百万人
2002年6月30日。
日曜日。
午前七時。
ARC本社。
悠はゆっくり目を開けた。
「……。」
天井。
見慣れない。
数秒。
ここが会社だと思い出した。
机に突っ伏したまま寝ていたらしい。
顔を上げる。
開発室。
ひどい有様だった。
椅子を並べて寝ている社員。
机に突っ伏している社員。
床で寝ている社員までいる。
少し離れたソファ。
白石が丸くなって寝ていた。
西園寺は椅子に座ったまま口を開けている。
悠は少し笑った。
そして。
気付く。
一人。
普通にパソコンを見ている男。
「九条。」
「何。」
「お前。」
「寝た?」
「寝てない。」
「寝ろ。」
「まだ見る。」
「何を。」
「サーバー。」
「大丈夫、だから寝ろ。」
九条は少し考える。
「あとで。」
「今寝ろ。」
「……。」
悠は苦笑しながら。
大型モニターを見る。
数字はまだ動いていた。
**登録者 287,421**
悠の眠気が少し飛んだ。
「……増えてる。」
九条。
「うん。」
「夜中も?」
「ずっと。」
公開から十一時間。
昨夜。
二十万人。
そして。
今。
二十八万人。
勢いは落ちていない。
(相棒。)
『おはようございます。』
(おはよう。)
『登録者数。』
『順調に増加しています。』
(広告の効果か。)
少し間。
『それだけではありません。』
悠が大型モニターを見る。
(どういうことだ。)
『後ほど。』
『興味深いデータをお見せします。』
悠は眉を上げた。
(なんだよ。)
『まず。』
『九条玲司を寝かせることを推奨します。』
悠は九条を見る。
「相棒も寝ろって言ってるぞ。」
九条が振り返る。
「誰?」
「……。」
悠は固まった。
「俺の心の声だ。」
九条。
「お前も疲れてる。」
「お前に言われたくない。」
◇
その日の午後。
九条がようやく寝た。
三時間だけ。
そして。
起きて最初にしたことはサーバーを見ることだった。
午後二時。
財務部。
担当者の机に一枚の紙が置かれた。
「……。」
財務担当者が紙を見る。
もう一度見る。
そして九条を見る。
「九条さん。」
「何。」
「これ。」
「はい。」
「設備予算ですよね?」
「うん。」
「桁。」
「合ってます?」
「合ってる。」
財務担当者はもう一度数字を見る。
サーバー。
ストレージ。
ネットワーク機器。
バックアップ設備。
予備機。
回線増強。
そして。
今後の利用者増加を前提にした。
追加設備。
かなりの金額だった。
「……。」
「少し抑えられませんか?」
九条。
「無理。」
即答だった。
「いや。無理と言われても。」
「ARCBOOKは始まったばかりですし。」
「利用者がどこまで増えるかも。」
「増える。」
「それは分かりますけど。」
「増える。」
財務担当者は困った顔をした。
そこへ悠が通りかかった。
「何してるんだ?」
財務担当者が助かったという顔をする。
「社長。」
「ちょうどよかったです。」
九条が紙を悠へ渡す。
「設備が欲しい。」
悠は見る。
そして一瞬止まった。
「……結構いくな。」
九条。
「いる。」
財務担当者がすぐに続ける。
「もちろん必要な設備なのは分かります。」
「ただARCBOOKはすでにかなり大きな先行投資をしています。」
三億円の広告。
開発費。
人件費。
そして。
さらに。
設備投資。
「ですので。」
「一度。」
「優先順位を付けて少し抑えることも。」
悠はもう一度紙を見る。
(相棒。)
『九条玲司の要求は妥当と判断します。』
(全部?)
