16. 写しは、教えられない
十八日目の朝、昨夜の娘はまだ扉の脇にいた。壁にもたれ、紙の束を抱いたまま眠っている。
石段は夜露で湿り、朝日はまだ広場の半分にしか届いていなかった。外套の裾が、冷えた段に貼りついている。立ち止まると、靴底から冷たさが上がってくる。
ヨルカが頬のインクの染みをこすり、娘の肩を揺する。見張りの兵は、塔の見習いが一晩いた、と記した帳面を示した。
「起きてください。もう開館時間ですよ」
「は、はい……。ネリカ、手の続きを描かなきゃ……」
煤けた袖口で目をこすり、娘が束を俺へ押し出す。耳の下で切りそろえた亜麻色の髪に、紙屑が付いていた。受け取ると、紙の端までひやりと冷たい。
ヨルカは受け取った紙を端から数えていく。紙の擦れる音が、扉の前に細く続く。
「トーゴの手が、四十二枚です」
「顔は……? こんなに手ばかり?」
「顔は要りません! 指の動きを覚えたいんです!」
「一晩、ここで描いてたのか?」
「はい! 扉の隙間から、夜明けまで描きました。寒いのは、平気です!」
握る手、筆を浮かせる手、灯に紙をかざす手。どの絵にも、昨夜の俺の指があった。紙の端を押さえる癖まで、見逃されていない。
教室で、俺の手をこんなに見ていた奴はいない。胸の奥がくすぐったくて、束の端をそろえるだけの指がもたついた。
「ネリカは、塔の見習いです。……写しを、教えてください!」
娘の首の木札を、ヨルカが持ち上げる。木札が紙の束に当たり、こつりと鳴る。
「魔術師の塔の見習い。木札にも、そのとおり書いてあります」
「月岡さまが紙を持つ時、左の親指だけ動かないんです! そこも覚えました!」
「そこは、紙を落とさないためだよ。絵を描く時にも押さえるだろ?」
「はい! では、次は陣ですね!」
差し出す指に迷いがない。俺は四十二枚の束へ、もう一度目を落とした。
娘の指が俺の手と同じ形になる。断れば、その指まで下がる気がする。頼まれると断れない癖は、まだ抜けていない。
俺は閲覧室の卓へ、最初の夜の鉛筆の頁を、折り目を伸ばしながら広げた。
「なら……やってみようか? まず、この頁を裏から透かして、なぞってくれ」
「墨も持ってきました! 師匠の壺から取った物ではありません!」
ネリカは外套から小瓶を取り出す。底の黒い墨が、瓶を傾けた側へゆっくり流れた。栓の隙間から漏れる鉄に似た匂いが、古い紙の匂いへ混じる。
「三年、魔石の屑を集めて、自分で擦りました!」
ネリカは小瓶の栓を抜く。短く息を吸い、筆を握った。
「塔の見習いには、砕いた屑が毎月もらえるんです! 袋に溜めれば、ちゃんと墨になります!」
「その小瓶は、集めた物の一部なんだね?」
「はい! 全部なら壺まで擦れます。まだ、袋に残っています!」
俺の頁を灯にかざし、裏から羊皮紙へ線をなぞる。ネリカの指は、絵にあった角度を確かめるように、ゆっくり俺の手を真似ていく。
ヨルカが二枚の角を、ずれないようそろえた。
「線は、同じに見えます。小石を載せてください」
「はい! 最後の一本、つなぎます!」
筆が下りる。小石も黒い線も、羊皮紙の上から動かない。俺は息を止め、線のつなぎ目を見つめる。
ネリカが筆を浮かせる。紙と灯を見比べ、もう一度、筆先を確かめた。
「……光り、ません」
羊皮紙の上は、しんと静かなままだ。筆先から、黒い滴が一つ落ちる。ぽつりと増えた黒い点に、目が吸い寄せられる。
「待ってくれ。俺も同じ頁から描く」
「持ち方が違ったんでしょうか? 月岡さま、もう一度、手を見せてください!」
俺は隣へ新しい羊皮紙を置いた。朝に書いた三谷への手紙には、猪瀬は着いたか、とだけある。
鉛筆の頁を裏から同じ大きさで写し、一つ目の壺から匙一杯の陣墨を取った。
「同じ持ち方だよ。ヨルカ、灯をそのまま」
