↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
16/22

16. 写しは、教えられない

 十八日目の朝、昨夜の娘はまだ扉の脇にいた。壁にもたれ、紙の束を抱いたまま眠っている。


 石段は夜露で湿り、朝日はまだ広場の半分にしか届いていなかった。外套の裾が、冷えた段に貼りついている。立ち止まると、靴底から冷たさが上がってくる。


 ヨルカが頬のインクの染みをこすり、娘の肩を揺する。見張りの兵は、塔の見習いが一晩いた、と記した帳面を示した。


「起きてください。もう開館時間ですよ」


「は、はい……。ネリカ、手の続きを描かなきゃ……」


 煤けた袖口で目をこすり、娘が束を俺へ押し出す。耳の下で切りそろえた亜麻色の髪に、紙屑が付いていた。受け取ると、紙の端までひやりと冷たい。


 ヨルカは受け取った紙を端から数えていく。紙の擦れる音が、扉の前に細く続く。


「トーゴの手が、四十二枚です」


「顔は……? こんなに手ばかり?」


「顔は要りません! 指の動きを覚えたいんです!」


「一晩、ここで描いてたのか?」


「はい! 扉の隙間から、夜明けまで描きました。寒いのは、平気です!」


 握る手、筆を浮かせる手、灯に紙をかざす手。どの絵にも、昨夜の俺の指があった。紙の端を押さえる癖まで、見逃されていない。


 教室で、俺の手をこんなに見ていた奴はいない。胸の奥がくすぐったくて、束の端をそろえるだけの指がもたついた。


「ネリカは、塔の見習いです。……写しを、教えてください!」


 娘の首の木札を、ヨルカが持ち上げる。木札が紙の束に当たり、こつりと鳴る。


「魔術師の塔の見習い。木札にも、そのとおり書いてあります」


「月岡さまが紙を持つ時、左の親指だけ動かないんです! そこも覚えました!」


「そこは、紙を落とさないためだよ。絵を描く時にも押さえるだろ?」


「はい! では、次は陣ですね!」


 差し出す指に迷いがない。俺は四十二枚の束へ、もう一度目を落とした。


 娘の指が俺の手と同じ形になる。断れば、その指まで下がる気がする。頼まれると断れない癖は、まだ抜けていない。


 俺は閲覧室の卓へ、最初の夜の鉛筆の頁を、折り目を伸ばしながら広げた。


「なら……やってみようか? まず、この頁を裏から透かして、なぞってくれ」


「墨も持ってきました! 師匠の壺から取った物ではありません!」


 ネリカは外套から小瓶を取り出す。底の黒い墨が、瓶を傾けた側へゆっくり流れた。栓の隙間から漏れる鉄に似た匂いが、古い紙の匂いへ混じる。


「三年、魔石の屑を集めて、自分で擦りました!」


 ネリカは小瓶の栓を抜く。短く息を吸い、筆を握った。


「塔の見習いには、砕いた屑が毎月もらえるんです! 袋に溜めれば、ちゃんと墨になります!」


「その小瓶は、集めた物の一部なんだね?」


「はい! 全部なら壺まで擦れます。まだ、袋に残っています!」


 俺の頁を灯にかざし、裏から羊皮紙へ線をなぞる。ネリカの指は、絵にあった角度を確かめるように、ゆっくり俺の手を真似ていく。


 ヨルカが二枚の角を、ずれないようそろえた。


「線は、同じに見えます。小石を載せてください」


「はい! 最後の一本、つなぎます!」


 筆が下りる。小石も黒い線も、羊皮紙の上から動かない。俺は息を止め、線のつなぎ目を見つめる。


 ネリカが筆を浮かせる。紙と灯を見比べ、もう一度、筆先を確かめた。


「……光り、ません」


 羊皮紙の上は、しんと静かなままだ。筆先から、黒い滴が一つ落ちる。ぽつりと増えた黒い点に、目が吸い寄せられる。


「待ってくれ。俺も同じ頁から描く」


「持ち方が違ったんでしょうか? 月岡さま、もう一度、手を見せてください!」


 俺は隣へ新しい羊皮紙を置いた。朝に書いた三谷への手紙には、猪瀬は着いたか、とだけある。


 鉛筆の頁を裏から同じ大きさで写し、一つ目の壺から匙一杯の陣墨を取った。


「同じ持ち方だよ。ヨルカ、灯をそのまま」