『はい。』
『現在の成長速度を考慮した場合。』
『むしろ余裕は大きくありません。』
悠は少し笑った。
(やっぱりか。)
紙を九条へ返す。
「全部やろう。」
財務担当者が目を見開く。
「全部ですか?」
「ああ。」
「でも社長。」
「予算が。」
悠は軽く手を上げる。
「他は削っていい。」
「でも。」
悠は九条を見る。
そして言った。
「設備は削るな。」
九条が悠を見る。
「ARCBOOKはこれからもっと増える。」
「そこでまた落ちました。」
「設備が足りませんでした。」
「じゃ話にならない。」
財務担当者は黙る。
悠は続ける。
「広告に三億使って人を集めて。」
「その人たちを設備不足で追い返したら。」
「何のために金を使ったのか分からない。」
「……。」
「必要な設備なら先に買う。」
「余ったら?」
財務担当者が聞く。
悠は笑った。
「その時は。」
「九条に文句言おう。」
九条。
「余らない。」
即答。
悠が笑う。
「だそうだ。」
財務担当者はため息をついた。
「分かりました。」
「設備予算。」
「優先で組みます。」
悠が頷く。
「頼む。」
九条が紙を持って立ち去ろうとする。
悠。
「九条。」
「何。」
「今度は。」
「どこまで耐える?」
九条は少し考える。
「今?」
「ああ。」
「設備入ったら。」
「百万。」
悠が止まった。
「……同時接続?」
「うん。」
財務担当者も止まった。
九条は何でもないように続ける。
「最初からそれくらい作る。」
悠は少し笑った。
一度落ちた。
だから。
次は落ちないようにする。
九条にとってそれだけだった。
(相棒。)
『九条玲司らしい判断です。』
(ああ。)
悠は遠ざかる九条の背中を見る。
(でも。)
(百万はやりすぎじゃないか?)
『現在の成長率を考えれば。』
『賢明です。』
(マジかよ。)
◇
その日から。
ARCBOOKの裏側でも。
大きな変化が始まった。
追加サーバー。
追加ストレージ。
ネットワーク機器。
回線増強。
バックアップ設備。
予備機。
次々に。
発注。
設置。
設定。
九条は開発チームを連れて設備そのものを作り直していった。
昨夜。
十八万人で落ちたシステム。
それを。
三十万人。
五十万人。
そして。
百万人へ。
利用者が増えてから対応するのではない。
増える前に作る。
九条はもう昨日と同じ失敗をするつもりはなかった。
◇
7月3日。
公開から四日。
登録者。
**40万人突破。**
ARC本社。
悠は。
AIがまとめたデータを見ていた。
(相棒。)
(これか。)
『はい。』
流入経路。
テレビ広告。
雑誌。
新聞。
ラジオ。
交通広告。
そして。
口コミ。
検索。
他のホームページからのリンク。
悠は数字を見る。
(広告からの割合落ちてるな。)
『はい。』
悠の眉が動く。
(まずくないか?)
『逆です。』
(逆?)
『広告経由の利用者が減っているのではありません。』
『広告以外から来る利用者がそれ以上の速度で増えています。』
悠の目が少し大きくなる。
『口コミ。』
『検索。』
『個人ホームページ。』
『掲示板。』
『ニュース記事。』
『利用者同士の紹介。』
悠はしばらく数字を見る。
そして理解した。
「自分で増え始めた。」
『はい。』
『広告によって最初の火はつきました。』
『現在は。』
『利用者自身が次の利用者を呼んでいます。』
悠は椅子へ深く座る。
三億円。
大きな賭けだった。
だが。
広告だけで永遠に利用者を集めることはできない。
広告を止めた瞬間成長も止まる。
それでは成功とは言えない。
でも。
今。
ARCBOOKは。
自分で走り始めていた。
悠は少しだけ笑った。
「これならいけるな。」
『はい。』
◇
7月7日。
登録者。
**50万人突破。**
そしてこの頃から別の変化が起き始めた。
西園寺が一枚のランキング表を持ってきた。
「社長。」
「これ見てください。」
「何だ?」
「人気記事ランキング。」
悠は受け取る。
一位。
人気女優。
二位。
歌手。
三位。
プロ野球選手。
四位。
お笑い芸人。
ここまでは予想通り。
