未来のCFO
春。
大学二年生になって最初の週末。
悠は都内の喫茶店にいた。
窓際の席。
テーブルの上には、まだほとんど減っていないコーヒー。
悠は時計へ目を向けた。
午後六時九分。
(本当に来るのか?)
『対象は、三分後に到着します。』
AIが静かに答える。
(相変わらず怖いな、お前。)
『効率的な情報収集です。』
(本人が聞いたら、絶対に引くぞ。)
『聞こえませんので、問題ありません。』
(そういう問題じゃない。)
悠は小さくため息をついた。
今回の対象は。
**橘慎吾、三十二歳。**
中堅電子部品メーカーの経理部主任。
現在の年収は五百八十万円。
役職も。
社内での知名度も。
ごく普通。
だが。
AIのデータベースによれば。
十五年後。
橘慎吾は、売上数千億円規模のIT企業で最高財務責任者を務めることになる。
大型買収。
海外企業との資本提携。
巨額の資金調達。
何度も会社を危機から救い。
経済誌にも特集されるほどの人物になるらしい。
今はまだ。
その片鱗すら、世間には知られていない。
(未来の超大物を、今のうちに引き抜く。)
(改めて考えると、かなりのチートだな。)
『はい。』
AIはあっさり認めた。
『十五年後の推定年収は、一億二千万円です。』
『現在は、五百八十万円です。』
『費用対効果は極めて高いと判断します。』
(本人が少しかわいそうになってきた。)
『なぜですか。』
(未来の自分が一億以上もらえると知らずに、俺に安く引っ張られるんだぞ)
『適正価格での採用を推奨します。』
(もちろんだ。)
(今は未来ほど払えなくても。)
(会社が大きくなったら、必ず見合う報酬を出す。)
『了解しました。』
『長期報酬計画へ反映します。』
その時。
喫茶店の扉が開いた。
一人の男が入ってくる。
灰色のスーツ。
細身。
黒い鞄。
少し疲れた顔。
橘慎吾だった。
『対象を確認しました。』
悠はコーヒーカップへ視線を落とす。
橘は店内を見回し。
悠の一つ隣のテーブルへ座った。
(本当に隣だな。)
『対象は毎週土曜日、この席を利用しています。』
(もう何も言わない。)
店員が注文を取りに来る。
「ブレンドを。」
橘は慣れた様子で答えた。
『対象の注文。』
『過去三年間、変更なし。』
(好きなんだな、ここのコーヒー。)
『違います。』
(違うの?)
『選ぶことが面倒なだけです。』
(細かいところまで夢がないな。)
AIは構わず情報を提示する。
『現在の心理状態。』
『疲労度、六八%。』
『現職への不満、八三%。』
『転職意欲、七六%。』
(結構高いな。)
『昨日。』
『上司との面談で、昇進見送りを通告されています。』
悠の表情が少しだけ変わった。
(理由は?)
『未来のインタビューによると上司の発言です。』
『経理は余計なことを考えず、数字だけ見ていればいい。』
(……なるほど。)
橘は未来で、数字を使って会社を成長させる人物になる。
だが今の会社では。
数字を記録することしか求められていない。
『対象の最大欲求。』
『経営判断へ関わること。』
『財務戦略を立案すること。』
『会社の成長へ、自分の能力を直接反映させること。』
(完全にくすぶってるな。)
『はい。』
『接触準備を開始します。』
(どうすればいい?)
『まず、会話の入口を作ります。』
『コーヒーの話題を推奨。』
(ありきたりだな。)
『警戒心を下げるには効果的です。』
(今すぐ?)
『いいえ。』
『十一分後です。』
悠は思わず時計を見た。
(十一分も待つのか?)
『現在は、一人で考えたい心理状態です。』
『話しかけた場合、会話継続率は二一・四%。』
『十一分後には、四六・八%まで上昇します。』
(微妙だな。)
『最初の会話としては十分です。』
悠は仕方なくコーヒーを飲んだ。
一分。
二分。
三分。
橘は手帳を開き。
何かを書き始めた。
悠には内容が見えない。
だがAIには分かるらしい。
『対象は現在。』
『今後五年間の人生計画を書いています。』
(何て?)
『転職。』
『資格取得。』
『独立。』
『すべて取り消し線が引かれています。』
(かなり落ち込んでるな。)
『はい。』
『残り四分十三秒です。』
(実況しなくていい。)
『残り四分九秒です。』
(黙ってろ。)
長い。
本当に長かった。
ようやくAIが告げる。
『残り十秒。』
悠は小さく息を吐く。
『三。』
『二。』
『一。』
『今です。』
悠は橘のコーヒーカップへ視線を向けた。
「ここのコーヒー。」
「おいしいですよね。」
橘が顔を上げる。
一瞬。
怪訝そうな表情。
「……そうですね。」
『会話継続率、四三・一%。』
(下がってるじゃないか。)
『表情がぎこちないです。』
(俺のせいか?)
