前が壺を割ったわけじゃねえだろ」
宝来は柄へ手を置いた。今の壺では、ここへ立っても向こうへ行けない。俺の目は、閉じた蓋へ戻ってしまう。
「帰れる日が決まったら、俺から必ず伝えるよ」
「誰かに先を買われるって話じゃ、ねえんだな?」
俺は順番の紙を宝来へ向けた。三番目の名前は、宝来のままだ。端を持つ指に、余計な力が入る。
「値段はもう受け取ってる。せめて、待たせる理由は隠したくなかったんだ」
「……分かった。今は、待つ」
宝来の靴は、段から動かない。視線もまだ、書庫の奥へ向いている。広場の向こうで人の波が割れ、兵の通る道ができる。
宰相が兵二人を連れ、指輪だらけの指で宝来を示した。指輪に跳ね返った日の光が、俺の目にも入る。
「勇者よ、聖剣を返せ。おまけの所に並ぶ者に、国の剣は預けておけぬ」
宝来が柄を握った。宰相の兵は段を上がり、輪をまたぐ。靴底の音が、石の上で強く鳴る。
聖剣へ伸びた手が、鞘の手前で止まった。あと少しの隙間を残し、指先だけがむなしく曲がる。
「閣下、勇者殿の剣にも届きません!」
宝来は柄を持ったまま、兵の顔を見る。握り続ける剣と、その剣へ届かない手が、広場から丸見えだ。
宰相の指輪を回す指が止まった。段の下で、誰かが短く息を漏らす。
「剣をこちらへ差し出せ。手を離せば済むだけのことであろう」
「……離してねえだろ。見りゃ、分かるじゃん」
「怯える勇者の剣など、飾りであろう」
像の前の人々がこちらを向く。怯える、という一言が、段の上の宝来の背中へぶつけられる。あの日の俺に向いた笑いと、同じ形だ。石の照り返しは温かいのに、背中の内側が冷える。
宝来の指を、俺はもう一度見る。柄に触れる指の節まで、目でたどる。
城から歩いてきたあの日は、柄へ置いた指が震えていた。今、目の前の指は、そこから動かない。
「写します。今の宝来を」
「好きにしろ。手は……このままでいいんだろ?」
俺は目にかかる前髪を払う。絵の紙は卓にあり、宝来の剣も手も見える。紙へ顔を近づけると、自分の息が頬へ戻る。
鉛筆を取ると、柄を握る指から一息で線が伸びた。紙をこする音だけが、広場のざわめきの間を細く縫う。
「その手でいい。剣を掲げなくても、今は全部見えてる」
「描き直すなよ。俺、見せるために持ってるんじゃねえ」
指の節、親指の腹、柄へ食い込む位置。何も足さず、見えた形のまま紙に残した。
ヨルカが俺の紙の端を押さえる。風に浮きかけた角が、その指の下で静かになる。
「トーゴ、こちらへ向ければ、段の下からもよく見えます」
「そうだね。本人の手と並べて、見てほしい」
俺は紙を広場へ向けた。ヨルカの顔が、絵と宝来の手を行き来する。紙の向こうのざわめきが、少しずつ小さくなる。
「柄を握る指が、震えていません」
群衆の前の男が、隣の肩を叩いた。その肩に手を置いたまま、段の上へ身を乗り出す。
「本当だ。指が動かねえ。兵の手より、よっぽどしっかり持ってるぞ」
肩を叩かれた男が、宝来の手へ顎を上げる。その視線の先で、宝来の指は変わらず柄を握っていた。
「剣を離さねえってことじゃねえか。飾りなら、とっくに渡してるだろ」
宝来の手の下で、兵の指だけが空をつかむ。宰相は紙を見てから宝来へ目を戻す。兵の伸ばした腕だけが、宙に取り残される。
宝来の喉が一度動いた。柄を握る手の甲に、白く筋が浮いている。言葉が出るまでの間、俺も紙を動かせない。
宝来は絵を受け取らず、柄へ親指をぐっと押し直した。
「剣は返さねえ。……順番は待つ。俺は、最後でいい」
「最後でいいのか? 三番目は、宝来が自分で払った順だよ」
柄を握ったまま、宝来が顎で紙の三番目を指す。声は低い。そこにある自分の名前から、目を外さない。
「三番目は、柿本に回せ」
俺は順番の紙を手元へ戻した。指に触れる端は薄いのに、すぐには持ち直せない。
「柿本は、また後でいいって言うだろうな」
「言うだろ。あいつ、泣いてる奴の飯ばっか作ってんじゃん」
「宝来も帰りたいから、ここへ来たんだろ?」
宝来は紙の端を見下ろす。先に帰った二人の名の下に、まだ自分の名があった。俺の問いのあとも、視線はそこに残っている。
その上へ、剣を握った手の影が落ちる。名前が影に沈んでも、墨の線ははっきり見える。
「帰りてえよ! ……だから、俺も待つんだよ。柿本だけ待たせて、どうすんだ?」
「最後なら、後ろにいたみんなの顔を見ることになる」
「見る。顔も、順番も。もう、前だけ見て止まんねえ」
「勇者さまのお名前を、末尾へ書き直します。……線を引いても、いいですか?」
「引けよ。……消すなよ、引くだけだぞ」
俺は三番目の横に柿本と書いた。宝来の名前には、文字が読めるように線を引く。姫崎は四番目になり、宝来の名前は末尾へ移る。
「分かった。三番目は柿本だ。あとで、俺から伝える」
「勝手にせよ」
宰相が兵へ顎を振る。鞘へ出していた手が引き、兵の靴が段を下りる。石を踏む音ばかりが、さっきより大きい。
ヨルカは剣を握る絵と順番の紙を並べた。風が端をめくろうとすると、また指で押さえる。
「この絵は、どうしますか?」
「置いとけよ。手が戻りそうになったら、見に来る」
俺は絵を持ち直す。紙の上にも、宝来の指にも震えはない。隅を押さえる俺の指からも、ようやく力が抜ける。
宰相はいったん段を下りた。広場の灯がともり始めたころ、また像の前に姿が見える。立ち去るかと思ったところで、こちらへ振り返る。
淡い金色の目が、書庫の鍵を持つヨルカへ向く。ヨルカの指が、鍵を包むように閉じる。
「書庫番。この書庫の取り潰しを、王に願い出た」




