14. 手は、膝のまま
十六日目の夕方、卓の前へ椅子を戻した。昨日の問いが、まだそこに座っている気がする。
扉の外では、見張りが来る者の名前を記している。
夕方の光が斜めに差し、卓の上の三枚の絵に長い影を置いていた。紙の端だけが、薄く透けて見える。
扉の外で、見張りが声を上げる。
「聖女が来ました。……供の兵はいません」
金色に染めた巻き髪の姫崎が、一人で段を上がってくる。後ろには、広場が見えるだけだ。
俺が椅子を示すと、姫崎は卓の前に座った。椅子の脚が小さく鳴る。両手は膝にある。
付けまつ毛の大きな目が、三枚の絵でなく、俺の鉛筆を見ている。
ヨルカが頬のインクの染みをこすり、前の三枚の絵を開いた。紙が重なる乾いた音に、姫崎の肩がわずかに上がる。
耳のそばに手のある二枚と、手を下ろしている一枚が並ぶ。あの日の仕草が、薄い紙の上に残っている。
「読む前と後に冊数を確かめること、と書いてあります。今日はこの三枚に、四枚目を足します」
「記録にすんな! あたしの顔、まだ残してたの?」
ヨルカは絵の端をそろえる。紙の角が、ずれのない線になる。
姫崎は三枚目だけを見て、口を閉じた。さっきの勢いが、卓の向こうで途切れる。
「記録です。トーゴが描いた物を、捨てる理由はありません」
「……三枚で十分だって。まだ描くの?」
俺は目にかかる前髪を上げ、鉛筆を取る。木の軸が、指にしっくり収まる。
「前は四枚目を白いまま残した。今日は、話を聞いてから描く」
「どうせ、言う前から嘘だって決めてるんでしょ?」
姫崎は俺の鉛筆を見た。視線を受ける手を、俺は紙の上へ急がせない。
白い紙にはまだ、一本の線もない。
「決めてない。見えたとおりに描くよ。話してくれ」
「……結局、その三枚と同じにする気なんだよね?」
「同じなら、同じ絵になる。違えば、違う絵だ」
ヨルカが三枚の横に場所を空ける。卓の木目が、紙のないところだけくっきり見えた。
姫崎はそこを見て、言いかけた口を一度閉じる。唇が離れるまで、俺も鉛筆を動かさない。
「あの日、笑ったよ。かわいそーとも、キモッとも言った。……言いつけたのも、あたし」
鉛筆の線が、髪の先から肩へ進む。あの日の声が、まだ耳に残っている。けれど、描くのは今ここにいる姫崎だ。
かすかな鉛筆の音だけが部屋にあった。膝の上の指は組んだりほどけたりするが、耳たぶへは一度も行かない。
絵の右手も左手も、膝の上へ描いた。紙の上では、指がほどける途中で止まっている。
「四枚目だ。手は、膝から動いてない」
「笑って、ごめんなさい。……三谷さんにも、言いたい」
俺は鉛筆を紙の横へ置く。指から重みが離れても、返す言葉はすぐに出てこない。
顔を上げると、姫崎の目は俺の顔に向いていた。鉛筆を見ていたさっきとは違う。俺も、目をそらさない。
「あの日の笑いの分、受け取った。五番目だ、姫崎」
入口で座っていた猪瀬が、五分刈りの頭を上げる。声が、入口から飛んでくる。
「五番目かよ! ……柿本の次だな」
指を折りかけた猪瀬は、手を下ろして黙った。続きを待つ空気だけが、入口に残る。
姫崎は四枚目を見ず、俺の顔を見ている。顔をそらせば、それだけで返事になってしまいそうだ。
「ほんとに……今のを、受け取ってくれたの?」
「受け取ったよ。五番目の前には、三人待ってる」
「……長いね、順番」
「長い。でも、順番は動かない」
姫崎は膝の上で、指を一度だけ握る。声を待つ間に、外を渡る風が卓の紙をかすかに揺らす。
「……分かった。三谷さんには、手紙で……あたしが言ったって」