橘は会話を終えるように、再び手帳へ視線を落としかける。
AIが即座に告げた。
『次の話題。』
『この店の経営状況。』
(そんな話、急すぎるだろ。)
『対象は財務分析を好みます。』
悠は店内を見回した。
「ただ。」
「この店、あまり儲かってなさそうですね。」
橘の動きが止まる。
「……どうして、そう思うんですか。」
反応した。
(食いついたぞ。)
『会話継続率、六七・二%。』
悠は少し笑う。
「土曜日のこの時間なのに、席が半分空いてる。」
「店員は三人。」
「家賃は高そうです。」
「コーヒー一杯だけのお客さんも多い。」
橘は店内へ視線を向けた。
「回転率も良くないですね。」
「客単価も低い。」
悠が続ける。
「でも。」
「常連は多い。」
「値上げすればいいと思いませんか。」
橘は少し考えた。
「単純な値上げは危険です。」
「この店の強みは、安くて長居できることです。」
「値上げするなら。」
「付加価値を作った方がいい。」
「軽食を増やす。」
「夜はアルコールを出す。」
「席の一部だけ時間制にする。」
悠は内心で感心していた。
少し話を振っただけで。
すぐに数字と経営を結びつけて考えている。
(すごいな。)
『未来の有能CFOですので。』
(まだ主任だけどな。)
会話は自然に続いた。
喫茶店。
飲食店の利益率。
企業の資金繰り。
設備投資。
気づけば。
二人は十五分以上話していた。
橘が不思議そうに悠を見る。
「詳しいですね。」
「......学生さん?」
「はい。」
「大学で経営でも勉強しているんですか。」
「まあ。」
「少しだけ。」
『現在の警戒心、一九%。』
『仕事の話題へ移行可能です。』
悠は頷いた。
「橘さんは。」
「経理の仕事ですか。」
橘の表情が固まった。
「……なぜ、私の名前を?」
しまった。
悠は内心で叫ぶ。
(おい!)
『名札が鞄から見えています。』
悠が橘の鞄を見る。
社員証の端が、ほんの少しだけ出ていた。
(先に言えよ。)
『聞かれませんでした。』
(このポンコツ。)
橘も社員証に気づき、苦笑する。
「なるほど。」
「少し驚きました。」
「すみません。」
「偶然見えたので。」
これは嘘ではない。
自分には見えていなかったが。
AIには見えていた。
橘は警戒を解いた。
「おっしゃる通り。」
「経理です。」
「中堅メーカーで主任をしています。」
「主任。」
悠は少し首を傾げる。
「もったいないですね。」
橘の眉が動く。
「何がですか。」
AIが告げる。
『推奨発言。』
『対象の自己認識を肯定してください。』
悠は静かに言った。
「橘さんは。」
「数字を記録する人じゃない。」
「数字を使って、会社を動かす人だと思ったので。」
橘の表情が変わった。
ほんの一瞬。
だが明らかに。
今までの会話とは違う反応だった。
「……初対面で。」
「よく、そんなことが言えますね。」
『採用成功率、五八・三%。』
(まだ半分か。)
『次の質問を推奨。』
悠は続ける。
「今の会社で。」
「設備投資や資金計画に意見を出したことがありますか。」
橘の目が細くなる。
「なぜ、それを。」
(俺も知りたい。)
『対象は過去に。』
『在庫回転率改善案を提出。』
『年間一億八千万円の資金滞留を削減可能と試算。』
『しかし直属上司が却下。』
『半年後、別部署が同様の提案を行い採用されています。』
悠は言葉を選ぶ。
「話し方を聞いてなんとなくです。」
「経理の範囲だけで考えていない。」
「会社全体を見てる。」
橘はしばらく黙った。
やがて。
自嘲するように笑った。
「買いかぶりですよ。」
「私は、ただの経理主任です。」
『対象の自己評価が低下しています。』
『今です。』
『名刺を提示してください。』
悠は上着の内ポケットから名刺を取り出した。
「では。」
「改めて自己紹介します。」
橘は名刺を受け取る。
最初は何気なく。
そして。
会社名を見た瞬間。
目が止まった。
「株式会社……ARC。」
もう一度見る。
「え?」
顔を上げる。
「ARC?」
「はい。」
「まさか。」
橘は名刺と悠の顔を何度も見比べた。
