15. 二番目の帰還
十七日目の朝、見張りは二人とも扉の外へ戻っていた。開いた戸口から、床を冷やす風が入る。
三谷へ送る紙には、今夜、と書く。それだけの文字なのに、鉛筆を持つ指に力が入る。
羊皮紙へ同じ陣を裏から写し、匙一杯の墨で線をなぞった。
戻ったのは写真一枚で、白い犬が写っている。裏返すと、三谷の字があった。
俺は裏を猪瀬に向け、息を整えて声に出して読む。
「『手術、終わりました。大福は元気。散歩は私が行ってる。猪瀬くんの夜、教室で待ってるね』」
夜は先生が鍵を開けて付き添ってくれる。大福は散歩の帰りに連れていく。そのことが裏の端に、小さな字で添えてある。
「先生まで巻き込んでんのかよ……」
五分刈りの頭を前へ傾け、猪瀬が両手で写真を取った。
垂れた耳も、鼻の横の小さな点も、はっきり写っている。
写真の表は灯を受け、つやつやと光る。この世界で他に見たことのない光が、猪瀬の指の間に、帰る場所を映している。
「……太ったな、大福。三谷、餌やりすぎだろ」
「これが、大福ですか?」
頬のインクの染みをこすりながら、ヨルカが写真へ顔を寄せた。
「そうだよ。……この腹、見ろよ。散歩に行ってんのか、ほんとに?」
「行っている、と三谷さんの手紙にあります」
「分かってるっつの! でもよ、俺がいねえのに……」
「大福は、お前の顔を忘れてないよ。今夜、自分で確かめてこい」
「……忘れてたら、三谷に文句言うからな」
猪瀬の声が鼻にかかる。写真の端をつまむ指が、そこで止まった。
俺は手紙の灰を払う。返事を急かさず、指を動かす。
「三谷も、大福も待ってる。文句は、向こうで言え」
「……ああ。写真、ここで曲げねえようにしとく」
◇
昼、俺は三つ目の壺を開けた。鼻の奥に、墨の匂いが広がる。
百枚を一枚ずつ灯に透かし、列を逆にして、冷えた床へ裏から写す。
同じ大きさの線が、床いっぱいにつながった。
ヨルカが灯を持ち、猪瀬が慎重に番号を追う。
「十の一、十の二……ここが最後の列か?」
「そこで百枚だ。番号どおりに並んでる」
「まだ、真ん中に入っちゃ駄目なのか?」
「乾くまで踏まないでくれ。立つのは、真ん中ができてからだ」
指の絆創膏が見える手で布を抱え、柿本が戸口から入ってきた。
広げた布の中に、握り飯が並ぶ。墨の匂いへ、米の甘い匂いが混じる。
「向こうに着いたら腹が減るだろ。握り飯だ、持ってけ」
俺は陣墨の筆を浮かせ、猪瀬を見た。
「今、食べていけ。向こうに着いたら、大福が離さない」
「だな! あいつ、俺が飯食ってても膝の間に顔を突っ込むからな!」
猪瀬は陣の縁で一つ目を口へ運ぶ。飲み込む間に、もう二つ目、三つ目へ手が伸びる。
「三つ。……もう、三つです」
「いちいち数えるなよ! 数えられたら、食いすぎみてえだろ!」
柿本は四つ目を出した。いつもの癖で椀まで出しかけ、布の脇へ引っ込める。
猪瀬は握り飯とヨルカを交互に見る。柿本が返事を待たず、握り飯を揺らす。
「食うのか、食わないのか?」
「食うっつってんだよ。……四つ目まで言うなよ!」
ヨルカが口を開くより先に、猪瀬が受け取った。
最後の一本を残し、俺は筆を離す。肩がようやく軽くなる。
夕方、床の墨が乾いたころ、槍の石突が入口の段を荒く鳴らした。
見張りの兵二人が扉を通り、床の線へ槍を向ける。
「宰相閣下の命だ。おまけの陣を、消せ」
石突が床をこすり、細い墨の線が三本欠けた。乾いた粉が、灯の下へ散る。
ヨルカが灯を上げ、兵の槍へまっすぐ向き直る。
「線に触らないでください! 今夜、猪瀬さんが帰る陣です!」
「触るな、だと? 閣下の命が上だ!」
もう一人の兵が槍を持ち直し、ヨルカへ顎を振る。
「命令だ。おまけの描いた線は、すべて削れ!」
奥から箒が現れ、こつんと兵の槍の柄に重なった。
三本きりの歯を見せ、シヅ婆さんが欠伸をしながら二人の間へ進む。
「人の掃除場で、槍なんか突いて何してんだい?」