しかし。
五位。
悠の目が止まる。
知らない名前。
「……誰?」
西園寺が笑う。
「会社員です。」
「会社員?」
「はい。」
「普通の。」
悠はその記事を開いた。
タイトル。
**今日も上司が絶好調です。**
内容は。
会社で起きた出来事を面白おかしく書いたもの。
もちろん会社名も人物名も出していない。
だが。
文章がとにかく面白い。
悠は途中で吹き出した。
「何だこれ。」
西園寺も笑う。
「面白いでしょう。」
コメント。
数百件。
お気に入り。
数千。
さらに。
別の日の記事。
その次。
その次。
全部。
読まれている。
「この人。」
「有名人なのか?」
「いいえ。」
「ARCBOOKを始めるまで。」
「完全に普通の人です。」
悠はランキングへ戻る。
八位。
今度は主婦。
毎日の料理。
写真。
簡単な作り方。
そして。
十位。
大学生。
毎日一枚の漫画を描いている。
どちらも無名。
西園寺が不思議そうに言う。
「面白いですね。」
「最初は有名人を見に来るサービスだったのに。」
「今は知らない人の記事を何万人も読んでる。」
悠は画面を見る。
そしてゆっくり笑った。
「始まったな。」
西園寺が首を傾げる。
「何がです?」
悠は会社員の記事を見る。
「今までは有名だから読まれた。」
西園寺が頷く。
「はい。」
「でも。」
悠はランキングを指差す。
「これからは逆も出てくる。」
「逆?」
「読まれるから。」
少し間。
**「有名になる人が出てくる。」**
西園寺が黙った。
悠には分かっていた。
未来。
インターネットから無数の有名人が生まれる。
芸能事務所に所属していない。
テレビにも出ていない。
それでも。
何十万。
何百万という人に影響を与える人間。
まだ。
この時代には名前すらない。
だが。
その最初の芽が。
今。
ARCBOOKの中で。
生まれ始めていた。
(相棒。)
『はい。』
(来たな。)
『はい。』
『非常に重要な変化です。』
(未来じゃ。)
(これが巨大な市場になる。)
『その通りです。』
悠はランキングを見る。
まだ何者でもない。
普通の人たち。
でも。
その中から未来の有名人が生まれるかもしれない。
悠は少しだけワクワクしていた。
◇
7月14日。
登録者。
**70万人。**
ARCBOOKは。
さらに広がっていた。
料理。
育児。
旅行。
音楽。
映画。
仕事。
恋愛。
ペット。
趣味。
勉強。
何でもよかった。
誰かが書く。
誰かが読む。
誰かがコメントする。
誰かがお気に入りに入れる。
そして。
また書く。
社内モニターで百人の社員の間に生まれた。
小さな循環。
それが。
今。
数十万人の間で回り始めていた。
AIが静かに告げる。
『相棒。』
(なんだ。)
『利用循環。』
『成立したと判断できます。』
悠は画面を見る。
新着記事。
一秒ごとに次々と増えていく。
「書く。」
「読まれる。」
「反応がある。」
「だから。」
「また書く。」
『はい。』
悠は少し笑った。
「狙い通りだな。」
『はい。』
そして少し間を置いて。
『ただし。』
悠の笑顔が少し止まる。
(なんだよ。)
『成長速度は想定以上です。』
悠は九条を見る。
少し離れたところでサーバーを監視している。
「九条。」
「何。」
「大丈夫?」
「大丈夫。」
「本当に?」
九条は大型モニターを見る。
「余裕。」
悠は笑った。
「ならいい。」
九条は画面を見ながら言う。
「もう落とさない。」
◇
7月21日。
日曜日。
午後。
ARC本社。
その日は珍しく社員たちが大型モニターの前に集まっていた。
数字。
**999,921**
誰も仕事をしていない。
西園寺。
白石。
佐伯。
橘。
高橋。
九条。
そして。
開発チーム。
運営チーム。
営業。
人事。
多くの社員が。
同じ数字を見ている。
**999,944**
白石が小さく言う。
「あと。」
「五十六人。」
西園寺。
「こういう時に限って。」
「止まったりして。」
九条が西園寺を見る。
「落ちない。」
「絶対?」
「絶対。」
「すごい自信ですね。」