「ネットショップ事業で急成長している。」
「あのARCですか?」
「たぶん。」
「たぶんって……。」
橘はさらに名刺を見る。
そして役職へ目が止まった。
**代表取締役 神谷悠**
数秒。
完全に動きが止まった。
「代表取締役?」
「はい。」
「神谷悠……。」
橘の目が大きく見開かれる。
「あの学生社長!?」
周囲の客が一瞬こちらを見るほどの声だった。
橘は慌てて声を落とす。
「すみません。」
「でも。」
「本当に?」
「本物です。」
「新聞記事より。」
「少し老けて見えますね。いや、失礼。」
「よく言われます。」
『対象の興味度、九一%。』
『採用成功率、七四・八%。』
(名刺の効果、すごいな。)
『ARCの知名度上昇によるものです。』
橘は名刺を見つめたまま尋ねる。
「そのARCの社長が。」
「なぜ、私に?」
来た。
最も自然で。
最も答えるのが難しい質問。
未来を知っているとは言えない。
AIがすぐに候補を提示する。
『回答案一。』
『業界内の評判を聞いた。』
『成功率、六二%。』
『回答案二。』
『取引先から紹介された。』
『成功率、六八%。』
『回答案三。』
『偶然話して、能力を見抜いた。』
『成功率、七一%。』
(全部、微妙だな。)
『追加分析中。』
悠は少し考えた。
そして。
AIの案を使わずに答えた。
「偶然です。」
「橘さん会いにきたわけではありません。」
これは半分だけ嘘だった。
「でも。」
「話してみて。」
「うちに必要な人だと思いました。」
橘は黙って聞いている。
悠は続けた。
「ARCは。」
「一年で売上十億まで来ました。」
「でも。」
「正直に言えば。」
「会社の成長に、管理が追いついていません。」
「経理担当はいます。」
「税理士もいます。」
「でも。」
「お金を記録する人はいても。」
「そのお金を、次の成長へどう使うか考えられる人がいない。」
橘の表情が変わっていく。
『採用成功率、八二・六%。』
AIが静かに告げる。
『対象の最大欲求へ移行してください。』
悠は真っ直ぐ橘を見る。
「橘さん。」
「あなたに。」
「会社のお金を数えてほしいんじゃありません。」
一度、言葉を切る。
「その数字を使って。」
「ARCの未来を作ってほしいんです。」
橘は完全に固まった。
その言葉は。
今の会社で。
誰にも言われたことのないものだった。
上司からは。
余計なことを考えるなと言われた。
経理は数字だけ見ていればいい。
何度も。
そう言われてきた。
なのに。
目の前の学生社長は。
初対面の自分へ。
未来を作ってほしいと言った。
「……どうして。」
橘の声が、少し震える。
「どうして。」
「私がそれをやりたいと分かったんですか。」
悠は少し笑った。
「経営者の勘です。」
頭の中で。
AIが静かに告げる。
『正答率、八十七%。』
(黙ってろ。)
橘は名刺を握りしめたまま。
しばらく何も言わなかった。
やがて。
小さく息を吐く。
「すぐに転職するとは言えません。」
「もちろんです。」
「家族もいます。」
「今の会社にも責任があります。」
「分かっています。」
悠は頷いた。
「まずは。」
「一度、ARCを見に来てください。」
「会社を見て。」
「社員と話して。」
「数字も確認してください。」
「その上で。」
「断ってもらって構いません。」
橘は悠を見る。
「財務資料まで見せるんですか。」
「必要な範囲で。」
「怖くないんですか。」
「何がです?」
「私が。」
「本当に信用できる人間か。」
悠は笑った。
「そこは。」
「もう確認しました。」
橘は呆れたように笑う。
「やっぱり。」
「変わった人ですね。」
「よく言われます。」
橘はもう一度。
名刺へ視線を落とした。
そして。
ゆっくり頷く。
「分かりました。」
「一度。」
「会社を見せてください。」
悠は静かに笑った。
「お待ちしています。」
喫茶店を出た後。
悠は夜道を歩きながら。
小さく息を吐いた。
(疲れた。)
『採用成功率。』
『九一・七%です。』
(高いな。)
『最後の発言が効果的でした。』
(どれ?)