「宰相閣下の命だ! その箒を下げろ!」
箒が二本の槍をまとめて横へ払い、兵の靴が入口まで滑った。槍を上げる暇もない。
シヅ婆さんは、いつもの調子で次に掃く所へ進む。
「ば、婆あ、それ以上近づくな!」
「床を汚した連中に、掃除の仕方まで言われるかね?」
「閣下へ申し上げるぞ! 初代勇者でも――」
箒の先が兵の足元をさらう。
「うわぁぁぁ!」「ひぃっ……!」
威勢のいい声が、途中で裏返る。
婆さんは二人を、扉の外まで掃き出した。
「ごみは外だよ。そこをどきな、まだ掃くんだからね」
ヨルカが紙の束を開く。俺は削られた線の前へ膝をつく。
「欠けたのは、七の十です。元の線は、この紙に書いてあります」
七の十の大紙を受け取り、俺は灯の前へそっと持ち上げた。
失われたのは床の三本だけだ。この紙には、三本とも残っている。
「七の十、写し直す。ヨルカ、灯をそのまま頼む」
ヨルカの灯が、少し揺れる。紙の影が、俺の指を横切る。
「……線が削れた時、もう閉じられないかと……」
紙に透ける線と、床に残る線の端を、息を詰めて合わせる。
三本だけを同じ大きさで写し、一つ目の壺から匙一杯の墨を取った。
「端はちゃんと見えてる。描き足す形を考える必要はないよ」
陣墨でなぞると、欠けた三本が元の位置へ戻る。指のこわばりも、少しずつほどける。
俺は壺を静かに傾け、残りを確かめた。
「一つ目は、半分だ。ここに蓋をしておこう」
夜、窓の外に人が集まる。シヅ婆さんは奥で箒を抱えている。
茶色に染めた髪の宝来が、入口の柱の横に黙って立った。
猪瀬は写真を握り、陣の真ん中へ歩く。踏むのを待たされた線を、今度は自分の足で越えていく。
「行けよ、猪瀬。……向こうで、大福に噛まれてこい」
「煌真。次は、先頭で止まんなよ」
宝来が猪瀬の顔を見た。
柱の前から、足は動かない。俺は返事を待つ。
「分かってる。次は、ちゃんと声を出す」
「聞こえるようにな! 俺がいねえからって、黙んなよ!」
「……向こうで、俺のこと聞かれたら」
「勇者やってるって言っとく。止まったことは言わねえよ」
宝来が短く息を吐き、柱に背を預けた。
柿本は握り飯の布を畳む。角を揃える手が、いつもより少し遅い。
「鍋は俺が続ける。残った皆の分は、城で作るよ」
「俺の分、余らせんなよ。泣いてる奴に、食わせろよ!」
「食わせる。お前は、向こうで飯食え」
シヅ婆さんが箒の柄を床へ立てる。
「ラムネは瓶だよ。忘れちゃいけないよ」
「三谷に言っとけよ! 俺に頼んだら、全部大福の話になるぞ!」
猪瀬が写真の縁を握り直した。
俺は目にかかる前髪を払い、最後の隙間へ筆を向ける。墨の匂いを胸に吸い込み、息を細く吐く。
「月岡! 二番目、行ってくる!」
俺は筆を下ろし、最後の一本をつないだ。
床いっぱいの線が光り、向こうに夜の教室が開く。灯の色が、その明るさにかき消される。
机の間に、黒縁の眼鏡の三谷と、その足元に白い犬が見えた。
犬の声が届く。光の向こうで、猪瀬が机の間を抜け、その犬へ走る。
白い犬が猪瀬へ跳び、猪瀬は受け止めるように、その前へ膝をついた。
「大福!」
光の中で、猪瀬の背中が小さく見える。城の犬小屋の前に座っていた背中だ。
犬が、猪瀬の顔を夢中で舐める。写真を握っていた手は、もう犬の背中にある。
三谷が、こちらへはっきり手を上げた。
光が閉じる。灰の上には、灰色の石が一つだ。犬の声が、耳の奥に残る。
ヨルカが刻印へ灯を寄せると、宝来が柱から離れた。
窓の外の顔が、石から空いた陣へ動く。猪瀬の大声だけが、部屋から抜けている。
「供え石です。二人目も、向こうへ着きました」
シヅ婆さんが箒を膝へ戻す。誰も、すぐには口を開かない。
人が散ったあと、ヨルカが扉の外へ目を向けた。壁際に座る人影が、俺の手を見ては紙へ手を戻す。静まった戸口に、紙をこする音が残る。
「扉の外の方、閉館です。……どうして、トーゴの手を見ながら描いているんですか?」