「ネリカさんの線も、横に置いておきます」


 畳んだ手紙を載せ、最後の一本をつなぐ。光の向こうに、朝の教室が見えた。人の影はない。窓から差す朝日が、並んだ机の天板を白く光らせている。


 光が閉じると、灰の上にノートの頁が残る。俺は灰を払うように、そっと紙を持ち上げる。


「返ってきました! これは、向こうの紙ですか?」


「三谷の字だ。読むよ」


 開いた頁には、昨夜置き直した、とある。猪瀬が着いたあとの手紙だ。薄い紙を持つ指に、ようやく力が入る。


「『猪瀬くんは、大福と寝てます。お母さんに、すごく怒られてた』」


 扉の外で見張りの兵が吹き出す。ヨルカまで口の端を動かすので、俺は紙を少し下げる。


「犬には会えても、お母さんからは逃げられなかったんだね」


「大福さんは、ちゃんと待っていました。三谷さんの手紙のとおりです」


「月岡さま……どうして、そちらだけ光るんですか?」


 ネリカの小石はそのまま、墨も黒い線のままだ。隣には、俺の紙の灰が残っていた。


 目にかかる前髪を、俺は払えない。さっきまで見られていた手を、卓の端にそっと置く。頼まれて、できると言えないのは初めてだ。断るのとは違う。本当に、分からない。


 四十二枚の手の絵は、すぐ目の前にある。その前で、俺の声だけが小さくなった。


「教えられない。……俺にも、光る理由が分からないんだ」


「こんなに見て覚えても、駄目なんですね……」


「ネリカの線は、全部合ってた。絵なら、俺より上手いよ」


「合ってても、光らないんですね。……そっちのほうが、悔しいです!」


 俺はうなずく。言葉を足せば、この線のどこかが悪かったように聞こえそうだ。ネリカは筆を置き、光らない紙を、皺をつけないよう両手で持ち上げた。


       ◇


 昼前、入口へ卓を寄せると、見張りが塔の魔術師の来訪を帳面に記している。宮廷魔術師が兵二人を連れて段を上がった。


「宰相閣下の命である。塔の者が、おまけの〈写し〉を習うことを禁ず。戻らねば、破門だ」


 長い袖を払い、魔術師がネリカの紙へ手を出す。紙を抱えた腕の手前で、その指がぴたりと止まる。


 袖だけが振れ、小瓶の口をかすめる。かつん、と乾いた音がして、袖の先が黒く染まった。


「師匠、袖が……!」


「その紙を渡せ。塔で習うべき手は、私の手である」


 ネリカは束を胸へ抱え直す。動かない師匠の手の下で、黒い袖だけが揺れていた。


 判定の日の声が、耳の奥でよみがえる。俺をおまけにしたのは、この声だった。


「あの日は、〈写すだけ〉とおっしゃいましたね」


 魔術師の視線が俺へ移る。俺は卓に添えた手を動かさず、その目を受け止める。


「塔は百年、陣を写しておる。おまけの手など、要らぬ」


 ネリカが束を抱いたまま、一歩前へ出る。


「百年、一度も光っていません。……ネリカの線も、今朝、光りませんでした」


 連れてきた兵二人が顔を見合わせる。扉の見張りも筆を止め、魔術師の黒い袖へ目をやった。


「弟子が師の言葉を遮るでない!」


「でも! ネリカの紙は、ここにあります!」


 ネリカが羊皮紙を示す。なぞった線を隠さないよう、端をつまんでいる。師匠の指は、その紙にも届かない。


「三日のうちに戻らねば破門だ。塔へ戻るぞ」


 魔術師は手を引き、兵と段を下り始めた。ネリカは束を卓へ置くと、離れかけた足を止めて俺のそばへ戻る。


 石段を下りていく足音に隠すように、娘の声が低くなった。


「写しは、習えません。……でも、墨なら擦れます」


「頼む。俺が描く線には、その墨が要る」


「一月、ください。……溜めた屑を、全部擦ってきます」


 ネリカが鼻を袖でこする。黒くなった鼻を指すと、娘は別の袖を持ち上げる。そこは、まだ墨に染まっていない。


「えへへ!」


 段を下りかけた娘が、卓に残した束を見てから、俺だけへ振り返った。


「それと……宰相閣下が、勇者さまの聖剣を取り上げるそうです」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。