九条は少しだけ胸を張った。
「設備いっぱい買った。」
悠が吹き出した。
「会社が金出したんだよ!」
社員たちが。
笑った。
**999,963**
**999,978**
**999,986**
少しずつ。
近付く。
三億円。
全国広告。
初日のアクセス殺到。
サーバーダウン。
二十四分の停止。
そして。
設備増強。
口コミ。
一般人の人気記事。
三週間。
**999,993**
誰も喋らなくなった。
**999,997**
白石が両手を握る。
**999,998**
西園寺が大型モニターを見る。
**999,999**
一秒。
二秒。
そして。
数字が。
変わった。
**1,000,000**
一瞬。
静寂。
次の瞬間。
「うおおおおおお!」
歓声。
拍手。
開発室全体が揺れた。
西園寺が悠の肩を叩く。
「社長!」
「百万ですよ!」
「痛い痛い!」
白石は笑いながら少し泣いていた。
「本当に。」
「百万人……。」
佐伯も笑っている。
橘は大型モニターを見ながら静かに息を吐いた。
高橋も珍しく大きく笑っていた。
九条だけは別の数字を見る。
悠が気付く。
「九条。」
「今日はサーバーじゃないだろ!」
九条。
「大丈夫。」
「分かってる!」
「余裕。」
「だから今日は百万人を喜べ!」
社員たちがまた笑った。
悠はもう一度大型モニターを見る。
**1,000,218**
もう百万を超えている。
三週間前。
まだ存在すらしていなかったサービス。
今。
百万人が使っている。
悠はしばらくその数字を見つめた。
(相棒。)
『はい。』
(百万だ。)
『はい。』
『おめでとうございます。』
悠は少し笑う。
(お前もだろ。)
AIは一瞬黙った。
そして。
『ありがとうございます。』
悠の笑顔が少しだけ大きくなった。
◇
翌日。
新聞。
**ARCBOOK 会員100万人突破**
経済誌。
**個人が情報を発信する時代へ**
テレビ。
「わずか三週間で。」
「登録者百万人を突破したARCBOOK。」
「新しいインターネット文化として。」
「注目を集めています。」
そしてそのニュースを見ていたのは。
利用者だけではなかった。
都内。
あるIT企業。
会議室。
一人の役員が新聞を机へ置いた。
「これ。」
「うちでも。」
「作れないか?」
別の企業。
「ARCBOOK。」
「仕組みを調べろ。」
さらに別の企業。
ホワイトボード。
そこに大きく書かれた文字。
**ブログ事業参入**
「百万人いるなら。」
「市場はある。」
「急げ。」
「先に取られるぞ。」
ARCが作った市場。
そこへ企業たちが動き始めていた。
◇
ARC本社。
悠の机。
新聞一面。
**ARCBOOK 100万人突破**
悠はその記事を読んでいた。
AIが静かに告げる。
『相棒。』
(何だ。)
『複数企業が。』
『類似サービスの開発を開始する可能性があります。』
悠は新聞から目を上げる。
(来たか。)
『はい。』
『ARCBOOKが。』
『市場として認識されました。』
悠は少しだけ笑った。
悠は新聞を閉じる。
「真似させればいい。」
近くにいた西園寺が。
振り返る。
「……何の話です?」
悠は新聞を西園寺へ投げる。
「そろそろ。」
「来るぞ。」
西園寺が記事を見る。
「......競合ですか?」
「ああ。」
「大丈夫なんですか?」
悠は椅子へ深く座った。
「市場ができたってことだ。」
西園寺は少し不安そうに新聞を見る。
悠の中でAIが静かに答えた。
『その通りです。』
そして続ける。
『ただし。』
『真似をすることと。』
『勝つことは。』
『同じではありません。』
悠は笑った。
(そういうことだ。)
百万人。
ARCBOOKは。
一つの市場を作った。
そして市場が生まれれば。
必ず競争相手が現れる。
悠は新聞に並ぶ。
ARCBOOKの文字を見る。
「やっと。」
「来たな。」
ARCBOOKの。
本当の戦いが。
始まろうとしていた。
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