語尾が消える。俺は書きかけの手紙の紙を、卓の端へ寄せた。
日本の字で宛名だけがある、次の取り替えに使う紙だ。宛名の下は、広く空いている。
「次の手紙に書く。三谷にも謝りたいって言ったことも、そのまま伝える」
「言いつけたのも、書いていいから。……そこだけ消さないで」
俺は宛名の下へ、姫崎の名を書き込む。鉛筆の先で、紙が小さく鳴った。
扉が鳴り、外の足音がそこで止まる。返事をする間もなく、卓へ伸びる光が陰る。
指輪だらけの指が扉の縁へかかる。宰相の後ろから、兵二人が入ってくる。冷えた外の空気と、靴についた土の匂いが流れ込んできた。
ヨルカは四枚目を、前の三枚と重ねずに押さえる。紙の端が浮いても、指はそこを離れない。
「聖女はこの国の物だ。順番など買わせぬ」
宰相は俺を見ず、座っている姫崎へ目を向ける。椅子ごと城へ引き戻すような目つきだった。
「恐れ入りますが、答えは姫崎が持っています」
俺が鉛筆から手を離すと、宰相の指が指輪を回す。小さな光が、指の動きについて回る。
姫崎の顔は、その指から宰相の顔へ上がる。宰相が口を開くまで、その顔を見ていた。
「そなたの癒しが要る兵が、何人いると思う?」
姫崎は両手を膝に置いたままだ。椅子も、足元も動かない。
「ゼロ。あたしの癒し、しもやけしか治したことないもん」
宰相の後ろで、兵の一人がもう一人へ目を向けた。靴底が、床をかすかにこする。
隣の兵は自分の靴へ視線を下げる。さっきまでそろっていた立ち姿が、そこだけ崩れる。
「……閣下。確かに、しもやけでした」
「何、その顔。あたしが違うこと言ったみたいにしないでよ!」
姫崎が兵を見る。宰相の、指輪を回していた指は途中で止まる。指輪の光も、同じところで動かない。
「今、あたしの癒しが要るってさ。足、まだ冷たいわけ?」
「いえ。今は歩けます。……その時も、歩けました」
もう一人の兵もうなずく。宰相へ向ける言葉は、それ以上続かない。
宰相は二人を見回し、握った手を体の横へ下ろした。
「聖女。国に与えられた役を忘れるでない」
「忘れてないよ。だから、あたしが治したものを言ってるんじゃん!」
「兵よ、聖女を城へ戻せ!」
姫崎の椅子の脚が床をこする。耳に残る短い音に、俺は卓の端へ手を置く。
夕方の光はもう卓の端まで下がり、四枚目の紙だけが白く残っている。そこに描いた手は、膝の上のままだ。
兵二人が道を空けると、姫崎は自分で立ち上がった。誰の手も、姫崎に触れない。
「城には戻る。順番が来るまで、聖女はやる。……でも、謝ったのは本当だから」
宰相は答えず、兵を連れて先に段を下りる。靴音が広場へ遠ざかった。
四枚目を残して、姫崎は入口へ進む。俺の前を通る靴音には、もう兵の足音が重ならない。
俺も卓を離れ、輪の内側から段を見た。外の風は冷え始めている。
「明日の夜、猪瀬を帰す。三谷への手紙は、その朝に送る」
「……あたしの分、ほんとに書いてよ」
姫崎の足が、段の縁で一度止まる。先に行った靴音との間に、風の音が入る。
「書く。宛名の下に、もう名前がある」
姫崎はうなずき、自分の足で段を下りた。足音は、広場のざわめきに混じっていく。
扉の脇に立つ見張りの片方が、紙を畳む。ぱさり、と乾いた音が耳に残る。
次の瞬間、広場を走る靴音が北へ遠ざかった。さっきの靴音より、ずっと速い。
猪瀬が入口に来て、残った見張りの顔を見る。
「おい月岡。見張りの片っぽが、城へ走ってったぞ。……明日の夜って、聞かれたな」