「ネリカさんの線も、横に置いておきます」
畳んだ手紙を載せ、最後の一本をつなぐ。光の向こうに、朝の教室が見えた。人の影はない。窓から差す朝日が、並んだ机の天板を白く光らせている。
光が閉じると、灰の上にノートの頁が残る。俺は灰を払うように、そっと紙を持ち上げる。
「返ってきました! これは、向こうの紙ですか?」
「三谷の字だ。読むよ」
開いた頁には、昨夜置き直した、とある。猪瀬が着いたあとの手紙だ。薄い紙を持つ指に、ようやく力が入る。
「『猪瀬くんは、大福と寝てます。お母さんに、すごく怒られてた』」
扉の外で見張りの兵が吹き出す。ヨルカまで口の端を動かすので、俺は紙を少し下げる。
「犬には会えても、お母さんからは逃げられなかったんだね」
「大福さんは、ちゃんと待っていました。三谷さんの手紙のとおりです」
「月岡さま……どうして、そちらだけ光るんですか?」
ネリカの小石はそのまま、墨も黒い線のままだ。隣には、俺の紙の灰が残っていた。
目にかかる前髪を、俺は払えない。さっきまで見られていた手を、卓の端にそっと置く。頼まれて、できると言えないのは初めてだ。断るのとは違う。本当に、分からない。
四十二枚の手の絵は、すぐ目の前にある。その前で、俺の声だけが小さくなった。
「教えられない。……俺にも、光る理由が分からないんだ」
「こんなに見て覚えても、駄目なんですね……」
「ネリカの線は、全部合ってた。絵なら、俺より上手いよ」
「合ってても、光らないんですね。……そっちのほうが、悔しいです!」
俺はうなずく。言葉を足せば、この線のどこかが悪かったように聞こえそうだ。ネリカは筆を置き、光らない紙を、皺をつけないよう両手で持ち上げた。
◇
昼前、入口へ卓を寄せると、見張りが塔の魔術師の来訪を帳面に記している。宮廷魔術師が兵二人を連れて段を上がった。
「宰相閣下の命である。塔の者が、おまけの〈写し〉を習うことを禁ず。戻らねば、破門だ」
長い袖を払い、魔術師がネリカの紙へ手を出す。紙を抱えた腕の手前で、その指がぴたりと止まる。
袖だけが振れ、小瓶の口をかすめる。かつん、と乾いた音がして、袖の先が黒く染まった。
「師匠、袖が……!」
「その紙を渡せ。塔で習うべき手は、私の手である」
ネリカは束を胸へ抱え直す。動かない師匠の手の下で、黒い袖だけが揺れていた。
判定の日の声が、耳の奥でよみがえる。俺をおまけにしたのは、この声だった。
「あの日は、〈写すだけ〉とおっしゃいましたね」
魔術師の視線が俺へ移る。俺は卓に添えた手を動かさず、その目を受け止める。
「塔は百年、陣を写しておる。おまけの手など、要らぬ」
ネリカが束を抱いたまま、一歩前へ出る。
「百年、一度も光っていません。……ネリカの線も、今朝、光りませんでした」
連れてきた兵二人が顔を見合わせる。扉の見張りも筆を止め、魔術師の黒い袖へ目をやった。
「弟子が師の言葉を遮るでない!」
「でも! ネリカの紙は、ここにあります!」
ネリカが羊皮紙を示す。なぞった線を隠さないよう、端をつまんでいる。師匠の指は、その紙にも届かない。
「三日のうちに戻らねば破門だ。塔へ戻るぞ」
魔術師は手を引き、兵と段を下り始めた。ネリカは束を卓へ置くと、離れかけた足を止めて俺のそばへ戻る。
石段を下りていく足音に隠すように、娘の声が低くなった。
「写しは、習えません。……でも、墨なら擦れます」
「頼む。俺が描く線には、その墨が要る」
「一月、ください。……溜めた屑を、全部擦ってきます」
ネリカが鼻を袖でこする。黒くなった鼻を指すと、娘は別の袖を持ち上げる。そこは、まだ墨に染まっていない。
「えへへ!」
段を下りかけた娘が、卓に残した束を見てから、俺だけへ振り返った。
「それと……宰相閣下が、勇者さまの聖剣を取り上げるそうです」