『その数字を使って、ARCの未来を作ってほしい。』
悠は少し笑う。
(あれは。)
(お前の攻略情報じゃない。)
(俺の本音だ。)
AIは数秒、沈黙した。
『……了解しました。』
『採用要因へ追加します。』
『神谷悠本人の言葉。』
悠は夜空を見上げた。
未来のCFOは。
まだ。
ただの経理主任だった。
だが。
その未来が。
少しだけ。
ARCへ近づいた。
◇
数日後。
ARC本社。
橘慎吾は、会議室の机に並べられた資料を静かに見つめていた。
第一期売上、十億円。
契約企業、一万社。
ホームページ制作、千件。
数字だけを見れば、急成長企業だった。
しかし。
橘が注目していたのは、売上ではない。
「現預金は十分にあります。」
「借入金もない。」
「ですが。」
橘は資料から顔を上げる。
「事業ごとの資金配分が、ほとんど決められていません。」
悠は素直に頷いた。
「はい。」
「設備投資も、新規採用も。」
「必要になった時に、その都度決めています。」
「資金繰り表は?」
「経理担当が作っています。」
「三か月先までですか。」
「一か月先です。」
橘は額へ手を当てた。
「よく、これで十億円まで来ましたね。」
悠は苦笑する。
「俺も、そう思います。」
橘はもう一度資料へ目を落とした。
利益は出ている。
顧客も増えている。
サービスにも将来性がある。
だが、会社の成長速度に対して。
財務管理だけが、明らかに遅れていた。
「このままでは。」
「売上が増えるほど危険になります。」
「利益が出ていても。」
「投資の時期を間違えれば、資金が足りなくなる。」
「逆に現金を持ちすぎれば。」
「成長の機会を失います。」
悠は静かに尋ねた。
「橘さんなら。」
「どうしますか。」
橘は少し考えた。
「まず、事業ごとの収益性を明確にします。」
「次に、半年先までの資金計画を作る。」
「設備投資。」
「採用。」
「サーバー増設。」
「新規事業。」
「それぞれに使える金額を決めます。」
言葉が止まらない。
「銀行との関係も、今のうちに作るべきです。」
「必要になってから融資を頼むのでは遅い。」
「利益が出ている今だからこそ。」
「信用を積み上げておく必要があります。」
話しているうちに。
橘の目から、先ほどまでの迷いが消えていく。
悠は小さく笑った。
「やっぱり。」
「あなたは経理じゃない。」
橘が顔を上げる。
「財務です。」
「数字を記録する人じゃない。」
「数字を使って、会社を動かす人だ。」
喫茶店で言われた言葉が。
再び、橘の胸へ届いた。
悠は一枚の書類を差し出した。
「財務責任者として。」
「ARCへ来てください。」
橘は書類を見る。
役職。
権限。
報酬。
どれも。
単なる経理担当へ提示するものではなかった。
経営会議への参加。
投資計画の立案。
銀行との交渉。
事業ごとの予算管理。
会社の資金戦略を、全面的に任せる内容だった。
「本当に。」
「ここまで任せるつもりですか。」
「はい。」
「俺は財務の専門家じゃありません。」
「分からないものを。」
「分かったふりで握っている方が危険です。」
悠は真っ直ぐ橘を見る。
「だから。」
「橘さんに任せたい。」
会議室に、短い沈黙が流れた。
橘は資料を閉じた。
今の会社に残れば。
安定はある。
だが。
自分が望んでいた仕事は、おそらくできない。
ARCへ移れば。
何が起きるか分からない。
会社は若い。
社長は、さらに若い。
それでも。
ここには。
自分の数字で、会社を動かせる場所がある。
橘はゆっくり息を吐いた。
「引き継ぎがあります。」
「すぐには退職できません。」
悠は頷く。
「もちろんです。」
「家族の納得も必要です。」
「はい。」
橘は少しだけ笑った。
「それでもよければ。」
一度、言葉を切る。
「ARCで。」
「財務を任せてください。」
悠の表情が明るくなる。
「よろしくお願いします。」
二人は立ち上がり。
固く握手を交わした。
未来のCFOは。
その日。
ARCへ加わることを決めた。
◇
橘が帰った後。
悠が社長室へ戻ると、西園寺が待っていた。
「社長。」
「橘さんの件ですが。」
「決まりました。」
西園寺が目を見開く。
「もう決まったんですか!?」
「先日、人材が必要だと話したばかりですよ。」
悠は少し得意そうに笑った。
「まあ。」
「経営者としての魅力かな。」
西園寺は一瞬、悠を見つめた。
そして、妙に納得したように頷く。
「......確かに。」
「社長は変わっていますが。」
「人を引きつける力はありますからね。」
「変わっているは余計です。」
西園寺は笑いながら、社長室を出ていった。
悠は満足そうに椅子へ座る。
その直後。
頭の中へ、冷静な声が響いた。
『違います。』
(何が?)
『相棒が魅力的だったからではありません。』
『未来のデータベースと個人情報分析を利用して。』
『ずるをしたからです。』
悠の笑顔が引きつった。
(うるせぇ。)
『事実です。』
「うるせぇ!」
静かだった社長室に。
悠の声だけが響いた。




